三日後、再びイアンは星花宮にいた。 あの日、自分が知る限りのことをフェリクスに伝えたイアンだった。と言っても、エルサリスという名すら知らなかった自分だ。知ることなど多くはない。それでもドヴォーグ夫妻のことなど、フェリクスは参考になったと言ってくれた。 けれど、それだけ。出て行ってしまったエルサリスに会いたいと言っても、彼は決して許してくれなかった。もう一度、きちんと話がしたい。何度となく言ってもなお。すごすごと屋敷に戻り、イアンは三日というもの考え続けた。 「エルサリス――」 彼の名を呟いてみる。男性であったとは、いまだにどうしても思えない。女性そのものの姿。だからではたぶんない。 「あの日、あなたは――」 夏霜草を喜んでくれた彼女、否、彼。健気に咲く花に勇気づけられる、そう言った意味がいまになって少しわかった気がした。 あの日の微笑みをイアンは忘れていない。彼に言ったとおり、あの日自分はあの「エルサミア」に恋をした。エルサリスと知った彼に。 「馬鹿だな」 このまま星花宮に任せてしまえばいい。ドヴォーグ家の醜聞に巻き込まれる形になった自分は同情されることはあっても嗤われることはない。新たな婚約者を求めることも可能だ。 「それでも」 エルサリスを諦めたくなかった。同性だとわかっていても、どうしても。婚姻を結ぶことができない、子を求めることも叶わない、貴族の自分が。血を繋ぐ義務のある自分が。それでも、どうしても。 「やっぱり来たね」 溜息まじりのフェリクス一人、星花宮で迎えてくれた。ここにいないと言うことは、きっとたぶんあの弟子と名乗った青年とエルサリスは共にあるのだろう。そう思うだけでちりちりとした嫉妬を覚える。 「なにか心配してるみたいだけどね。エルサリスはエリナードの好みじゃないからね。それは平気だけど?」 「好み!?」 「あの子は僕同様の同性愛者だからね」 肩をすくめたフェリクスにイアンは動揺する。ならばよけいにエルサリスが危険ではないかと。思った途端に冷たい眼差しが飛んできた。 「言ったじゃない。エルサリスはあの子の好みじゃないって。息子の好みなら把握してるからね、大丈夫だって確信があるからエルサリスを任せてるんだ。だいたい、男だったらなんでもいいなんて節操なしだと思うんだったら、息子に対する侮辱だと解釈するけど?」 滔々と、けれど淡々と言うフェリクスにイアンは息を飲む。少なからず混乱していた。別けても、フェリクスが息子と呼ぶ事実に。 「あなたは――」 「あぁ……。エリナードとは血を分けた親子ってわけじゃないよ。僕は息子と呼ぶし、あの子も僕を父親とは言うけどね」 「わかり、ません――」 「だろうね。別にうちの親子関係はどうでもいいでしょ? 本題――の前に、あなた、どこかで見たことあると思ってたんだけど。メートラ伯爵の一門? 伯爵のところで従騎士訓練してなかった?」 「あ、はい。していましたが?」 驚いていた。確かにこれでも一応は武門の家柄に生まれた男だ。一門の長であるメートラ伯爵家でイアンは従騎士訓練をしている。それもすでに何年も前のこと、まして少年時代のことだ。大人になったいまとは顔形が相当に変わっているはず。 「やっぱりね。あなたの先輩に当たるのかな? ジョウナス・マコーリアン、いるでしょ?」 確かにいる。少々狷介なところもある騎士だったが、根はよい人だったと当時を思い出すイアンにフェリクスは小さく笑う。 「彼のことは知ってるでしょ」 「えぇ、魔法騎士、と」 「そう、そういうことだよ。彼は星花宮で訓練をしていた時代がある。メートラ伯爵に預けることになったからね、僕ら星花宮は行く末をずっと気にかけてた。だから、あなたも見たことがあったわけ。わかった?」 少年時代に何度か見かけただけであったとしてもイアンを彼は覚えていたと言う。それに驚きと、なぜだろう、懐かしいような慕わしさを覚えるのは。だからこそ、言いたくなる。 「ならば……。お覚えくださっていた思い出に免じて、どうか私を」 「だめ」 エルサリスに会わせてほしい、言うより先に拒絶された。それに知らずイアンは拳を握る。そこまではっきりと拒まれる謂れがわからない。 「なぜですか!?」 けれど結局、声を荒らげてしまった。若い男と侮られることは避けたかったというのに。この少年めいていながら老獪な魔術師相手に虚勢を張ること自体が無駄だったのかもしれない。 「あのね、ジルクレスト卿」 小さく溜息をつくフェリクスは、しかしずいぶんと疲れているように見えた。肉体のそれではなく、心の問題のようにも見えイアンは戸惑う。 「エルサリスは嫋やかでとっても可愛い。どこから見ても楚々とした美女だよ。でもね、あの子は男の子だ。わかってるでしょ」 「それは重々」 「だったら何の用であなたはエルサリスに会いたいの」 「それは――」 「あなたは、ジルクレスト家の当主だ。タイデル子爵の位を頂戴した、立派な貴族だ。あなたは一門に何を求められている? 妻を娶ること。子を儲けること。違う?」 そのとおりだった。イアンは言葉を失う。