五日が経ち、十日が経つ。この異常としか言えない星花宮に、エルサリスは適応しはじめていた。なにしろ奇妙なことしか起こらない離宮だ。普通の人間ならば眩暈を起こすか熱でも出すか。が、異常な生家から異常な星花宮に移ってきたことはエルサリスにとっては心安らげることだったらしい。 ――急に普通になれって言われても無理だもんな。 心の中で呟いたエリナードにフェリクスの肩をすくめた気配。エルサリスが落ち着くまでは、と師はこうしてエリナードに接触を続けている。それをエリナードも拒まない。 初めの日にオーランドに頼んだ衣服は、すぐさまと言っていい勢いで翌日には届いた。それにエルサリスは目を丸くしたものだった。 「なんて……すごい」 ぽ、と赤くなった頬もいかにも乙女らしくてイメルは目に楽しく思う。星花宮にも女性魔術師はいるのだけれど、このように「純な女性」はあまりいない。 「な、綺麗でしょ。ほんとオーランド、いい腕してるよねー」 エルサリスの要望も容れた、女性とも男性ともつかない形の衣服だった。甘さや可愛らしさを排したドレス、と言えば女性のようだけれど、優美な魔術師の長衣、と言えばそれらしくもある。あとでオーランドに尋ねれば半エルフ風、だとのこと。 「なんだか、とても楽しいものですね」 それを聞かされたエルサリスはやはり、嬉しそうに微笑んだ。その日からエルサリスは生家で着ていた女性のドレスではなく、オーランドが作った衣服をまとう。 「――それでも、やはりきっと変ですね。男の私が、こんなものを着るのは」 苦笑して、それでもやはり和むのだろう優しい裾の肌触り。足下にまとわりつくそれを見てエルサリスは苦く笑っていた。 「別にいいんじゃないのか?」 不思議そうに言ったのはエリナード。オーランド手製の服は彼にとてもよく似合っていた。それが大事なことで、あとはどうでもいいとエリナードは思っている。 「だいたいお前、好きなんだろ、そう言うの?」 「好き、というか……。男の服は、着たことがないので……なんだか、落ち着かなくて」 「だったらいいだろ、別に。好きで着てるんだったらそれで問題ない。似合ってるしな」 「あ、エルサリス。気をつけろよー? エリナードに口説かれたりすると後が大変だからな?」 「ってどう言う意味だコラ! だいたいこいつは趣味じゃねぇんだよ。最初に言ってあるわ!」 けらけらと笑うイメルと、怒りながらも笑っているエリナード。楽しそうに二人を見るエルサリスも小さく口許をほころばせる。 エルサリスは、まだ魔法の訓練らしきものをしていない。それを不思議に思って彼らに問うたことがあった。答えはあっさりとしたもの。 「魔力の制御ってのは、大変だからね。まず君が落ち着いて色んなことを考えたり乗り越えたりできる気持ちになってないと、逆に危なかったりするし」 「だからとりあえずお前がすんのは、ここで生活すること。寝て食って喋って遊ぶ。まぁ、ガキのすることすりゃいいんだ」 「そうそう。俺たちだってそうやって育った」 からからと笑うイメルと苦笑するエリナード。真実二人はそうしてここで育ったのだとエルサリスは思う。少しだけ、羨ましいとも思った。それが自分で意外だった。 「もし、私にもっと早く魔力があるとわかっていたら――」 そうしたら星花宮で育つことができただろうか。姉の身代わりではなく、自分として。思った途端、あのままでよかったとも思う。少なくとも、ここで育てばイアンと知り合うことはなかった。 あの日別れてから、エルサリスは一度としてイアンの名を口にしていない。自分は姉の身代わりとして婚約者のふりをしていただけだ。イアンにとっては大罪人も同然。けれど、エルサリスにとっては砂糖菓子のように大事な思い出。ふ、と首を振っては真っ直ぐと顔を上げた。いまはそうすることしかできないと。 「エリナード……、尋ねてもいいですか?」 口ごもったのは、呼び捨てにしろ、と言われているせい。どうにも慣れない。それでもそうすることが男として生きる一歩ならば、そうするべきだろうとも思う。エリナードは単に面倒だから、とそう言ったに過ぎないのだけれど。 「ん、なんだ?」 「あの……。あのとき、あの場に、私の乳母がいたのを覚えていますか」 「あぁ、リジーさんな。お前の乳母だったとは思わなかったぜ」 「ほんと羨ましいよなぁ、俺だって会いたかったのに。リジーさんの卵焼き、絶品だったんだから!」 同席していなかったイメルがさも不満そうに唇を尖らせる。子供じみた仕種が妙に似合っていてエルサリスは静かに笑う。 二人に聞いて知ったことだった。かつてリジーがこの王宮で侍女をしていたことは。稀に星花宮にも手伝いに来て子供たちに卵焼きを作ってくれた、と二人は言う。なにやら面倒な事件に巻き込まれて、本人の咎ではないのに王宮を去ることになったとも。 「いま、リジーがどうしているか、ご存じですか」 星花宮に去ってしまって、それだけがエルサリスの気がかり。あの場にリジーを置いて立ち去ってしまった自分に、何度となく唇を噛んだ。けれどリジーを側に呼びたいとは、さすがに言えない。我が儘は、言えない。 「ん、ちょっと待て。