彼の人の下

 指折り数え、イアンの帰京を待っている。エルサリスは落ち着いて日々を過ごしていた。やきもきしているのはリジーのほう。
「大丈夫よ、リジー」
 日に何度そう言うことだろう。リジーはそれでもおろおろとし通しだった。何もイアンのことだけではない。
 イアン毒殺を思いついたせいか、あれ以来エルサミアが地下に下りてくることはなくなった。代わりに毎日のよう、女中頭のベルティナが来る。
 怪我の様子を聞き、青い顔をしたまま戻っていく彼女にはエルサリスもしてやれることがない。女中頭は、毎度違うものを携えていた。いずれも毒であることは明確なものを。
 エルサリス主従はなんとか命を保っていた。中には純粋にベルティナの好意だろう差し入れもある。それをエルサリスは見紛わない。彼が大丈夫だ、と言ったものは口にしてもなんの問題もなかった。
「サリス様の勘がよろしゅうて、ほんにようございました」
 一度はエルサリスの手を通らず、リジーが食卓に出してしまった葡萄酒があったが、それをエルサリスは笑って退けた。翌日、朝の散策の際にこっそり確かめれば、毒だった。
 イアン帰京が遅れているのが幸いなのか、エルサリスはすでに人前に出ても問題ない程度に傷が回復している。まだまだよく見れば額に傷跡は残っていたけれど、うっかり爪で傷つけてしまった、と言える程度だ。おかげで朝の散策も再開している。
「やっぱり、気分がいいわね」
 言いつつエルサリスは何気なくベルティナを振り返り、にこりと笑っては目を細める。それに彼女は安堵したよう後ろを向いた。
「ごめんなさいね」
 迂闊にも見逃してしまった、と言えば許されるだろう、彼女は。見ていて咎めないわけにはいかないのだから、見ないでくれるのはエルサリス主従にとってもありがたい。
 二人の手がそっと薬草を摘んでいく。何種類か、目立たないよう少量ずつを。万が一にも毒を飲んでしまったときのためだった。
 それほど、彼らはいま危険にさらされている。リジーはエルサリスが切なくてならなかった。同じ父母から同じ日に生まれた双子の姉と弟。
 ――旦那様も奥方様も、坊ちゃまのなにがお気に召しませんのか。
 生まれた瞬間に拒まれたエルサリスに、リジーはただ仕えることしかできない。それでもここまで育ってくれた。乳母と言う使用人ですら慈しむことができる人間に育ってくれた。
 だからなおさら、痛いほどに悲しい。エルサリスがイアンを救おうとしているその優しさが、切ない。彼を救うならば、確かに事実を告げるよりあるまいとリジーでも思う。だがしかし、それをすればエルサリスは。
「戻りましょう、リジー」
 見逃してくれた女中頭のため、促されるより先にリジーに声をかけたエルサリスは、佇む乳母に眉を顰める。
「大丈夫よ、リジー。すべてがよくなるわ、きっと」
 励ますことしかできない自分に倦んでいるエルサリスだとは、リジーは知らない。知らなくていいと彼は思う。いまはまだ、そうすることしかできない自分だった。違うことができるようになる日が来るのかは、見込みがないと彼は思う。
 イアンのこと、毒のこと。リジーの老いた体がまた一回り小さくなってしまうようなことが伸し掛かり続けている。地下に戻れば、またエルサミアからいつ毒が来るかと怯えなければならない。
「サリス様――」
 もしもこの地下室自体に毒を撒かれたらどうしたらいいのか。階段から毒を落とされれば、いかに勘の鋭いエルサリスといえどもひとたまりもあるまい。
「それはきっとしないと思うわ」
「なぜにに、ございましょう」
「姉さまは、もっと直接な手段がお好みだもの。本当だったら首を締めるとか、腕の血管を切り裂くとか。そちらのほうがお好きだと思うの。でも、女性の力では少し難しい。私は抵抗しないとお思いかもしれないけれど、本当にそうなさりたいのはイアン様だもの」
 自分は今となってはイアン殺害のための実験でしかない、とエルサリスは言いきる。蒼白になる乳母に、だから姉は口に入るものしか興味がないはずだから安心しろ、そう言いつつそもそも安心できることではないと苦笑した。
「なんと恐ろしい……サリス様の、血を分けた姉君とは、とても……」
「姉さまたちに言わせると、私のほうが間違いなのよ」
 軽く言ったその言葉、言われ続けている言葉でもある。出来損ないと。よもやそれを今後あのような形で実感するとは思いもしないエルサリスだった。
 午後になり、今日もベルティナが下りてきた。扉を開けて入って来た女中頭は、いつにもましてひどい顔をしていた。
「まぁ……ベルティナ。まず、お座りなさい。いいから、気にしないで。倒れそうだもの。リジー」
 慌てる主人に従って、リジーは手早く薬草茶を淹れる。熱いそれを差し出せば、紙より白くなった顔の女中頭は黙って受け取る。目の焦点が合っていなかった。
「まず……これ、を……」
 言いつけを守ろうとする女中頭は熱い茶を置き、震える手で一瓶の葡萄酒を差し出す。エルサリスは姉にお礼を、と呟いて微笑んで彼女を見ていた。その間にも再び茶を手にしたベルティナは震え続けている。
「ベルティナ殿」
