彼の人の下

 息が、止まるかと思った。
「来るがいい」
 今日もベルティナが来たのだろうと思ったが、そこにいたのは、父。厳めしい顔をしたまま立つ彼にエルサリスは息を飲む。
 父がこの地下室を訪れるのは、はじめてだった。実に二十年間、ただの一度も父はここに来たことがない。それは彼という息子の存在を認識しないと言い放つかのよう。父が会うのは「エルサミア」ただ一人。
「早くしろ」
 淡々とした父の声。エルサリスは震えることも忘れて立ち上がる。思わずリジーを見やれば、断固としてついて行く、そんな乳母の顔。
「はい、お父様」
 従うエルサリスの傍ら、リジーが控える。ちらりと見やった父はリジーの存在を黙殺した。それに彼女が安堵しているのを感じつつ、エルサリスは屋敷に上がっていく。
 父に連れられ、進んで行くうちにエルサリスは訝しさを覚えはじめた。屋敷内がいつになく騒然としている、そんな気がしたせい。うるさいわけではない。召使たちが立ち騒いでいるわけでもない。ただ、空気が。
「……お嬢様」
 一歩後ろを歩いていたリジーがそっと身を寄せてくる。励まそうと言う素振りながら、彼女のほうが慰めを求めている。黙ってエルサリスは手を差し伸べる。一度握り、すぐに放した。
 振り返りもせず歩いて行く父の足取り。エルサリスは止まりそうになる。気づいたのだろう彼が片目だけでエルサリスを睨んだ。
「何をしている」
 ただ、それだけ。エルサリスは質問すらできず、許されず、ただ従うしかない。内心で、怯えが激しくなっていた。自分が怯えれば、リジーの恐怖が増してしまう。それだけを支えにエルサリスは父に従う。
 いまだかつて立ち入りを許されたことのない場所だった、そこは。屋敷の中でも主人一家が暮らす一角。エルサリスは姉の居間までしか、入ったことがない。来客を迎える、外向きの居間で彼女自身がくつろぐ場所ではない。それがエルサリスとエルサミアの差だった。
 外聞を憚るせいか、主人一家のための一角は、殊の外に豪勢だった。人に見られれば何を言われるかわからない、けれど富貴は楽しみたい、そんな思いが現れたかのような。重厚な彫刻の施された扉は金箔張り、廊下は彩色陶板で模様が描かれ、その上には踝が埋まりそうな分厚い絨毯。リジーが無言で首を振ったのが感じられ、エルサリスは口許だけで微笑む。
 中でも優雅を狙ったのだろう扉が一枚。ただ、過ぎたるは及ばざるがごとしを体現した扉でもある。雰囲気からかろうじて女性の部屋だろう見当はつく。そこは小さな居間だった、奥にも扉。ならばここは続きの間と言うことか。
「入れ」
 奥の扉を開け放った父について足を踏み入れ、エルサリスは眉を顰める。強烈な異臭がしていた。室内は繊細な色づかいも優しい壁紙や窓の掛け布。小花模様の織り出された絨毯と、やはり女性の設え。中央に大きな寝台があり、天蓋からおろされた薄布の向こう、横たわる人影。エルサリスは呼吸を止める。背後でリジーが絶句していた。父が、その薄布をなんの配慮もなく剥ぎ取るよう、開けていた。
「見れば説明など要らんだろう。今日からお前がエルサミアだ」
 唇が震えた。知らず寝台の元、エルサリスは進み出る。付き従っていたはずのリジーが彼の袖を取り、必死になって止めているのにも気づかずに。
「……姉さま」
 一言、それだけが口にできたすべて。寝台に横たわるのは、エルサミアその人。二目と見られない有様に成り果てていたけれど。
「買い物に出た帰り、馬車が横転した。手足の一本や二本、折れようが崩れようがどうと言うことはない。だが、この始末だ」
 まだ息はあるのだろう姉が父を見上げていた。何があったのか、顔面は血と膿とに塗れ、ぐずぐずと腐汁を垂らしている。それだけは無事だった左目が、信じられないとばかり父を見上げていた。
「買い求めたばかりの毒を被ったらしい。馬鹿な娘もいたものだ」
 嘆かわしいと溜息をつく父をはじめて見るような心持ちでエルサリスは見やった。赤の他人ならばどれほどよいか。同じ人間とは思えないようなことを口にするこの男は、紛れもなく彼の父親だった。
「そんな……神官様をお呼びしたのですか。姉さまは」
「馬鹿を言うな! こんなに崩れた顔をどうできる。どれだけ寄進をふんだくられるかわかったものではない! あの生臭坊主どもめ」
「ですが――!」
「わざわざ大金をかけてこれを直す必要がどこにある。ここにエルサミアはいる。なんの問題もあるまい」
 何を言っているのか、父は。いまの言葉の印象にエルサリスは震えを止められない。リジーと二人、気づけば抱き合っていた。
「壊れた道具を後生大事にしてなんの意味がある。代わりがあればそれでよい。そして代わりはここにある」
「か、わり……」
「そのとおりだ」
 姉の片目から、涙がこぼれるのをエルサリスは見ていた。信じがたいことを、いまこの苦痛の中で彼女は聞かされている。エルサリスとて、信じられなかった。
「娘だからこそ、わしの商売の役に立つ。貴族に嫁ぐなり、妾奉公するなりできる。男ではそうはいかんからな」
