彼の人の下

 夢を見ていた。幼いころの、どうしようもない夢。殴られ、蹴られる柔らかい体。身を丸くしても避けられない痛み。リジーの悲鳴と父母の声。詫びても、嘆いても。痛みはどこまでも続く。
「ごめんなさい……ごめんなさい、母様、ごめんなさい……!」
 肩先に触れた手に、はっとしてエルサリスは飛び起きそうになる。その唇に一本の指。無言の示唆に従い体を強張らせたまま横たわり続ける彼をエリナードは痛ましげに見つめる。が、そのまま隣の寝台へと足を進めた。
「聞こえるか?」
 うなされるイメルの額に乱れる髪をかき上げる。脂汗の滲んだそこはべっとりと濡れていた。吟遊詩人らしく、と伸ばした髪もいまは散り乱れる。
「俺の声が聞こえるか? 俺は、誰だ?」
「……エリ、ナード」
「ここはどこだ?」
「星、花……宮」
「お前は誰だ?」
「……イメル。イメルだ」
 ゆっくりと覚醒していくイメルの目をエリナードは半ば彼に圧し掛かるように見つめ続けている。その藍色の目が、真夜中の居室の中でもイメルを導くかのよう。瞬きをすれば、イメルはイメルとなる。
「ごめん、夢を見てたみたい」
「だな。未熟もんめ」
 くすりと笑いエリナードはイメルの髪を手で梳いた。幼子にするように。それを照れくさく思いつつ、けれど悪夢の残滓がエリナードの手によって溶き流されて行く。
「さすが『エリナード』だよな」
 水の申し子、と名付けられた彼。にやりと笑えばまだ口許が引き攣った。それでもエリナードは小さく笑う。笑えることができるのならばもう大丈夫だろうと。
「まだ夜中だぜ。寝ろよ」
 言いつつも、エリナードはその場に留まったまま。イメルの寝台に腰を下ろし、彼が眠るまでそこにいると。イメルは何も言わない。黙って目を閉じる。その胸を規則正しく叩いてくれる友の手。
 イメルの呼吸が深くなったのを見澄まして、ようやくエリナードは立ち上がる。今度は気をつけているだろうイメルだ、もう悪夢は見ないはず。そのまままだ起きているのが見てとれるエルサリスの肩に手を置き、室外へと促した。
「……すみません」
 部屋を離れるなり、エルサリスは詫びてきた。そんな姿にエリナードは苦笑する。さすがに真夜中の星花宮は多少は静かだった。いくら時間感覚が常人と違うとはいえ、魔術師もごく普通の生き物である以上、たいていは日中に活動をする。
 ――中には夜行性の梟みたいなのもいるけどな。
 内心で小さく笑い、それでもやはり陽のあるうちよりは静かだ、とエリナードは思う。最低限、子供たちは眠っている。
「お前のせいじゃねぇな」
「でも……私がきっと、うるさかったのだと。イメルまで、だから」
「いいや。お前のせいだって言うなら、お前の夢の影響をあいつはもろに受けた。それだけだ。それを防御できなかったのはイメルの未熟」
 が、エリナードはわかっている。未熟なのではない、それはイメルの才能の一つだと。彼は風系魔法の使い手として、呪歌をも操る。そして呪歌には鍵語魔法にはない治癒魔法が存在した。だからこそ、呪歌の歌い手には神官のような共感能力が求められる。エルサリスの悪夢に感応してしまったのは、だからイメルの類い稀なる才能だと。それをたぶんいまのエルサリスに言っても伝わらないだろうからエリナードは言わない。現に真っ青になったエルサリスはエリナードの言葉も聞こえていない様子だった。
「目が覚めちまったからな。ちょっと散歩に付き合えよ」
 これではまだイメルが悪夢を見るかもしれないからお前はあの部屋にいるべきではない、そんな風に聞こえてしまうかもしれない。思ったときにはもう遅い。せめて気を紛らわせてやろうとすれば、こくん、とエルサリスがうなずいていた。
「あぁ……そうだ。いいもん見に行こうぜ」
 なんだ、とも問わない。たった数日ではあるけれど、エルサリスは星花宮の様々なものに興味を示していたというのに。あるいはそれは、変わらざるを得ない自分という存在への無理な変革だったのかもしれない。必死になって無茶をする彼を、エリナードは引き留めたい。それはきっと、自分がそうして師に引き留められたからだ、とエリナードは思う。
「ほれ、綺麗だろ」
 星花宮の、エルサリスはいまだ知らない廊下の一つだった。いわばここが本来の「大通り」なのだが、魔術師たちは勝手気ままに細い廊下を行き来し、あまつさえ使い勝手がよいように、と廊下を作りまでしてしまう始末。結果としてこの離宮時代の大廊下は貴族が見学に来るとき程度しか使われていない有様だった。
「まぁ……」
 打ち沈んだ様子だったエルサリスが声を上げる。きらきらとした眼差しは、本当に美しいものを見た喜びに輝いている。
 大廊下には多くの絵画が飾られていた。風景画や、神話を描いたもの。王家の人々の姿らしきものもある。
「ここは昔、アレクサンダー王が退位したのちに暮らした離宮だからな」
 だからこう言うものがあるのだ、とエリナードは微笑む。そしてエルサリスが導きに従って一枚の絵の前で足を止めた。呆然と立ち止まってしまっているのがエリナードにはわかる。あえて導かなくとも、彼はこの絵の前でこうして足を止めただろう。
