彼の人の下

 丸一日というもの、エルサリスは目覚めなかった。地下室に運び込まれたまま、蒼白になって眠り続ける。そして目を開けたエルサリスの前、涙にくれたリジーの眼差し。
「おぉ……サリス様……」
 言葉もなく嗚咽する乳母に手を差し伸べれば、がしりと握られ、胸の中に抱き締められる。手に感じるぬくもりに、エルサリスは息を吐く。
「生きていたのね……よかった」
 自分がではない。あの瞬間、自分が姉に打たれた瞬間、リジーが彼女に半ば飛びかかっていったのを彼は覚えている。
「無事でよかった、リジー。怪我はないのね?」
「リジーのことなんぞ……サリス様こそ……」
「大丈夫よ」
 そろりと微笑み、顔を顰める。よほど痛みが強いらしい。いまだとられたままの手を抜き取るのが忍びなく、反対の手で傷口に触れようとすれば、すでにしっかりと包帯が巻かれている。
「手当てをしてくれたのね、ありがとう」
 その言葉にリジーはおや、と首をかしげる。そしてあれからもう一日が過ぎていると彼に告げた。その驚きの眼差し。それほど時が過ぎているとは思ってもいなかったらしい。
「酷い……こんなに酷いお怪我は、ありませんでしたよ。坊ちゃま」
 殴る蹴るは日常でも、エルサミアが直接に手を下して殺そうとすることはなかった。毒殺の危機こそあったものの、リジーにもわかっている。あれはエルサミアの質の悪い冗談だ。本気で殺そうとしていたのではない。エルサリスが苦しむのを見て楽しみたかっただけだ。無言で首を振る老女にエルサリスは微笑む。
「生きているのだもの、大丈夫よ」
 傷の痛みに顔を顰めながらも言い切るエルサリス。リジーは答えられない。これからさらに酷いことが起きるのではないか、不安が募ってどうにもできない。
「ねぇ、リジー」
「なんでございましょう、サリス様」
「一日が過ぎているなんて聞いたせいかしら? とても喉が渇いたわ」
 何事もないかのよう言うエルサリスにリジーは涙をこらえ立ち上がる。少なくとも、精一杯生きる努力だけは惜しみたくない。
「すぐにお持ちいたしましょうね」
 できれば軽いものでも食べさせたい。万が一のとき、空腹では何もできないだろう。そんなことを思う自分に怯えつつ、リジーはしっかと立つ。老いた自分であっても、この身が奮闘せねばならないときだった。自分の他には誰もエルサリスを守れない。
 リジーがこしらえた緩い粥をエルサリスは優雅に口に運ぶ。ゆっくりと、一匙ずつ。本当は、そうでもしなければ喉を通らなかった。リジーにもそれは見て取れた。けれど指摘はできない。主従二人、怯えるばかりではもうどこにも行けない場所にいると知った。
「リジー、手を貸してちょうだい」
「立ってはなりません!」
「そうは言っても……困るのよ」
 ほんのりと頬を染めて見せたエルサリス。リジーはぽかんとし、ついで笑い出す。エルサリスのほうがずっと落ち着いているらしい。
「これでも私は男だもの。リジーよりしっかりしなくてはね」
 片目をつぶる茶目ぶりにリジーは目の潤みがこらえきれない。覚束ない足取りかと思ったが、意外にしっかりとエルサリスは歩く。充分に眠ったことが、かえってよかったのかもしれない。
 化粧室でエルサリスは息を吸う。吐く。一人になれば、痛みは酷い。深い呼吸と共に嘔吐感が込み上げる。それでもリジーの前でつらい顔はできなかった。このことでどれほど乳母が心を痛めていることか。思えばなんとしても立ち上がらねばと思う。
「一応は男だったみたい」
 苦笑してしまった。自分が男性だと言う自覚はあったし、女性になりたいと思ったこともない。だがこうして異常な人生を送るうち、これが常態になっていたのだと気づかされた。
「イアン様……」
 すべては、彼に出会ったおかげ。イアンに巡り合ったからこそ、自らが置かれた場所の異常を思い知ることもできた。
 エルサリスはそっと傷口に手を当てる。厚く巻かれた包帯に、怪我の重さを知る。姉に見下されているのはわかりきっている。
「憎まれているとは、思わなかったわね」
 見下しきった相手を憎むことができるのだろうか。他者を見下すと言う感覚のないエルサリスにはわからない。せいぜいが読書の中で出会った他人の経験、想像の産物だ。それでも少し、不思議な気はする。
 もう一度息を吸って吐いて。呼吸を整えるだけで全身を痛みが貫くよう。できるだけ早く立ち上がらなければ、思うものの静養する他に手段がない。それが最も早いと経験として知っている。
 寝室には戻らず、エルサリスは居間へと。リジーもわかっていたのだろう、そちらで待ち構えていた。
「さ、横になられませ」
「せっかくベッドではないところに来たのに」
 乳母にはお見通し、と笑われてしまった。リジーが、必死になって慰め、鼓舞してくれているのを感じる。ならば応じねば男が廃る。くすりとエルサリスは笑った。
「サリス様?」
「おかしいわね。ここで頑張らなきゃ男が廃る、なんて思うのよ、この私が」
「どこがおかしゅうございましょうや?」
