頭の傷は重いものだった。あれからまだ眩暈が取れないでいる。目を閉じれば天井がまわっているかのよう。けれどこの程度で済んだ、とエルサリスはほっとしてもいた。 「何を仰せになりますか。今度こそはお命がないかと、リジーはどれほど肝を冷やしましたことか」 すでに怪我から十五日は経っている。それでもまだリジーは不安そうに食事を作る。いかにも病人が食べるようなものばかりで、さすがにそろそろ普通の食事にしてほしいとエルサリスも思わなくはない。 「大丈夫よ。それより……お前のシチュウが食べたいわ」 心尽くしを無下にすることは出来かねてそのような言い方をした彼に、乳母はあっさりと首を振る。まだまだ早いと。 「サリス様、まだ眩暈を覚えておいででしょう。早うございます」 「でも、食べないと治らないわ」 「体に負担をかけては治るものも治りません」 差し出された野菜のスープにエルサリスは苦笑する。これでも緩い粥よりはましになった。あれを食べ続けるのはさすがに閉口する。 「ほんに、怖い思いを致しました」 しっかりと食事を取るエルサリスをリジーは飽かず見つめ続ける。それだけ彼女の恐怖は強かったのだろう。 だがしかし。エルサリスの恐怖はそこにはなかった。怪我をしたのは確かに痛い。殴られるのだとてできれば避けたい。けれど、なにより恐ろしいのは。 意識を取り戻した翌日。地下室に姉が下りてきた。まだいささかぼんやりとしていたエルサリスだ、それでも充分以上に驚いたものを。だが、安堵はした。エルサリスの目覚めた顔を見るなり彼女は物も言わずにその頬を張る。そのまま黙っていなくなった。 それだけならば、彼女の気紛れで済んだ話。けれど以来、三日に一度は姉がここに来る。怪我の様子を気にかける様が恐ろしくてならない。まかり間違っても治癒を願っているわけではないのだから。 「……そろそろ、おいでになられる頃でしょうか」 リジーもまた、それを不安に思っているのだろう。当然だという気もした。これほど頻繁に、殴りもしない姉がここに来るなどはじめてのこと。 「そうね」 呟くよう答え、エルサリスはまだ巻かれたままの包帯に手を添える。リジーが無言で包帯を厚く直した。 ばたばたと足音が聞こえ、予想通り姉が来たのはそれからすぐのこと。リジーは扉の側に控えようとしてエルサリスに止められた。いずれ蹴開ける姉だ、そこにいては怪我をしかねない。そして案の定、とんでもない勢いで扉が開く。 「あら、まだ生きていたの」 ふん、と鼻で笑った姉。珍しく近々とエルサリスの側まで来てはその顔を覗き込む。厚く巻かれた包帯に目を留めた。 「ちょっとそこの、ちゃんと薬は使ってるんでしょうね!」 リジーに向かい、彼女は見下しきった侮蔑の眼差しもあらわに言う。いかに主人の娘といい、召使といえども、普通はこんな物言いはしない。リジーは心得たもので慎ましく頭を下げた。 「姉さまにいただいたお薬は、大事に使わせていただいています」 乳母に代わってエルサリスが答えれば、本当かと眇められる目。同じ碧をしているはずなのに、自分はこのような顔をしているのかと愕然とするほど。 「どこがなのよ? 全然成果が出ないじゃない! たっぷりつけてんでしょうね!?」 「はい。それでも、治りが遅くて……私が悪うございます、どうか」 まだ立ち上がる気力もないのだ、とエルサリスは長椅子に半身を伸ばしたまま姉に頭を下げて見せる。風に当たる花のようなその姿、エルサミアは強引に包帯に手をかけようとした。 「お嬢様、どうかお待ちを!」 悲鳴のようなリジーの声。そんなもので止まる人ではなかったけれど、彼女の悲鳴が珍しかったからか、いやらしく笑ってエルサリスの頭の傷を小突いて止める。 「傷が、酷うございます。二目と……見れないほど……膿んで、お嬢様のお目にかけてよいようなものでは……とても……」 涙をこらえでもしたかのような乳母の声。エルサリスはじっと耐える風情で目を伏せる。エルサミアが包帯に視線を移せば、確かに黄色く汚い汁が滲んでいた。 「あっそ。なら、しょうがないわね。そんなもん、見たくないし!」 歓喜に染まった姉の声にエルサリスは身を震わせていた。彼女が何を望んでいるのか、わからないはずもない。なぜこうも頻繁に覗きに来ているのか、理解できないはずもない。 「さっさと、結果が出ればいいのに。ほんと愚図はどこまで行っても愚図よね。――あぁ、そうだわ。傷、酷いのよね?」 蒼白になった召使がなんとかうなずくのに、エルサミアは嬉しそうに微笑む。同じ微笑でもこれほどまでに違うものだった、彼と彼女のそれは。 「いいことを考えたわ、そうよね。そうすればいいんだわ。――早く、治るといいわね、それ。あの男はいま、領地の巡回だとかでいないのよ。おかげで気分がいいんだけど」 エルサリスもそれは知っていた。以前聞いていたから、安堵もしている。自分が怪我で動けない以上、イアンは姉に会うしかない、もしも王都にいるのならば。いないのは幸いだった。 