――あぁ、師匠が職の斡旋したって言ってるな。大丈夫だ、心配ない」 「どこにいるか……は、その……」 「――教えられないってさ。まぁ、お前の不利になるようなこともリジーさんの無理になるようなとこでもない。とりあえずそれだけは信用してやってくれるか」 苦笑するエリナードにエルサリスは首を振る。信用もなにもない。ただそうするしかできない自分だと彼は知っている。ふと顔を上げた。 「まるで、いま聞いたみたいな口ぶりでしたね。本当に……魔法みたい」 くすりと笑ってエルサリスは笑みを刻んでみせる。もっとも、イメルにもエリナードにも無理をしているとわかる笑みだったのだけれど。無理をするな無茶をするなと言って聞かせてもどうなるものでもない。一度は言ってあるのだからといまは静観中の二人だった。 「みたい、じゃなくって魔法だな。いま俺のここに」 ぽん、とエリナードが自分の胸元を拳で叩く。少し照れた様子なのはなぜだろう。エルサリスが思っているうちにエリナードは言葉を続ける。 「師匠がいる。師匠と、言ってみれば『心が繋がった』状態だな」 「俗に言う、心を読む、というものですか?」 「ま、そんな感じか」 ほぼ軟禁状態で過ごしていたわりにエルサリスは様々なことを知ってはいた。本で知った、と言うけれどそれにしては貪欲に知識を求めたものだとエリナードは思う。そのせいなのかどうか。エルサリスは顔を曇らせていた。 「エルサリス?」 「いえ……ご不快でしたら申し訳ありません。ですが、そのように心を読まれ続けているというのは、不愉快ではありませんか?」 「別に? 他の誰でも御免こうむるけどな、相手は師匠だし」 「こいつね、フェリクス師大好きだからさー。お父さん大好きっ子だし」 言った途端にイメルが殴られていた。無表情のエリナードの、けれど口許だけが笑いをこらえたのか歪んでいる。それにエルサリスも追随して笑みを浮かべた。 ――馬鹿イメル。本気で殴るぞ、ボケが! ――う、ごめん。失言だった。 ――あのな、考えろよ? エルサリスに向かって親がどうのって口にしていいことか、え? ――ごめん。 しかし他愛なく殴り合いを続けながら、二人はそんな会話をしていたとはエルサリスは知らない。エリナードの心の奥で、何をしているの子供たち、とフェリクスが呆れたのも。 ふと気づく。エリナードにはフェリクスがいる。ならばエルサリスを追い込むのは自分の役目だと。間違いなく過保護な師がエルサリスを守ってくれる。考え至ってエリナードは内心で肩をすくめた。似たような気配が返ってきたが。 「あのな、エルサリス」 観念したかのようなエリナードの声。唐突過ぎてエルサリスは驚く。強張ってしまった表情をエリナードが小さく笑った。無理をしているぞ、とばかりに。それには苦笑するエルサリスだった。 「あのな、俺と師匠は、魔術の師弟としても、標準以上に仲がいい。俺はあの人を親父って呼ぶし、あの人は俺を息子って呼ぶ」 「それは――」 「お前が想像してるようなことじゃないぜ? たぶん、世の中のどの親子とも違う。俺は師匠の言いなりにはならないし、平気で逆らう。嫌なことは嫌だって言うしな」 もっとも、エルサリスには言えないものの、嫌だと思うことがほとんどないのが問題と言えば問題か。内心での独り言を嬉しそうに聞いているフェリクスがいたとしても、それすら嫌では特にない。 「お前は、一般的な親子像ってのを知らないだろ? それを言えば俺もだ」 「俺もだねー。星花宮の子供らはほとんど知らないけどね」 「だいたいな、親子ってのはこうあるべきだ、なんてドンカ神殿辺りは言ってるけど、親が千人いりゃ子も千人いるしな。千組それぞれでいいんじゃないかと俺は、思う」 「エルサリスんとこみたいなのは論外だけどね?」 「それは親子像がどうの以前の問題。外道を一緒に語ると話が面倒だぜ」 ふん、と鼻で笑ったエリナード。普通の息子ならば、親を悪しざまに言われて腹が立つものなのだろうか。エルサリスにはわからない。何の感慨もない自分がいるばかり。 ただ、想像はできた。あるいは彼にとってのフェリクスは自分にとってのリジーかと。育ての親も同然の彼女を悪く言われるのはエルサリスも腹立たしく思う。 「だからな、エルサリス。お前の両親は異常だった。それは理解できるか?」 「なんとなく、ですが」 「それでいい。だったら、うちの親父と俺もちょっとずれてるってのを飲み込んどいてくれ。このイメルだって、自分の師匠に四六時中心覗かれるのは嫌だって言う」 「普通は言うからな! お前がおかしいんだよ、エリナード!」 「俺だけじゃねぇよ! 師匠だって俺には平気で覗かせるんだっつの。な? エルサリス、わかるか。俺がおかしいってイメルは言うだろ? 俺も言い返す」 「この師弟がどうのはおいておくとしてもね、エルサリス。人間千差万別、幸福であれるならそれでいいんじゃないかなぁって俺は思うんだよね」 だから幸福でなかったエルサリスの生家は問題だったと思うよ、イメルはゆったりと微笑んだ。笑いながら、それでも言い諭されてエルサリスはうなずく。本当は何一つわかっていない。それでもいい、二人が言っているのを感じてもいた。 |