彼の人の下

 悪夢の中に囚われていた。寝ても覚めても姉の最期が、両親の言葉が蘇ってはエルサリスを苛む。地下に戻ることも許されず、否、はじめから「エルサミア」のいるべき場所はこの部屋だ、と姉の部屋に閉じ込められて彼は夢の中にいる。
 リジーが主人たちへの嘆願の結果か、傍らにいてくれているのは知っていた。もしも母手ずからの看病などされていたならばエルサリスは死んでいただろう。
「サリス様――」
 二人きりになるや、そっと囁いてくれる彼自身の名。姉の名で呼ばれるのは慣れていたはずのエルサリス。根源的に違った。姉が死んだあの日から、名実ともにエルサミアであることを求められている。身代わりではなく、彼こそがエルサミアと。
 それを阻もうとするようリジーが呼んでくれる名前。エルサリスに答えることはできなかった。呆然と、何も考えられないまま日々が過ぎて行く。
「お窶れになって……」
 見る影もなく窶れてしまった頬。くっきりと線が入るほど萎れてしまった。青春の盛りにあったはずの美貌がいまは。
 リジーはイアンを知り、恋を知ったエルサリスに戻らなくともいい。せめて健康だけは取り戻してほしい。それだけを願っている。このままでは本当に彼が衰弱の果て、死んでしまわないとも限らない。
 彼の父は、そんなエルサリスに愛想が尽きたと言わんばかりの顔を見せる。時折覗きに来るものの、まだ寝台の中かと一瞥しては悪態をついて去って行く。そのほうがずっとよかった。
「まぁ、ミア。今日もご機嫌斜めなのね」
 あでやかに微笑みながら母が来る。夢現の中にあるエルサリスの体が震えた。せめて、と手を握ろうとしたリジーは奥方に睨まれる。
「何をしているの、使用人ごときが。私の可愛いミアに触らないでちょうだい!」
 半身を起こしたままのエルサリスの何も見ていない目から一筋、涙がこぼれる。リジーにはわかった。自らをここまで育てた乳母を悪しざまに言われた彼の心が。
「ほらご覧。ミアだってお前なんぞに触られるのは嫌だと言ってるじゃない! お退き!」
 老女を突きのけ、母は彼の寝台の傍らへと。そしてリジーが取るはずだった手を取り撫でさする。ひくりとエルサリスの手が動いたのがリジーには見えた。拒みたくて、それも怖くてどうにもできない彼の手が。
「ご機嫌を直してちょうだい、可愛いミア。あの男が戻ってきたらしいわよ。明後日の午後、訪問したいがいかがですか、ですって。まったく仰々しいわね。それほど偉いってわけでもないでしょうに」
 くすくすと笑う母にエルサリスが一瞬だけ目を向けた。そのまま再び茫洋とした眼差し。聞いていないのがわかっていても奥方は何事もないかのよう話し続ける。いずれ、言いたいだけ言わねば帰らない、それをすでにリジーは悟っている。
「奥方様、見ていただきたいものが――申し訳ございません」
 扉に向かったリジーの目が感謝を浮かべた。立っていたのはベルティナ。長時間、母親にさらされているのはエルサリスのためにならないと助けてくれたようだった。
「愚図! なんのために召使がいるの! 私に何をやらせるつもりなの、本当にどうしようもない……馘首にしてやろうかしら」
 ベルティナを覗き込み、彼女は言う。笑みを浮かべて言うのにベルティナは無言で頭を下げるだけ。面白くなさそうな顔をして奥方は立ち上がる。
「仕方ないわね。また来るわ、可愛いミア。あとでまたお話をしましょうね」
 二度と来るな。心の中でリジーは呟く。彼女が退室し、扉が閉まり、人気が完全になくなるまでリジーは動かなかった。
「……リジー」
 そしてエルサリスも。飛ぶように寝台の元に行き、彼の手を取る。奥方に触られていた手はひどく冷たい。
「あぁ、温かいわね。お前の手は」
 かすかな微笑みが浮かんだ。言葉もなくうなずき続けるリジーの頬には涙。気づいたエルサリスの反対の手がのろりと動いてはそれを拭った。
「サリス様、サリス様……サリス様……!」
「聞こえていたの、ずっと。お前の声はちゃんと、聞こえていたの。でも……怖くて。ごめんなさい」
「よいのです、そんなことは。そんなことは――」
 ぼろぼろと泣く乳母に、少しずつエルサリスの表情が戻っていく。深く呼吸をすれば幻の臭い。あの日の姉の腐汁。込み上げてきたものを飲み下し、エルサリスは顔を上げる。
「イアン様が、お見えになるのね?」
 彼の名一つ。それがエルサリスを正気に戻した。このまま夢に揺蕩って死んでいくわけにはいかないと。
「イアン様を、この家から遠ざけねば」
「ですが、サリス様。まだお体が」
「いいえ、リジー。考えてごらんなさい。私がこのまま病床にあったとしても、あの二人は私をイアン様に嫁がせようとする。きっと」
 生きている限り、間違いなく。呆然と夢の中にあるままに気づけばイアンの妻だった、などと言うことにだけはさせてはならない。
「サリス様――」
 生気を取り返して行く主の目。碧いそれにリジー自らも立ち上がる、その気力を分けてもらった気がした。そのぶん、エルサリスが。
「リジー、いまは私のことよりイアン様のこと。私はとにかく、生きているのだから」
 そっと微笑むエルサリスにリジーは言葉を失う。生きているだけではないかとは言えなかった。イアンを遠ざけたあと、彼が生きていられるのかどうか、リジーは確信が持てない。
「大丈夫よ、リジー」
 彼女の不安はエルサリスにもわかっている。間違いなく自分は両親によって殺される。姉ですら、見殺しにした二人だ。「貴族と姻戚になる」という目的を果たせなくなった自分など、殺しても飽き足らないだろう。出来損ないですらない。自家の障害としか見做されない。それがわかっていても、命を惜しんでイアンを謀り続けることはできなかった。

