彼の人の下

 イアン訪問が決まってから、父は言い続けた。
「お前はエルサミアだ。婚儀は予定通り行う」
「そしてあの男を殺して、おうちに帰ってらっしゃい、可愛いミア」
 母も言う。二人して、同じことを繰り返し言い続ける。気が違ってしまいそうだった。最後に一度だけ、エルサリスは抵抗を試みる。
「ですが、お父様、お母様。私は――婚儀を行える身では――」
 男の自分が婚儀に臨めるはずがない。誓約を交わすこと自体はできたとしても、イアンが望む「妻」にはなれない。
「何を言っているの、ミア?」
 笑う母の目だけが冷たい。直後に父に殴られた。ミアに何をするの、言う母も、けれど止めようとはしない。ここにいるのは姉ではない。だからエルサリスは、一人。心を決める。
「婚儀を早めてしまうのもよいかもしれんな」
「あぁ、あなた。それはようございますね。可愛いミアが帰ってきますもの」
 くすくす笑う狂気の母。姉ではないと知っているはずなのに、それすら疑いたくなる母の姿からエルサリスは目をそらす。母が愛していたのが姉なのか、それとも違うのか。もう彼にはわからない。少なくとも父は姉弟のどちらにも何の感情もないとわかっているぶんまだよかった。
「どうしました、エルサミア」
 まだお加減が。尋ねては覗き込んでくるイアンに強いて彼は微笑む。大丈夫、笑いながら彼の目を見つめ返す。いつまでもそこに映っていたいな、ふとそんな他愛ないことを考えた自分を嗤った。
「急なご病気のようで、驚きましたよ」
 領地に発つ前まで彼女は元気であったのに。イアンは紛れもない懸念の眼差しで彼女を見つめる。それに返ってくる優しい碧い眼差し。気を利かせたのか、周囲の召使たちはそれとなく声が聞こえないところまで離れている。リジーだけが心配そうに側にいた。
 そちらにエルサリスはうなずく。イアンには乳母に心配ないと言っているように見えたことだろう。確かに彼はそう言っていた。意味はイアンが想像もできないものだったけれど。
「イアン様」
 繋いでいた手をそっと握った。珍しい仕種にイアンが驚いたのが伝わってくる。それでも嬉しそうに笑みを浮かべた。エルサリスは、唇の震えを見られたくなくてわずかにうつむく。
「……婚儀のことですが」
「あぁ、そのことですか。あなたのお体が心配ですか? 大丈夫ですよ、まだ秋までは間があります。すぐによくなりますとも」
「いいえ……」
 知らず握りしめていた手。イアンが同じよう、握り返してくれた。それに正気づいてエルサリスは顔を上げる。真摯な眼差しに、イアンが笑みを消した。
「どうぞ、お別れしてくださいませ」
 じっと見つめられる眼差し。エルサリスは応えられない。いまこの場でイアンの怒りに触れてもおかしくない。貴族に、平民の側から破談を申し入れるなど、あってはならない。だがイアンは。
「どうしました。何があったのです。私で力になれることならば――エルサミア、ご病気はそれが原因ですか?」
「イアン様、いいえ。いいえ。ただ、私は――」
「悩み事があるのならば、言ってください。私はあなたの婚約者です」
 胸を張った自分が恥ずかしくなったのだろうイアンの照れた笑い顔。婚約者の心変わりなど断じて信じない、そう無言で告げる彼の姿。
 エルサリスは体のどこかが震えるのを感じる。父母からイアン殺害を命ぜられてからずっと感じている震え。恐怖ではなく、絶望でもない。なにかわからない、沸々と滾るような、凍えて行くような。ただ、わからない何かが力には、なっていた。それを手にエルサリスは真っ直ぐとイアンを見る。
「私は、イアン様の元に嫁ぐことができる身では――」
 何の疑いもなく「婚約者」を信じてくれているイアン。この純粋な思いをできることならば壊したくはなかった。けれど、エルサリスはそうするしかない。
「嫁ぐことができる身ではない……?」
 だがイアンにそれは「自分が留守の間エルサミアの身に不都合が起こった」と聞こえただけ。彼女が被ったかもしれない不幸に身を震わせる。怒りに。彼女をただ守りたくて。伸ばした腕は、一歩を引いた彼女に拒まれた。
「どうか、イアン様」
 更なる懇願を重ねよう、事実を告げよう、そうした瞬間だった。視界の端、母の姿。髪振り乱して駆け寄る母にエルサリスは絶望する。話が聞こえないところにいたはずの召使、けれど誰かが母に告げたのだろう。恐怖に負けても、彼らの誰も責められない。同じほど今このとき恐ろしいのだから。
「ミア、なにを言っているの!?」
 走り込んできた母、腕の一振りで打ち倒された。唖然とするイアンが助けの手を差し伸べる間もない。駆け寄ってきたリジーがエルサリスを守ろうと膝をつく。
「お母様、もうやめてください!」
 だがいまのエルサリスはそれまでの彼ではなかった。イアンを前に、ただ彼を守るその意志ひとつが彼に抵抗を選ばせる。
「私は姉さまじゃない! イアン様の婚約者だったのは姉さま、私じゃない! 私がイアン様に嫁げるはずなんて、ないでしょう!?」
「何を言っているの、ミア。あなたは私の可愛いミアじゃない。ミアじゃない、ミアじゃない!」