 だからお前は出来損ないなのだと言われた気がした。はじめて自分が父に疎まれた理由がわかった。意味がわからないと言う意味が、わかった。
「こんな化け物を直す金が惜しいわ。エルサミアが嫁いで手に入る金より出費が多くては無意味」
 からからと父が笑った。いまここで死に逝こうとしている姉の前、楽しげに父が笑っていた。ごぼり、崩れた喉を鳴らした姉。言いたいことがあるのだろう、叫びたいことがあるのだろう。それでもすでに言葉は出ない。
「そんな、姉さま……」
 殴られ続けて生きてきた。生きるために殴られるのか、殴られるために生きているのか、わからなくなるほどの日々。それでもエルサリスはたまらない。咄嗟に取った姉の手は、血塗れのまま放置されていたのか、乾いた血がぱらぱらと落ちる。折れ、ちぎれ、まともな指など一本も残っていない。その手で彼女は。
「あっ!」
 命の瀬戸際にあるとは思えない激しさで、エルサリスを拒絶した。憎悪に歪んだ目は、血が滲んだのだろう、濁っている。それでもなお。
「そんなものにかまうな、エルサミア」
 ひたすらに、ここにあるのは壊れた道具。お前こそがエルサミア。父は言う。無言で首を振り、エルサリスもまた父を拒絶する。
 姉ですら道具であったのならば、自分はなんだと言うのか。愛され慈しまれた姉は、ただ父の商売の道具だった。そのためにこそ、愛されていた。出来損ないだから疎まれる自分のやるせなさすら薙ぎ払い、人生そのものが踏みつぶされて行くかのよう。
「まぁ、ミア。元気になったのね。よかったわ」
 呆然と立ちすくむエルサリスの元、母がやってきた。吐き気をこらえきれなくなったリジーが口許を押さえる。
「お、母様……?」
 母はいま、自分をなんと呼んだ。元気になったとはどういうことだ。頭の傷ならばもうほとんど傷跡さえ消えている。
「あんな大きな事故だったもの。私の可愛いミアがどうかなってしまったりするはずはないとわかっていても心配だものね」
 与えられた抱擁。満足げに微笑む父。エルサリスは知らずえずく。それに気づかないのか気にも留めないのか、母は笑顔で夫を見やった。
「ミアがいてようございましたね、あなた」
「あぁ、問題ない。これでジルクレスト卿との婚儀もつつがなく済ませられる」
「楽しみですこと」
 うふふ、と笑う彼女が顔を顰めた。涙をこぼす寝台の上のエルサミア。母親に縋ろうと壊れた片手を痛みに苦しみ差し伸べる。
「なんて気持ち悪い。あなた、さっさと片付けてくださいな、こんなもの」
 吐き出すように母は言った。ゆらりと傾いだ体をリジーが支えてくれなければエルサリスは倒れていたに違いない。
「お、があ、さ――」
 潰れた喉が絞り出した必死の一言。母は顔を顰めるだけだった。さも気持ち悪いと言いたげに手巾を取りだし鼻先に当てる。
「なんて酷い臭い。出来損ないならばそれらしく、潔く死になさい。私の可愛いミアの邪魔をしないでちょうだいな」
 生まれてこの方、弟を罵ってきた言葉でいまエルサミアは罵られた。愛されていたはずの母親に。我が儘を許してくれた母親に。
「出来損ないならばちょうどいい。死体はとりあえず地下にでも放り込んでおくか。さすがに外聞が悪いからな」
 豪快に笑う父、楽しげに同意する母。立ちすくむ弟の姿は彼女には見えない。悲鳴か、怒号か。吼えたはずの声はごぼごぼと、なにものともわからない。はっしと両親を睨み据えた血に汚れた碧い目。次の瞬間、白目を剥いた彼女はそのまま息絶えた。
「あぁ、ようやく死んだ。本当に、酷い臭いでたまらないわ。ちょっとそこの、窓を開けてちょうだい。人を呼んで、これを片付けて。あぁ、そうそう、ちゃんと敷布から何から綺麗にするのよ。私のミアの寝台を汚されたんだからね」
 言いつけられたリジーが震えながら続きの間へとよろめき歩く。扉の向こう、一切を聞いていたのだろうベルティナが真っ青になって立っていた。
「ミア、お茶にしましょうね。こんなところにいつまでもいてはあなたにまで臭いが移ってしまいますよ」
 手を引かれそうになり、エルサリスは咄嗟に払う。何が起きているのか、理解ができない、否、したくない。姉が逝ったはずなのに。両親は何もなかったかのよう。
「姉さまが……」
「何を言っているの、ミア。あなたは一人娘じゃない」
 可愛い私の娘。姉と同じ赤味がかった銅色の髪を撫でる母の手。幼いころには姉を羨んだこともある。いまは恐ろしくてたまらなかった。
「ご、ごめんなさい……お母様。少し、気分が……」
 言ってエルサリスはリジーの手を取り駆け出した。少なくとも、駆け出そうとはした。続きの間に入った途端、震える足が意志を裏切る。気づけば絨毯に膝をつき、エルサリスは何度も何度も吐いていた。
「まぁ、可哀想なミア。あの出来損ないが嫌だったのね。可哀想に」
 背をさする母の微笑み。恐怖のあまり腰が抜けたのだろうリジーが呆然とエルサリスの傍らに座り込んでいた。




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