彼の人の下

 珍しくエルサミアが午後の茶にイアンを招く、と言う。彼女はその時間、屋敷の奥まった一室で友人たちと賭け事に興じるのが日常だ。それを破ってまでイアンを呼ぶ、と彼女は言う。
「何より恐ろしゅうございますのは……」
 リジーが青い顔をしていた。エルサリスに、隣室に控えろと言ってきていること。嘆願の末、リジーもその場にいることを許されたけれど、エルサミアが何を考えているのか、それが恐ろしくてたまらない。
「私なら、いいの」
「よくはありませんとも。サリス様! しっかりなさいませ、姉君様に――」
「私より、イアン様よ。イアン様に何かがあってからでは、遅いもの」
 リジーよりよほど青い顔をしていた、エルサリスは。元々あの日に負わされた怪我がよくなっていない。いつつけられたのか、顔にはまたも傷ができている。普段ならばこの怪我が治るまでは軟禁と言う安楽の日々が来るものを。小さな溜息にリジーが拳を握る。この方を守るのは自分しかいないとばかりに。
 そして控えさせられたのは、隣室と言うもおろかな暗い部屋。古びた花瓶や足のぐらつく椅子。そんなものが雑多に放り込んである。
 エルサミアが楽器の教授を受けるとき、あるいは学問の師が来るとき、エルサリスはここに控えていた。
「久しぶりね、ここに来るのも」
 人気を悟られないよう、かつてはあった窓も潰されてしまった。灯りもない。昼間だと言うのに、暗闇だった。扉の合わせ目から、ほんのりと差し込む光。それだけが唯一の光源。
「こんなものを懐かしゅうお思いになりませんように」
「怒らないで、リジー。私は楽器の先生がお見えになるの、好きだったのよ」
 数年前のことをエルサリスは楽しげに語る。流行のヴィオールを習いたいと言った姉。教師が呼ばれたけれど、すぐに飽きてしまった。それをこの部屋で、エルサリスは聞いていた。まるで自分が習ったようだ、と彼は言う。
「楽しかったわ、とても」
 心からそう言う彼にリジーは唇を噛む。本当ならば堂々と、あるいはエルサミア以上に大事に扱われねばならないエルサリス。それなのに彼はそんなことを考えもできない。そう言う風に、育てられた。
「最近ようやく思うの。お前には悪いことをしているって。――リジー、ごめんなさいね。お前がどんなに言葉を尽くしてくれても、私はお父様お母様の方が正しいとしか、思えない、ごめんなさいね」
「なんと……」
「きっとお前の方が正しいことを言っている、それはわかっているのよ」
 暗い部屋の中、エルサリスの顔は見えなかった。それでもリジーには彼が困り顔のまま微笑んでいるのが見えるかのよう。黙って彼の手を取っていた。
「お頭でおわかりになれるなら、いつかお心でも得心いたしますよ、きっと」
 それしか、言えなかった。そんな日が来るのだろうか。疑った心を叱咤する。自分が信じねばならない。エルサリスの分まで。
「お静かになさいませ」
 廊下に面した扉の方から人の声。女中頭がしずしずと来客を告げてくれた。あるいは、姉が来る前に静かにしておいた方がよいとの忠告。エルサリスは無言を返答に代えた。そして耳を澄ませる。しばしの後。
「さぁ、おいでになって。イアン様。素晴らしいお菓子が手に入りましたの」
 だから急なことではあったけれど呼び出した。そんなことをエルサミアは言っていた。すぐ後に続いたイアンは苦笑している。
「それはよかった」
 いささか所用があったのだけれど、婚約者の我が儘ならば多少は聞くのが男というもの。そんな風情。見ればすでに茶菓の用意がしてあった。
 確かに言うだけのことはある。彼女の父が奔走したのだろうか。王宮で見るような豪勢な砂糖菓子だ。が、イアンとしては珍しくはあるけれど珍重するほどでもないと言ったところ。
「素晴らしいでしょう?」
 得々と言いつつ席につくエルサミアの子供じみた態度にまたも苦笑が浮かぶ。花を見ながら散策しているこの人のほうがずっと好ましいとも思う。
「エルサミア、読書はお好きですか」
 突然の問いに彼女は口をつぐむ。なにを急に、と訝しそう。イアンは少しばかり恥ずかしくなった。普段の彼女が好ましいがためにこんなことを問うとはと。
「読書、ですか。好みませんわ」
 けれどあっさり彼女は言い放つ。イアンは顔に出さないまま絶句していた。確かにあの日も好きではないとは言っていた。けれど真実そうであったのならばなぜだ。屋敷の書架の前、嬉しそうに佇んでいた彼女。植物図鑑を愛おしげに眺めていた彼女。
 目の前のエルサミアはまるで別人のよう、くだらないことを考えていると思っても止まらない。
「あぁ、そうでしたか。それは残念だ。あなたもご存じのよう、我が家には優れた本が多くあるので」
 言いつつイアンはエルサミアを見ている。違和感だけが募っていく。正体はどうあっても、知れなかったけれど。
「それより、召し上がって。こんなに綺麗なお菓子、イアン様でもご覧になったことはないでしょう」