「ジルクレスト卿がお見えです」
 予告通り、イアンは領地から戻りドヴォーグ家を訪問してくれた。ベルティナが到来を告げ、エルサリスはすでに整えた身なりをもう一度確かめて立ち上がる。
「かなり痩せたわね」
 すくめれば、衣服の中で肩が泳ぎかねない。リジーが労しげに見ていたけれど、それどころではなかった、本当は。
「こんなことを申し上げるのは……。ですが、お美しゅうございますよ。坊ちゃま」
「坊ちゃまが美しいと言うのもどうかと私も思わなくもないのよ?」
「何を仰せになりますか。サリス様だからこそ、リジーの目には輝かんばかりに見えておりますよ」
 励ましてくれる乳母にエルサリスは微笑む。空いた一日を使って、なんとか食事を取り、血の通わない手足に力を戻そうと入浴をした。乱れた髪を梳り、伸びすぎていた裾を切ってくれたのはリジー。いま、少々痩せてしまったもののエルサリスはイアンが知っていた「エルサミア」の面影に戻っている。それこそが、必要だった。イアンはエルサリスを知らないのだから。
「お待たせを致しました」
 表の居間で待っていたイアンの元、エルサリスは足を進める。さすがにまだ足元が確かではないからリジーは傍らについたままだ。
「いえ……。なんと――! どうなさったのです、エルサミア」
 駆け寄らんばかりのイアン。エルサリスは目だけを細めていた。彼の姿を記憶に留めようとするその眼差しを、リジーは見ているしかできない。
「少し、体調を崩してしまって」
「あぁ、だからなのですね。看護師ですか」
「いいえ、乳母です」
 うっかりと本当のことを言ってしまったエルサリスにイアンが不思議そうな顔をした。いまだかつて婚約者の乳母を見たことがなかったのだから当り前かもしれない。
「無事のご帰京、祝着に存じます。ご領地はいかがでしたか」
 静かに微笑むエルサリスにイアンは手を差し伸べる。正直に言って不安だった。領地に発つ前に見せた彼女のあの態度。またもあれに遭遇するかと思えば気が重かったのも事実。けれど以前そうしていたよう、穏やかで優しい彼女だった。
 その手を取り、イアンは椅子に導こうとする。病身だと言うのならば立っているよりは座っている方がいいだろうと。けれど彼女は首を振った。
「庭に出てみたいのです。散策も、許してくれなくて」
 ちらりとリジーを振り返ってエルサリスは笑ってみせた。まるで許さないのは甘い乳母なのです、と言うように。リジーは殊更に顰め面をして見せるものの、イアンの眼差しに気づいては頭を下げた。
「乳母殿は本当にあなたを大事にする人らしい。私も同感ですよ」
「ですが、もうずいぶんといいのです。イアン様がご一緒してくださるならば、少しはいいでしょう?」
 振り返ってリジーに言う。けれど聞かせている相手はイアン。彼もまたそれに乗ってくれたのか、リジーにうなずいて見せる。
「この方のことは私がお守りする。少しでもお加減がよくないようだったら、すぐに戻る。許してもらえるか?」
 召使にまで言葉を尽くす人だったのか、とリジーは内心で驚く。エルサリスが惹かれるわけだ、と心の中では絶賛していた。
「どうぞ、よろしゅうお頼み申し上げます」
 だからこそ自然に出たそんな言葉。イアンは鷹揚に笑ってうなずいてくれた。本当に、そうできたならばいいのに。リジーもエルサリスもそう思う。
 ゆっくりと、イアンに手を取られ歩いて行くその道行が、エルサリスにはまるで死出の旅のよう。最後の一歩一歩を歩いているよう感じていた。
「乳母殿はあなたが心配なようですよ」
 くすりと笑ったイアンだった。かすかに目顔が指し示すものにエルサリスも微笑みを浮かべる。少し離れてリジーがついて来ていた。
「申し訳――」
「どうしました、エルサミア。気にしないでください」
「でも……」
 ためらう彼女にイアンはくすぐったい思いが隠せない。よかった、と思う。少々おかしな態度を取っていたエルサミアだけれど、元に戻ったのだろう。そしてこの素晴らしい人を秋になれば我が妻と呼べる。
 イアンが照れくさそうに自分の手を取って隣を歩いている。何を考えているかまでは、わからない。それでも幸福そうに微笑むイアン。微笑み返す自分も幸せならばいい、エルサリスは思う。
「私、幸せです。とても」
 いまこの瞬間だけならば。リジーに見守られ、傍らにはイアン。久しぶりに感じる風は夏の熱気をはらみつつも快い。微笑む彼にイアンもまた、笑みを返した。




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