彼の人の下

 この子は預からせてもらうよ。フェリクスが言った途端だった。言われた本人ではないドヴォーグが顔色を変える。
「勝手をほざくな! だいたい貴様が星花宮の魔術師という保証がどこにある。不埒な侵入者があったのだからな、そろそろ衛兵が来ることだろうよ。いまならまだ見逃してやる。さっさと去ね!」
 冷笑まじりの、それでも痙攣した口許。フェリクスはそのような脅しになど動じない。そもそも脅しと認識しているかどうかすら怪しいと彼の弟子は思う。
「そう? じゃあ都合がいいね。衛兵が来るんだったら僕の身元もはっきりするし」
 独り決めしてうなずいている始末。知らず顔を覆う弟子に彼はちらりと笑っていた。そこにかかる声。イアンが抱く人の傍ら、腰を抜かしていた老女だった。
「こちらはフェリクス様でいらっしゃいます! えぇ、間違いなどあるものですか!」
 果敢にあげられた声に主人夫婦は嫌な顔をするばかり。使用人ごときが何を言っているかと思ったのだろう。
「なるほどな――使用人を取り込んでの三文芝居と言うわけか。どこの誰か――」
「ん? リジー? 懐かしい顔もあるものだね。ここで働いてたの?」
「はい――」
 主人の声など聞こえてもいない様子の男に鼻白んだのだろう、ドヴォーグ。だがそのぶん彼が真実星花宮の魔術師なのだとだんだんに飲み込めてくる。
「あ……。卵焼きのリジーさんだ。そうでしょ? エリナードです、覚えてますか?」
 なんとか立ち上がろうともがいている老女に手を差し伸べる青年をイアンは何気なく見ていた。魔術師らしい、そして腕の中の彼女が魔力の暴走をしたらしい、それはわかっていたけれど、先ほどエリナードが彼女を気安く腕に抱いていたことにそこはかとない嫉妬を覚えてもいる。そんな自分を彼は自嘲していた。
「なんと……。覚えておりますとも、ご立派になられまして……」
 目を潤ませるリジーにエルサリスはやっとのことで息を吸う。エリナードと言う人が何かをしたのだろうが、体が重くてかなわなかった。
「リジー……」
「この人はね、昔王宮勤めをしてたんだよ。だから僕も知ってる。この子が小さかったころ、よく卵焼きを作ってくれたしね」
 狼狽しているリジーに代わりフェリクスはそうエルサリスに微笑みかけた。主人夫婦に対するのとは打って変わった優しげなそれにイアンは目を瞬く。聞き知る評判とはまったく違う彼の姿だった。
 そして本当に、衛兵がやってきた。こんな主人たちでも忠義を覚える使用人はいたのだろう。あるいは恐怖か。詰め所に走った誰かのおかげで到着した衛兵たちはその場にいる氷帝を前に目を白黒とさせていた。
「フェリクス師!? なぜ、こちらに?」
 さすがに平民とは言え王都でも富裕を誇る商家だ。一隊を引き連れてきたのは隊長だけあって彼の顔を知っていた。顔色を変えたのはドヴォーグ夫妻。真っ赤になって怒っていたものが蒼白になっている。
「僕の身元、かな。手間をかけさせるね」
 肩をすくめたフェリクスに衛兵は戸惑っている。当然だろう。侵入者と通報を受けて飛んで来てみればいたのは星花宮の四魔導師が一人と来ては。
「身元が明らかになったんだったら帰っていいね? 連れて行くよ」
「――イアン・ジルクレストと言う。フェリクス師に伺いたい。なぜそこまでお急ぎか」
 震えている人が哀れで、彼は不躾は承知の上できつく肩を抱く。震えが、酷くなった気がした。
「その子が心配だからだよ。暴走したって言ったね? 今はうちの子が一時、束縛をしてる。でもこれは体によくない。無理矢理押さえつけてるようなもんだからね。息、しにくいでしょ?」
 尋ねられたエルサリスはそういうわけだったのか、と腑に落ちて素直にうなずいていた。わかってみれば不安はない、否、これ以上イアンの腕は借りられない。そっと彼の胸を押しやって静かに微笑む。代わりにリジーの手を求めれば、飛びつくよう取ってくれた。
「それにね、その子。怪我してる」
「何――」
「先ほど奥方様にひどく打擲されましてございます」
 冷たくなってしまったエルサリスの手。温めようとリジーは撫でさする。そんなものではどうにもならないと知ってはいたけれど、止めることはできなかった。それにけれどフェリクスは首を振る。
「違うよ、リジー。見た目のことじゃない。体の中だ。かなりぼろぼろだね、血の臭いがする。――それが僕は心配なんだよ」
 小さな溜息。衛兵たちが驚いて彼を見やった。それを見てとる弟子がどことなく自慢そうな顔をして胸を張るのをイアンは見ている。何より、彼女を。怪我をしているなど、気づきもしなかった己を悔いつつ。
「誰にやられたのか、お話しできる?」
 まるで小さな子供に問うようなフェリクスの声。空いた片手を取ってはぽんぽんとなだめていた。彼女よりまだ小柄な魔術師が、イアンの目にはずいぶんと大きく見え、驚く間もなく彼女の目から零れ落ちる涙にまたも驚く。代わりにリジーが答えた。
「旦那様と、奥方様に。亡き姉君様からも、何度となく。この方は、ずっとずっと、そのようにお育ちになられて……」
 震えるリジーの声が唐突に止まる。突進してきたドヴォーグ夫人を止めたのは魔術師たちではなく衛兵。喚き声を上げる女に手を焼いていた。
