彼の人の下

 星花宮に到着するまでの間、彼女はただ一言「申し訳ありません」とだけ言った。イアンは彼女の手を取り、隣にいることしかできない。あれこれと、話しかけはしたものの、じっとうつむくばかりの彼女。巻き込んでしまった、そう思っている様子だった。
「巻き込まれたなど、思っていませんよ」
 言っても返答は返らない。乳母が涙をこらえたのかそっと袖を瞼に当てた。
 ほどなく到着した王城では、すでに先発した魔術師の一人、エリナードが彼らを待っていた。彼らは魔法で転移する、と言って馬車に同乗していかなかったのだけれど、誰か一人くらいはいてほしかった。そう思うだけイアンもまた不安だったのかもしれない。
「お待ちしていました」
 どうぞ、と促されてイアンとエルサリス、そしてリジーは星花宮へと道をたどっていく。イアンには、こんなときでなかったのならば心楽しい道だった。好きな植物が生い茂る小道。珍しい薬草や香草が咲いていた。そして隣には彼女がいる。ちらりと見やった彼女はまだうつむいたまま歩いていた。
「待ってたよ」
 星花宮は元離宮だ、とイアンは聞いている。それらしいところもあるにはあったが、魔術師たちの住処になって長いせいだろう、いまはさほど面影があるとは言い難い。そして案内されたのはフェリクスの部屋。ほんのりとした優雅さのある、彼に似合っているのかいないのか、判断が難しい内装だ、とイアンは思う。
「とりあえずお茶でも飲んで。――落ち着いたかな、少しは?」
 フェリクス自らが彼女の手を取り長椅子へと案内する。隣にイアンは無言で腰を下ろし、リジーは壁際に下がろうとする。
「リジー、あなたもだよ。この際礼儀だなんだはどっか遠くにでも放っておいて。あなたに話を聞かなきゃ、この子がどう言う育ち方したのかわからないじゃない?」
 少しばかり悪戯っぽいフェリクスの語調にリジーがほっと息をついて小さく笑った。伺うようエルサリスを見上げれば、彼はまだ茫洋とした眼差しのまま。
「大丈夫そうだね。エリィ、いいよ」
 なにがだ。イアンが思う間もない。茶を淹れていたエリナードが軽くイアンに向けて頭を下げる。そしてそっと指先で彼女の額に触れた。
「……あ」
 不意に目に光が戻った。イアンにはそう見える。何をしたのか、ついエリナードを振り仰げば、言葉にしにくい微笑。
「束縛だよ。さっきしたでしょ。それをいま解いたの」
 エリナードに代わってフェリクスが答えたちょうどそのとき、エルサリスは震えはじめていた。知らずうちに自らの体を抱いている。先ほどの、どこか遠くから聞こえていた両親の罵倒。いまになって蘇る。
「あなたは、大丈夫なはずだよ。いままでちゃんと自制ができてたんだ。大丈夫、落ち着いて。とても嫌なことを言われたけど、でもあなたにはあなたを愛してくれる人がいるね。ほら、そこに」
「そうでございますよ、リジーはここにおりますとも!」
「……リジー?」
「ここにおりますとも! なんの心配もございません。あのような方々をご両親など……。ただ血の親にすぎませんとも。あなた様の生みの親に違いはなくとも、あなた様をお育てしたのはリジーにございます!」
 老いた乳母の必死の声。あぁ、とエルサリスは得心する。そのとおりだと。紛れもない血の親、そしてただ、血の親でしかない彼ら。赤の他人よりまだ遠い。
「……そうね、なにを言われても、だからいままで、平気だったのかしら。そうね、私には、お前がいるものね」
 そっと微笑んだエルサリスの手をぎゅっと握り、リジーはうなずきながら泣いていた。皺だらけの頬を伝う透明な涙。エルサリスは笑みを浮かべて拭い取る。
「うん、本当に精神力の強い子だね。この調子なら、本当に大丈夫そうだ」
 フェリクスが呟くようそう言った。ようやくエルサリスは彼を見つめる。少年のようなこの魔術師を。助けられたのだといまになって染み込んできた。
「ありがとう存じます。お礼が遅くなりまして――」
「いいよ、別に。仕事の一環だしね。気にしないで」
 どことなく居心地が悪そうなフェリクスを、弟子だと言うエリナードがちらりと笑う。してみれば照れてでもいたのかもしれない。それで急に気が楽になるエルサリスだった。そんな自分が訝しいと思いつつ。
「それであなた。名前を聞かせてもらえる?」
「あ……。申し訳ありません」
 ぽ、と頬が赤くなった。それにイアンは目を奪われる。なんと言う美しさかと思う。不意に気づいた、何度も散策を共にしたのは彼女だと。
「……親の付けた名は、ありません」
 だからこそ、愕然とした。何を言っていいのかもわからず、彼女の横顔をじっと見つめるばかり。彼女は淡々とした眼差しのまま、フェリクスを見やっていた。
「リジーは、エルサリス、と呼びます」
 エルサリス、イアンは口の中で繰り返す。姉であるエルサミアに響かせた名なのだろう。どれほど認められなくとも、彼女の妹なのだと乳母は言いたかったのかもしれない。
「じゃあ、真の名ではないね、それは?」