 見るに見かねたリジーが彼女の手を拭いた。熱い茶がかかったのにも気づかず、女中頭は震えている。謹厳な彼女をそこまで怯えさせたものは何かと主従、目を見かわしていた。
「ベルティナ、話せることならば話してしまった方がいいわ。そのままではつらいでしょう」
 屋敷の主人一家に仕えているベルティナだった。同じ顔、同じ姿、同じ声をした令嬢に最も近々と接しているのも、彼女だった。まるで別人だ、とエルサリスをじっと見つめる。不作法だ、と気づいて目をそらすまで。
「今朝の、ことにございます――」
 喉に絡んだのはなんだろう、恐怖だったとすぐさま二人ともが気づいた。茶器を両手で握りしめ、そのぬくもりから力をもらうようベルティナは話し出す。
 エルサリス主従の監視を終え、地下への扉の鍵をかけたベルティナは平素と同じよう、エルサミアに報告に行ったと言う。
「そう。まだ生きてるのね。しぶといったらありゃしない。もっと強い毒じゃないとだめなのかしら。出来損ないは体が強いものだって聞くけど、ほんとね」
 くすくすとさも楽しげに笑う令嬢は目で庭を指した、ベルティナはそこまで言って唾を飲み下す。記憶の中の恐怖が強いのだろう、吐き気をこらえる彼女を励ますよう、リジーが黙って隣に腰を下ろした。それに感謝の眼差しを送り、ベルティナは続ける。
「お庭に、お嬢様が最近可愛がっている、大きな犬が、いるのですが」
「えぇ、知っているわ。とっても大きくて、少し怖いと思ったの」
 朝の散策の際、エルサリスも見かけていた。あれは姉の犬だったのかと今更思う。子供ならば一飲みにできてしまいそうに大きな口をしていた。
「あ、あの犬が……口から、泡を吐いて……お嬢様は、なんとも楽しげに……」
 こらえきれなかった吐き気にベルティナが口許を覆う。背をさすってやるリジーも青い顔をしていた。エルサリス一人、無表情。この身だけでは足らなくなって、動物まで手にかけるようになったか姉は。ただそればかりを考えていた。
「所詮は獣よね。甘いお菓子に仕込んでやったら喜んで食べたわよ。なのにこれじゃあの出来損ないは死なないのよ。ほんと、どうしようかしら。新しい毒を買ってみようかな」
 庭に下りたエルサミアは可愛がっていた犬を蹴りつけ、そんなことを言ったらしい。ベルティナは衝撃を受けているようだったけれど、エルサリスには姉の心境がなぜかわかった。
 実験がしたかったから、可愛がっていたのだと。毒を盛るために、手に入れたのだと、不思議と姉の心持ちがよくわかる。そちらにこそ、吐き気がした。
「い、いったい、お嬢様は、どうなさってしまわれたのか」
「何を、今更。ベルティナ殿、我が主はずっとエルサミア様の暴力にさらされておいでです。今更、犬の一匹や二匹――」
「いいえ、リジー。違うわ。いままで姉さまは、私にだけ酷いことをなさっていたのよ。ベルティナが怖がるのも、わかるわ。――犬でだめならば、次は自分たち使用人かもしれない」
 エルサリスが言った途端だった。ベルティナが息を飲み、ふらりと倒れそうになったのは。慌てて支えるリジーは。それでも今更だと言いたげだった。
「わ、わた、私は……」
 しばしの後、息を吹き返したベルティナは、ここが地下室だと認識するなりまた怯えた。ここに長居をしてはエルサミアに怒られる。けれど戻るのも怖い。そんな彼女の元、エルサリスは歩み寄る。そっと手を取り、微笑んだ。
「大丈夫よ、とは言ってあげられない。私はお屋敷のことはほとんど知らないもの。だからベルティナ、できるだけ姉さまのお側にいないようになさい。それしか、言ってあげられない。ごめんなさいね」
 ゆっくりとした声。助言とも言えない言葉。ベルティナにだとてそれくらいのことはわかっているし、すでに実行もしている。それでもなぜだろう。エルサリスに言われてこの女中頭の目に涙が滲む。取られた手もそのままに、彼を伏し拝んでいた。
「さぁ、もう一杯お茶を飲んで。大丈夫、それほど時間は経っていないわ。イアン様のお戻りの時期や、姉さまのご機嫌のことを私が聞いたと言うことにしておきなさい」
 改めてリジーが淹れた茶をベルティナは熱さも気にせず飲んでいく。喉の熱さに恐怖を紛らわせようとしているかのようだった。
「どうか気をつけて。私はお前に何かがあればとても悲しいわ。それを忘れないでちょうだい。――リジーが気にかけてくれて、私はそれで救われているの。お前もそうであればいいのだけれど」
 ささやかな、人の思い。それが最後の瞬間には力になる。日頃から暴虐にさらされているエルサリスだからこそ、重い言葉だった。
「はい……」
 一礼し、まだまだ不安そうな顔をしたままベルティナが戻っていく。エルサリス主従は期せずして溜息が重なったのを知る。
「ここにね、匿ってあげられればいい。はじめてそんなことを思ったわ」
「お優しいのも結構ですが、サリス様。姉君様はどうなさっておいでなのか。今更ではありましょうが、それにしても常軌を逸しすぎておいでです」
 まったくだ。エルサリスは思っても言わない。無言こそが何より激しい思い。リジーは強くなりつつある主の背中を見つめていた。




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