「殴られたのは、なんで?」
 顔を顰めてフェリクスが頬の傷に触れた。うっすらと熱を持つ傷。ひんやりとした指先が心地よい。エルサリスは小声で呟く。いましかないと、不意に気づいて顔を上げた。
「――私は、姉の身代わりとして育てられました。姉の意に染まないことを姉の代わりにするように、と。姉亡きあとは、こちらのイアン様に嫁いで、……イアン様を毒殺し、子爵夫人の称号だけを持って戻れと。そんなことは、できません。してよいはずもない!」
「何を言うか、わしの命令に従うのは当然だ! いままで誰が食わせてやったと」
「雑音は聞こえないね? 続きを聞かせて」
 にこりと笑うフェリクスに、本当に聞こえなくなった気がしたエルサリスだった。気づけば口許に皮肉な笑みまで浮かんでいる。
「そう、落ち着いて話して。束縛が強くなってつらいのはあなただからね」
「……はい。ですから、私はイアン様に最初は姉のふりをしたまま、お願いいたしました」
「別れてくれって? なるほどね。それを聞かれてあの人に殴られたってわけか。ふうん」
 そっと彼の弟子は一歩リジーに近づいた。師がこんな顔をする時なにが起こるかわかっている、その証拠に。せめて彼らは自分が守るべきだろうと。
「おやおや、珍しい。あなたが私に頼み事ですか、フェリクス」
 だがフェリクスは怒りを爆発させたりはしなかった。代わりにリオンが現れる。またも登場した魔術師に衛兵は驚きを隠せない。そもそも貴族を殺害すると言う話にすでに顔色を変えている。
「暇な神官に当てがなくてね。この子、ちょっと見て。それと」
 気軽に返答をしたリオンがエルサリスの元に進み出る。にこりと笑った魔術師、否、神官か。その手をエルサリスは拒まなかった。初対面ではあったけれど、それがリオンには訝しい。人間誰しもが持つ咄嗟の抵抗というものをまったくしない人物とは、と。けれど思いは笑みの裏側に秘めたままリオンは呪文の詠唱をする。祈りにエルサリスは包まれ、このところずっと感じていた痛みが軽くなっているのを知った。
「応急治療ですからね。あとでちゃんと見てあげますから。――それで、フェリクス、本題に入ってください」
「そっちの親のほうだよ。どうもあんまりいい親とは思えなくってね。こちらのジルクレスト卿殺害を示唆した形跡もあるし」
「普通はそっちの方が大事なんですけどね。いいです、承けましょう。とりあえずドンカ神殿にでも放り込みますか。あちらに話は通しておきますよ」
「頼む」
 短い言葉にリオンが目を瞬いた。エリナード以外の誰にもわからない。フェリクスがリオンに率直に依頼をするなど。それだけ彼が事態を重く見ているという証拠だった。リオンの眼差しが一瞬だけ鋭くなり、再び茫洋とした優しい目に戻る。
「衛兵隊もいることですし。手を借りてもいいですか?」
 それにしてもなぜ衛兵が。首をかしげながらぼやくリオンに衛兵隊は逆らわない。金切り声を上げたのはドヴォーグ。
「わしがそれをどう使おうとわしの勝手だ! 他人にどうこう言われる筋合いがあるものか。そもそもお前が産んだりするからこんなことになるんだ!」
「私が産んだのは可愛いミアです! こんな出来損ないじゃない! お前が生まれたりするからミアが死んだのよ、ミアを返しなさいよ出来損ない!」
「リジー?」
「言いがかりにございます。お嬢様は馬車の事故で勝手に亡くなりました。この方をなぶり殺しになさるおつもりで求めた毒薬を被って、見るも無惨に」
「……それでも、見殺しにされるのは、あんまりだった」
 エルサリスを庇うリジーに、エルサリスは首を振る。末期の姉の顔を思い浮かべてしまったのかもしれない。あの無念の吼え声と共に。
「見殺し?」
「はい。酷い、怪我で……。神官様の手も借りず、姉はそのまま」
 こらえきれなかったのだろう口許を押さえる姿にイアンは咄嗟に手を差し伸べてしまう。困り顔のまま、けれど拒まれはしなかった。
「私が住み暮らしていた地下に、姉の遺骸はあるはすです。どうか、姉を……」
 フェリクスとリオン、ひどく似た表情で顔を顰めた。揃って言い合いを続ける夫妻を見返れば、ぱたりと黙る。フェリクスは無表情、リオンに至っては笑みすら浮かべていたというのに。
「あなたがたには色々と聞きたいことができたようですね。なるほど、これは確かに失礼ながらジルクレスト卿殺害示唆など後回しでしょうね」
 イアン本人でさえそう思った。なんと言う両親かと。この人は地下に暮らしていたのか、軟禁されていた、そんな印象だった。ちらりと乳母を見やれば目顔がうなずく。震える唇を隠そうとイアンはきつくそれを噛みしめていた。
 リオンの助言に従い、衛兵たちがドヴォーグ夫妻を連れて行く。最後まで子供の顔は見なかった。途端にしんとしてしまったドヴォーグ邸の庭。
「とりあえず、星花宮に来てもらおうか」
 嫌なものを振り払うようなフェリクスの声。ならば自分の馬車で、と言うイアンをエルサリスは謝絶する。断固として拒まれてしまったが。それにぬくもりを覚える自分にエルサリスはただうつむいた。




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