そんなことはフェリクスに言われるまでもない。理解している。 「それでも、私は――エルサリスに会いたいのです。彼に、どうしても」 「いまあなたはね、彼が彼女じゃないって知って、それでも自分が好きになった人だからって、言ってみればのぼせてる状態だ。後々のことを考えてる? あなたは責任ある地位身分に生まれてるんだ」 言いつつフェリクスは内心で顔を顰めている。正直に言えばイアンに言っていることをフェリクス自身、信じてはいない。だがこのまま突き進ませればどうあっても不幸にしかならないだろうとエリナードが言っている。 ――ほんとに、ませた子なんだから。 心の内側で呟けば、いまも接触を保ったままの可愛い弟子が拗ねて膨れて笑った感触。弟子に笑われる程度に恋愛沙汰に疎い自覚はあるフェリクスだった。ならばエリナードの判断を信じてもよい、とフェリクスは思っている。 「我が家のことならば、どうとでもいたします。私は――エルサリスに――どうしても」 「どうして? 男の子だよ、あの子は。あなたの婚約者は、ちゃんと女性だったでしょ」 「私が会っていたのはたぶん、ほとんどがエルサリスだったはずです。我ながら鈍いものですが――思えばあまりにも態度が違うことが多々ありました。好ましいと思ったのは間違いなくエルサリスだったはずです」 「でもね」 「フェリクス師。同性だからと言ってあなたが私を阻むのですか。タイラント・カルミナムンディという伴侶がいるあなたが」 「そりゃ壁にもなるよ。僕は一介の魔術師だ。子供を作れとは言われないからね。あなたは違う」 イアンの儚い抵抗を粉微塵にしてフェリクスは肩をすくめる。それが身分の差というものだろうと。それでもなおエルサリスの手を求めるのか。 ――そう言ってきたらどうするの。 ――エルサリス次第ですよ。いまは完全に自棄起こしてますからね。ジルクレスト卿が幸せなら自分はどうなってもいい、なんて思ってるようじゃ危なくってしょうがない。 ――だね。 精神での会話は瞬きほどにもならない。イアンは気づきもしなかった。エルサリスが自暴自棄になっているなど、言ってもイアンは信じないだろう。そしてふと思う。 「ねぇ、ジルクレスト卿。あなたはエルサリスがあなたに会いたがると、思うの?」 自分が会いたいとばかり言っているイアンだった。相手が拒むとは考えなかったのか、問うフェリクスにイアンは真っ直ぐと彼を見た。露ほども揺らがずに。 「正直に言って、わかりません。私はエルサリスにとても会いたいと思っています。もう一度、彼が同性でもかまわない、そのようなことは関係がない、そう伝えたい。――ですが、エルサリスは私に好意を持ってなどいなかったのかもしれない」 姉の身代わりとして自分と散策をしていた彼。死なせることだけはしたくないとすべてを暴露して去って行った彼。好意がなかったとは思いたくない。それでも、友情以上のものであったのかの確信などない。 「そうだね。両親という名の鬼畜にいいように扱われていた彼だからね。姉の身代わりをしろって言われて従ったのも、そう言うものだって育てられたせいだし。――男と結婚するなんてどうしても嫌だった、人殺しになるのは絶対に嫌だった。だからあなたを助けた結果になっただけ、とは思わない?」 フェリクスの言葉は静かなものだった。そのぶん貫き通すような言葉でもあった。けれどイアンはそっと微笑む。 「思いません。エルサリスは、私を、助けてくれたのです。自分が嫌だったからではない。それは自信を持って言えます」 「どうして?」 「自分の意志などというものがあったのならばもっと早くに両親の呪縛から抜け出していたでしょう。私に友情なのか好意を持ってくれていたからこそ、彼はそうした。それだけは、わかるのです」 きっぱりと断言するイアンにフェリクスは口許だけで笑った。ひどく意地が悪く見えたけれど、同時に人が好くも見える不思議な笑み。 「それがわかってるならね、エルサリスに時間をあげて」 「え――」 「あの子は、どうやって生きていいかもわからない。男の自覚はあっても、男として生きる術がわからない。右を見ても左を見ても戸惑うばかり。そんなあの子にね、あなたが同性でもかまわないって言ったって、あの子はどうにもできないよ」 だから魔力の制御法と共に、せめて自分たちが生き方だけは見せる、とフェリクスは言った。それでも見せるだけであって選ぶのはエルサリスだとも。 「選べるようになるまで、待ってあげて。何年かかるかわからないよ。それでもあなたは、待てるの」 「待ちましょう。ならばその間に私は、養子の算段でもつけましょうか」 「それは気が早すぎるよ。あの子があなたを拒むことも考えておいて」 それもそうだ、と顔を赤らめるイアンにはじめてフェリクスは柔らかく微笑んでいた。 「エルサリスは――息災にしていますか」 最後にそれだけは、と尋ねたイアンにフェリクスは肩をすくめる。 「そんなはずないでしょ」 すげない言葉に、けれどイアンは戸惑わない。フェリクスが彼を助けてくれる。それを疑わなかった。 |