「領地とか御大層なこと言ってるけどさ、あんただって知ってるでしょ。村よ!? 臭い獣と汚い農民しかいないのよ!? あたし、子爵夫人になったらそんなところに行かされるのかと思って憂鬱だったんだけど」 くすくすとエルサミアは笑った。いつから彼女は正気を失ったのだろう。そんな狂気の笑み。エルサリスは愕然と姉を見ている。彼女の示唆するものが、わかった気がした。 「あぁあ、早く結果が出ないかな! あんただって痛くなくなれば嬉しいでしょ? さっさとしなさいよ、愚図! そうなったら、あたしはとっても幸せ。あんただって、いいことがあるかもね」 浮き浮きと彼女は去って行く。弾むような足取りで階段を上がっていく、その騒音。エルサリス主従は完全に音が消えるまでその場を動けなかった。 「……見て、まいります」 しわがれ罅割れたリジーの声。音がしないだけでは安心できなかったのだろう。いまは屋敷と地下を隔てる重たい扉と鍵がこんなにもありがたい。ほっとした顔をして戻ったリジーは何はともあれ、と茶を淹れてくれた。 「お飲みなさいまし。薬草茶にございますよ」 「リジーのほうが震えているわ。お相伴なさいな」 「ありがとう存じます……。ほんに、坊ちゃまは肝が太い。リジーは、恐ろしくて恐ろしくて」 気持ちはわかるエルサリスだった。熱い茶を飲み下せば、生気が戻るとまではいかなかったけれど、気力は湧いてきた気がする。 「口幅ったいことではありますが、サリス様。姉君様は」 「そうね……。どうなさってしまったのかしら」 言った途端、リジーの呆れ顔。そうではないだろうと言いたいらしい。エルサリスは苦笑して目顔で詫びる。 「さすがに私もおかしいとは思っているわ。私を殺しても姉さまに得はないはずだもの」 「お気に召さない、理由はそれ以上に必要だとは思えませぬが」 「それも、そうなんだけれど。でも姉さま、狂ってしまわれたかのよう」 溜息にリジーが背筋を伸ばす。姉の心配などする必要がどこにある、と言わんばかりに。エルサリスとしては心配などしているのではないのだが。 「何をなさるか読めなくなって不安、ということよ、リジー。ただ殴られる。蹴られる、それだけならばいいの。対処ができるわ。ずっとしてきたことだもの。でも」 毒薬を盛ろうとしてくるとは。それを嬉々として確かめに来るとは。頭がおかしくなったとしか思えない。 「何はともあれ、包帯をお直しいたしましょう」 長い吐息はエルサミアの理不尽に対する不満がたっぷりと。いまにはじまったことでもなかったけれど。 リジーは優しい手つきで包帯を解く。まずは厚く巻きなおしたものを。黄色い染料を染み込ませて畳んだ布が床に落ちた。膿汁、と見せたものの正体がこれだった。本当はここまで酷くはない。 「少し、よくなってまいりましたね」 傷自体はすでに塞がりかけている。膿んでもいなかったし、このぶんならば酷い痕になったりもしないだろう。 「お笑いくださいませ、サリス様。坊ちゃまのお顔に傷跡が残るかと思うとリジーは居ても立ってもおれませんでした」 女の顔ではないのだから、傷の一つや二つ、そう笑い飛ばせばいいだろうに、どうしてもできなかったとリジーは言う。 「お前が私を心配してくれる、その心の表れだと思うわ。ありがとう、リジー」 皺の寄った手を取ってはぽんぽんと叩く。それに目を潤ませたリジーにエルサリスは微笑んだ。改めてエルサミアの笑みと彼のそれを見比べてしまう。エルサリスの笑みはなんと美しいのかと。 「ねぇ、リジー。私、決めたわ」 手当ての済んだリジーを座らせて、エルサリスは言う。どことなくいままでと気配が違った。その端正な佇まいに気圧されるよう、リジーはじっと主を見つめる。 「姉さまが、なにを言ってらしたか、お前にもわかるわね? 私一人のことならば、まだいいの。でも、姉さまは、イアン様を」 ぎゅっと拳を握った。逆らうと考えるだけで、こんなにも恐ろしい。生まれ出て、地下に暮らして二十年。はじめてエルサリスは自らの意志を持とうとしていた。 「子爵夫人の名だけが欲しいと言っていた姉さまだもの。婚姻がなってしまえば」 「……なんと」 「そうでしょう? だからこそ、私の傷を気にかけていらっしゃる」 毒薬が成果を上げるそのときを。どれほどの毒をどれだけ盛ればいいのかを。イアンを確実に亡き者にするために。 「だから私は、イアン様にすべてを申し上げることにする」 決意の眼差しは、それでもなお揺れる。反逆が恐ろしい。それ以上に、イアンに告げることが恐ろしい。 「イアン様に、私が卿を謀っていたことをお知らせする。婚約を、破棄していただく。それ以外に、イアン様をお守りする方法はないと、思うの……」 「サリス様が謀っていたわけでは」 「同じよ、リジー」 姉の身代わりに、弟が女のふりをして会見の場にいた。それだけでどれほどの侮辱か。イアンの怒りに触れることが怖い。何より、淡い思いを自ら断つことがエルサリスは怖かった。それでも。 |