「なんて……綺麗なのでしょう。本当に……。見ているだけで、とても優しい気持ちになるような、そんな気が……」
 エルサリスが絵を見つめたまま呟いた。それは窓辺に佇む婦人の肖像。開いたままの窓からどこか遠くを見やっている眼差し。楽しい夢でも思い出しているような、紫に煙る目。豪奢な金髪は丹念に結いあげられ、けれど一筋だけ零れた金糸が白い首筋を飾る。
「子猫も、まるで生きているみたい」
 婦人は窓枠に軽く腰を下ろしているのだろう。砂糖菓子のような青いドレスの膝に夜より黒い子猫を抱いていた。彼女の肩をそっと覆うレースの肩掛けが膝まで零れ、その端に子猫がじゃれている。
「王家の、非公式の肖像さ」
 ふっと笑ってエリナードはエルサリスを絵の前から連れ出した。廊下の端までまだまだ絵はある。王家の、と言われたことにエルサリスは驚いたらしい。他にも王家の絵はあったから、エリナードは一つ一つ解説をしてやる。
「喉乾いたな。ちょっと夜のお茶会と洒落込むか」
 端まで来たときにはもうだいぶ時間も経っていた。それでもエルサリスは興奮冷めやらず、その碧い目を輝かせている。本来の彼はこう言うものに囲まれて穏やかに暮らして行きたいのだろうとエリナードですら思う。
「お茶会、ですか?」
 エルサリスが疑問に思うのも無理はない。エリナードはそのまま星花宮の中庭へと出たのだから。その一角にある魔術師の住処には似合わない優雅な四阿に納まり、エリナードは悪戯をするよう笑う。そしてそこには茶道具があった。
「あ……」
「魔法ってのも便利なもんでな」
 驚くエルサリスをよそに、エリナードは内心でくすぐったい思いをしていた。彼は魔力を失くすためにこそ、訓練をするらしい。だがせめて、魔法を嫌わないでほしいとエリナードは思っている。そしてだからこそ、こんなことをしている。昔、自分が師に見せてもらったのと同じよう、魔法の楽しさを彼に見せている。
「ありがとう。……おいしい」
 淹れてやった茶は、どこにでもある香草茶だった。エルサリスも味に覚えはあったのだろう。どこか懐かしそうな顔をした。
「あ……その……。うまい、と言うべきなのでしょうね。あなたのように」
 苦笑するエルサリスは、やはりおっとりと微笑んでいた。苦く笑っていても、嫋やかであり続ける彼にエリナードこそ苦笑する。
「別にいいんじゃねぇの? 俺はただ柄が悪いだけだしな」
「ですが――」
「あのな、エルサリス。この数日で、お前もうちの魔術師たちを何人か見てるよな? みんな、違うだろ」
 陽気なイメル。無口の権化のようなオーランド。少しばかり皮肉屋のミスティ。体の中が病んでいる、と顔を顰めて指摘してくれたフェリクスに、癒してくれたリオン。エルサリスは軽く唇を噛んでうなずいていた。
「タイラント師だって、会ってるだろ。あの人のきらきらの髪の毛、お前は男なんだから切れって思うか? 男らしくないって」
「いいえ!」
「だったらお前もそれでいいだろ、少なくとも、自分でどうしたいか決めるまでは」
 そう言うものなのだろうか。エルサリスにはわからない。夜風の中、エリナードの茶は心の中まで温かくしてくれるようなよい香りだったけれど、ひどく寂しい心持ちにもなっていた。
「さっきのな、お前が気に入ってた青いドレスの絵」
 ちらりとエリナードはそんな彼を見て微笑んだ。よほど気に入ったのだろう、あの絵の話をするだけでまた見たいな、という顔をする。それでも欲求を面に出してはならないと思うのか、すぐさまエルサリスは何気なく微笑むのだけれど。
「あれ、男だから」
 その笑みが。凍りつき、愕然とし、溶けたときには半ば悲鳴に。エリナードはわかっていたのだろう、からからと笑っている。
「ちなみに、この離宮の元々の主、アレクサンダー王の非公式の肖像だ、さっきのは」
「え……そんな……!」
「巷で知られた話じゃないけどな。王は女装の名手でな。まぁ、描かせる王も王なら描く画家も画家だと俺なんかは思うんだが」
 他にも数枚残っている女装姿の肖像は、いずれも大変な美女の顔。そして公式の肖像を見れば、それが偽りではないことが生憎とわかってしまう。王は男性としてあっても、大変な美貌だった。
「王は、好きこのんで女装をしていたらしいぜ。言ってみれば趣味だな」
「趣味……」
「男の自覚はあったらしいし、別に女になりたかったわけでもないらしい。ただ好きで着てたみたいだ。――お前にそうしろって言ってるんじゃない。そういう人もいたってだけだぜ」
 まぁ参考に、とエリナードは笑う。エルサリスの知っていた世界が音を立てて崩れて行く。同時に、自分の知っていた世界などあまりにも小さいと。
「そうそう。年に一度程度だからな、会えるかどうかはわからん。でもこの四阿。王の幽霊が出るぜ。待ってみるか?」
 驚きに目を丸くし、けれどうなずくエルサリスに夜風が障る、とエリナードはどこからともなく温かな肩掛けを取りだしてはかけてやる。そのまま片手を上げて去って行く彼の後ろ姿をエルサリスは黙って見ていた。




モドル   ススム   トップへ