「はい。親御様には呼び名すら――。ですから、僭越とは存じましたが」
「リジーが、真の名の、名付け親でもあります」
 静かに乳母を見やる彼女の眼差し。そこにあるのは主従であり、親子である情愛。イアンは思わず目が潤むのを抑えきれなかった。
「一応ね、ここで訓練をしてもらうから真の名はちょっとまずいからね。呼び名なら、とりあえずはいいかな……」
 少し考える風情のフェリクスに、イアンは問いたいことがある。訓練とは何かと。だがそれ以前に彼女に、エルサリスに尋ねたいことがあった。
「エルサリス、と言われましたね。私と何度も散策を共になさったのは、あなただろうか」
「……はい。謀りましたこと、お詫び申し上げ」
「そんなことはいいのです。あなたはいわば被害者だ。ですからエルサリス――」
 イアンに名を呼ばれた。それがこんなにも嬉しくて、だからこそ、うつむいてしまう。嬉しいからこそ、つらくて。
「ちょっと待ってね。その辺は後にしてもらえる? 訓練のこと、言ってもいい、エルサリス?」
「はい、伺います」
 きっぱりとイアンから視線を外すエルサリスに、さすがにフェリクスもなにか思うところがあったらしい。何気なく弟子を見上げれば、察しの悪い師匠だと言いたげににやりと笑っていた。それを片手でぺしりと叩けば、小さくリジーが笑う。懐かしいものでも見た様子だった。
「あなたは、魔法をどうしたい? 率直に言って、魔術師になりたい? わからない、でもいいよ。なりたくないでももちろんかまわない。あなたの心持ちが知りたいんだ」
「――なりたくは、ありません」
「わかった。じゃあ、その方向でとりあえず暴走しないよう、訓練だけはしよう。それでいいかな?」
「よいので、しょうか」
「いいよ、別に。あなたは二十歳くらいかな? その年までね、自分の魔力と上手に付き合ってきていた。人より勘が鋭かったり、聞こえない物音が聞こえてたりとか、なかった? 言ってみれば初期訓練は自分でやってるんだよ。だから僕らは技術面の後押しをする。あなただって暴走事故で死にたくないでしょ?」
 自分が。あるいは他人が。フェリクスの言葉にエルサリスはうなずく。万が一にもリジーを巻き添えには、したくなかった。
「伺いたいのだが、フェリクス師」
「ん、なに?」
「彼女は――魔法を志さない、と言っています。ならば、その魔力自体を封じるなり、できないものなのでしょうか」
 イアンの問いはもっともだった。エルサリスもできればその方がありがたい。こんなことを思いつくイアンを頼もしげに見上げ、そして慌てて目をそらす。
「そうだね……。返答としては、できない、だね。――ちょっとたとえ話になるけど」
 ここに畑がある、とフェリクスは言った。畑がエルサリスだと思えと。そしてそこに魔力と言う種が蒔かれている。
「でも、種は芽が出てみるまでどこにあるかわからないでしょ? だったら畑をひっくり返して探すの? やってできなくはないよ、でもそれをするとその子の精神はめちゃめちゃになる」
「それは――」
「だから今後もし魔力を枯らすことを望むなら、そのためにもまず魔力をあなたの中できちんと定着させる必要がある。芽が出たものなら、引っこ抜くこともできるしね」
 肩をすくめたフェリクスに、今度こそエルサリスは納得をした。できないのはどうやらイアンのほうらしい。
「ならば、フェリクス師。訓練の間……その、彼女を我が屋敷から通わせるのは」
 赤くなって額に汗まで浮かべているイアンだった。もしも自分が「エルサミア」のままであったならばどれほど嬉しいだろう。エルサリスは笑みを浮かべて彼を見つめ、そして首を振った。
「いいえ、イアン様」
「だが、エルサリス。あなたは覚えていないのでしょうか。あの植物園で、夏霜草を手折った日。私はあなたに恋をした、そう言ったはずです」
「……覚えております」
 今生の思い出だ、エルサリスは思う。潤みそうになる目を叱咤して、必死に笑みを浮かべてイアンを見上げる。それから静かに立ち上がり、彼から距離を置いた。
「ならば、エルサリス。どうか私の妻となってください」
 立ち上がったのを機会とばかりイアンがその手を取り、跪く。この上なく正式な求婚に、エルサリスは声もなくそっと手を外した。
「……無理です。イアン様、どうか私のことはお忘れください」
「なぜです!?」
「私は――。エルサミアの双子の、弟です。あなた様の妻になれる身では、ありません」
 言いたくは、なかった。イアンには夢を見ていてほしかった。しかし、ここに来て。やはり。悲鳴のようなリジーの声。エルサリスを思い嘆く乳母と打って変わって魔術師たちは動じていなかった。
「おと、うと……」
 目を見開いたイアンの前、エルサリスは背を返す。小さくフェリクスが弟子を呼んだ。無言のまま、エリナードがエルサリスを伴い退出する。扉が閉まる直前、エルサリスが笑みを浮かべてイアンに目礼をした。




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