 リジーの坊ちゃまは立派なお方です、断言する乳母にまたもエルサリスは笑いを漏らす。女性の言葉使いでこんなことを言う自分を乳母はおかしいとは思わないのだろうか。それでもほかに話し方を知らないエルサリスだった。
「ジルクレスト卿の真似をしてごらんになってはいかがでしょう?」
「そうね、イアン様は優しい話し方をなさる方だから。でも」
「迂闊なことを申しました。お許しくださいまし」
 気にしないで、とリジーの手をぽんぽんと叩いた。イアンの名に胸が痛む。もう昨日のことなのか、あれは。エルサリスは黙って首を振り、しばし無言。いつの間にかまた微睡んだらしい。
「サリス様」
 小声でリジーに呼びかけられ、エルサリスは目を覚ます。何事か、と緊迫した乳母に目をやれば、ほどなく人の気配。すでにリジーには合図があったのだろう。
「――お目覚めでいらっしゃいましたか」
 ベルティナだった。女中頭がそこにいる。エルサリスは目顔でリジーを抑え起き上がろうとして、けれど乳母には止められた。そしてまじまじとベルティナを見てしまう。ずいぶんと面窶れしている、そんな気がした。
「えぇ、ありがとう」
 心配してくれたのかもしれない、彼女は。たとえそれが主人一家から殺人者が出る不安であったとしてもかまわない。どことなく嬉しいのは事実だ。
「お嬢様から、お薬を預かってまいりました」
 エルサリスより先にリジーが驚く。そんな馬鹿な、言葉にしそうになって慌てて口をつぐむ。エルサリスは黙って微笑んでいた。差し出された薬を手に取り、軽く押し戴く。
「大切な、貴重なお薬だそうです。――よもや、エルサリス様、その程度のお怪我でお使いになったりはいたしませんでしょうね?」
「何を、ベルティナ殿、なんと言うことを――!」
「リジー。――もちろんよ、ベルティナ。姉さまにはお礼を申し上げて。早速と大事に使わせていただきます、と私が言っていたと」
「承りました」
 淡々としたベルティナの言葉。エルサリスより多少遅れてリジーにもその意味が伝わる。蒼白になった乳母にエルサリスは微笑みかけた。
「差し出口を致しますが……お許しを」
 珍しくベルティナが言葉を続けた。用事が済むなり、かき消すようにいなくなる人だというのに。それだけ切迫しているのかもしれない。
「お美しゅうなられました、エルサリス様」
 だが彼女はそんなことを言う。彼をじっと見つめる眼差しは観察するものの目。無礼だとリジーが呟いた。
「いまならば、お嬢様と見間違える人は少ないかと」
「ベルティナ?」
「ジルクレスト卿は、よもやお嬢様が二人おいでだとは夢にも思いますまい。ですから、お気づきになれないのではないかと」
「それでも……」
 自分が男である事実は変わらない。イアンを騙しているのも事実。首を振るエルサリスにベルティナもまた痛ましげに首を振る。
「昨日、ジルクレスト卿は……違和感を覚えておいでのよう、拝察いたしました」
 どう言うことだ、と言葉を失くしたエルサリスに代わってリジーが問うた。その方が気楽だったのだろう、いささか緊張がほぐれた様子で彼女は言葉を継ぐ。
「ずいぶんと苛立ってらしたように思います。ジルクレスト卿は、あのように感情をあらわにされるような方ではなかったように思う」
 ふとエルサリスは眉根を寄せる。ベルティナの言うとおりだった。確かに昨日のイアンは声に険があった。
「……お嬢様が、あえてあのような言いぶりをなさるよう、ジルクレスト卿を。……これ以上はご容赦くださいませ」
 さすがにはっきりとは口にしかねたか、突如としてベルティナは頭を下げる。エルサリスはそっと微笑んでいた。
「ベルティナ、ありがとう。心配させてしまったわね。姉さまに命ぜられての怪我見舞い、ご苦労でした。下がってよろしい」
 ただそれだけで、なにも言っていない、聞いていない。告げたエルサリスに女中頭はほっと息をつく。一礼し、それでも不安そうに振り返りつつ出て行った。
「リジー。これを、うっかり触ったりしないところにしまっておいて」
 姉からの「薬」を手渡せば、気味悪そうに顔を顰める。その手を叩いてやれば不満げに乳母は言う。
「捨ててしまってはなりませぬか。こんな、危ないもの」
「捨てたりしたら、あとが怖いわよ? 見つかったときにお咎めを受けるでしょう?」
 リジーは動揺しているのだろう。普段ならば彼女のほうこそが慎重だというのに。はたと気づいた様子で老女は深呼吸を繰り返す。それから薬を摘まんでどこかにしまいに行った。
 その後ろ姿にエルサリスは思う。本当に、命の危険を覚えたのは、はじめてだった。姉は、なんとしても自分を亡き者にしようとしているのか。まだ使い道があるはずのこの身を。
「それにしても……違和感、ね……」
 いったい何に対してだろう。イアンの声だけが聞こえていた。姉がいたぶるよう、イアンを扱ったのは聞こえていた。それでもイアンの感じた違和感までは、わからない。溜息をつき、だからこそエルサリスは決意を固めて行く。




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