「私は姉さまじゃない!」
「いい加減にしろ――!」
 怒号と共に父の姿。なにが起こっているのかわからずとも、言葉の意味がわからずとも、イアンは無言でエルサリスの傍らに。不安そうなリジーが感謝と共にイアンを見上げた。
「お父様も。もうイアン様を騙すのはやめてください。私は姉さまじゃない」
「そんなことはどうでもいい。我が家の子がジルクレスト卿に嫁げば同じことだ」
「そんな――」
「お話が遅れて申し訳ありませんな、卿。先日これの姉が身罷りまして。姉の代わりにこれを差し上げたい」
 堂々と言う父にエルサリスは視界が真っ暗になる思いだった。このままでは。けれどイアンが肩に手を置いてくれた。
「受け入れられません。ドヴォーグ殿、あなたは私に一言もこのことを仰せにならなかった。エルサミア殿として嫁がせるおつもりだったのでしょう? 愚弄するにもほどがあるというもの」
「ならばここで改めて婚約を。それでよろしいでしょう」
 さすがにイアンも訝しくなってきた。強引なやり手だとは思っていたが、いくらなんでもおかしい。手の下、細い彼女の肩が震えている。守るのは自分だけか。その思いが彼に力を。けれど。
「……もう、嫌。もう、やめて。お父様も、お母様も……私を嫁がせて、イアン様を殺せって仰った。子爵夫人の称号だけ持って帰れって仰った。もう、嫌――!」
 小さく零された彼女の言葉。イアンはぎょっとして婚約者であった人の妹を見る。確かにいま、彼女は殺害を命ぜられたと。
「もう、嫌――!」
 顔を覆った叫び声。くぐもって聞こえたそれは、ひどく悲痛に響いた。少なくとも、彼女が両親によって虐げられていることだけは、確か。せめてなんとか助けたい、イアンの手はしかし、跳ね飛ばされた。見えない何かに。
 しっとりと、辺りを靄が包んでいた。夏の、この午後に。ありえない。目を瞬くうちに、靄は濃く重くなっていく。彼女を隠すよう。どこかに消えてしまいそうな不安に伸ばした手は、宙を泳ぎ、かろうじてあの美しい銅色の髪にだけ指が掠めた。
「なんだ、これは!」
 わけがわからない、と怒り狂うドヴォーグにイアンは目も向けない。乳母一人を道連れにして、彼女が消えてしまう。婚約者ではない、だがしかし。必死になって靄の中に手を伸ばそうにも、まるで重さを持った物のようねとりと腕に絡んで果たせない。異変を知ったのか、急に屋敷内から騒がしさが伝わってきた。
「何者だ、貴様!」
 金色の旋風だ、とイアンは思った。ドヴォーグの声などどこ吹く風と吹き抜けて、そして靄の中に手を伸ばす。あれほどイアンが苦闘した靄が、ただの靄へと戻っていく。瞬いたとき、旋風は金髪の青年となり、その腕に彼女を抱えていた。
「……通りがかりの魔術師だよ」
 はっとして全員がそちらを見やる。屋敷の中からもう一人、新たに現れた人物。せいぜいが二十歳そこそこの少年のような男だった。
「どう、エリィ?」
「暴走ですね。はじめてかな? ちょっと気分は悪いでしょうが、休めば戻りますよ。ただ」
「そうだね、どう見ても未訓練だ」
 じろりと一同を見回す男の姿、ドヴォーグが怒りに青黒くなる。意に介した様子もなく、金髪の青年の元へと彼は歩み寄る。その前に、とイアンは進み出た。
「彼女は、我が婚約者の妹御だ。その手を離していただきたい」
「……はい?」
「だから!」
 苛立つ貴族風の男に彼は苦笑し、けれど素直に手を離す。黙って貴族の手に預ければ、ようやくエルサリスは目覚めて行く。
「ちょっと強引だったけど、束縛させてもらったよ」
 俺がな。ぼそりと呟いた金髪に男は目だけで笑った。ゆっくりとした声音に、エルサリスはよくわからないながらうなずく。
「束縛とは?」
 厳しい貴族の声。男はそんなこともわからないのか、思ったらしいがすぐさま表情を改める。
「この子、魔力があるんだよ。いままで発現してなかったのがおかしいくらい。訓練していない魔力は感情の揺れで暴走するからね。通りがかってよかったよ。息子を迎えに行っただけだったのに、もう」
 最後はただの愚痴だろう。息子だろう青年が申し訳ない、と貴族に向かって頭を下げる。
「なんなの、あなたたち!? 私の可愛いミアに魔力なんて――!」
「あるから暴走したの、わかる?」
「師匠、素直に名乗った方がいいですよ……」
「そう? それはそれで大事になるから嫌なんだけど。――星花宮のフェリクスだよ。これは弟子のエリナード。僕ら星花宮は魔力の暴走事故を起こさせないのも仕事の一つだからね。こんな王都のど真ん中で事故られたんじゃたまったもんじゃない。ほんと、偶然とはいえ気づいてよかったよ」
 長々とした溜息に、少なくとも貴族は危険性を認識してくれたらしい。ほっと息をつくエリナードに彼は名乗る。貴族らしからぬ率直さに彼はにこりと笑った。
 イアンの腕の中から、エルサリスは魔術師たちを見つめる。本当は、見ていなかったのかもしれない。彼を謀った自分をまだ守ってくれる腕だけを、感じていたのかもしれない。




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