 あるとは言いにくいな、と内心で笑いイアンは菓子を手に取る。王宮で口にしたものより、砂糖が粗い。思わずなるほど、と呟いては置いた。
「あら、なにがなるほど、なんですの?」
「いや。珍しい菓子だなと思っただけですよ」
「でしょう!」
 ここまで誇らしげにされてしまうと真実は口にしがたい。肌理の荒い砂糖菓子はイアンにとっては確かに「珍しいもの」ではあった。
「私が妻となった日には、イアン様にはこんなものをいつも召し上がっていただけるようになりますわ」
「それはいけません」
「まぁ……なぜですの」
 むつりと口を引き締めたエルサミアにイアンは背筋を正す。そろそろ貴族の家に入ると言うことを理解してほしい。ちらりと思った。普段の彼女ならばこんなことは言わずとも理解してくれるはずなのに、と。
「貴族の家には貴族の家の決まりがあります。口にするものも、ある程度決まっていると言っていいでしょう。この菓子も――」
 イアンは指で菓子を指し、それにエルサミアはいまだ彼が食べていないと気づいたのか、またも不機嫌になる。
「平素から口にするようなものではありません。我が家が属するメートラ一門は本来ならば武門の家柄。私は才浅くして学問の道に進みましたが、一門の心得だけは忘れていません」
「そんなのくだらないし、どうでも……」
「どうでもいいことではありません。このような、あなたから見ればくだらない些細な決まりが、我々貴族の社会というものを作ってもいるのです」
 不思議と苛立ちだけが募っていく。エルサミアと話していてこんなことは少ない。やはり別人と会話をしている、その違和感が拭い難い。
「……わかりましたわ。私はイアン様の妻になるのですものね」
 やけにはっきりと妻になると言った気がした。事実だけにイアンはただうなずくしかない。他意がある気はしても、それが読めない。
「妻になる私ですもの、イアン様。お尋ねしてもよろしい?」
「なんでしょうか」
「どんな女性がお好みなのかと思って。あるいは男性が?」
 さすがにあからさまに絶句した、イアンは。こんなことを人前で口にするとは、いったい何事だとばかりに。自ら口にした如く、質実剛健な家で育っている。ましてここはラクルーサ、ミルテシアのような奔放さはない国でもある。
「ね、イアン様?」
 首をかしげて無邪気に尋ねてくるエルサミア。イアンは言葉に詰まっていた。真実を言えないのではなく、こんなことを口にしたくない。それでも渋々言うのは、彼女が婚約者だからこそ。
「好み、などと言うものはさほど。以前申し上げたよう、そうですね……普段あなたのよう、落ち着きのある女性が望ましいのは事実です」
 普段のあなた、と言った途端にエルサミアの碧い目が閃く。何かはわからない。ただ、気分を害したのだろうという気はした。イアンにそれが途轍もない怒りだとは、わからなかった。
「望ましいのは、その方が貴族の妻らしいから、ですか?」
「いえ。私が好ましく思う、と言うことです。ですからそれを好みと言うのならば好みなのでしょう」
「では男性は? いままで心惹かれた方はおられませんでしたの」
 何を言っているのだこの人は。側に控える女中頭にエルサミアは熱でもあるのかと問いただしたい。が、さすがにしかねる。
「私はすでに子爵家の当主ですから。跡取りのことを考えねばならない身です。ゆえに、同性は慮外ですよ」
 肩をすくめて言い放つ。苛立ちが頂点に達していた。それこそが、エルサミアの目的だったとはイアンは知らない。
「残念。イアン様をお慕いすると言う男性に心当たりがありますの。でも」
「慮外、と言いました」
「ですわね。くだらないことを言いました。ごめんなさい」
 ふふふ、と彼女は笑った。イアンはゆっくりと茶を飲む。エルサミアとの会話にここまで苛立ったのははじめてだ。晩餐の際や、カードの時。あまり気分がいいとは言えない思いをしたのは事実だけれど、普段共に散策を楽しむ彼女はイアンにはこれ以上ない女性と思えるのに。
「そうそうイアン様――」
 他愛ないとしか言いようのない話題に、あとは終始した。イアンが苦痛を覚え、所用があるのでと席を立つまで。エルサミアがあっさりと解放してくれたことだけが救い。屋敷を去る彼をエルサミアは満足げに眺めていた。そのまま隣室にと身を翻す。
「いい眺めね」
 弾け飛んだとしか言いようのない扉から入り込んできた光。エルサリスの涙に濡れた顔を照らす。一言一句、聞き洩らすことなくイアンの言葉を聞かされた彼だった。
「泣いてるの? なんて可哀想なんでしょう。優しいあたしはあんたに慈悲をくれてやるわ。あたしが結婚するまで、あんたはあたしの身代わりをするのよ。好きな男に会えるんだもの、嬉しくって泣けてくるでしょう?」
 ぎりぎりと顎先を掴む手。痛みなど感じない。姉に言われるより、イアンの言葉一つが心に刺さる。意図などしないがゆえに、だからこそ一層深く。
「どうなのよ! 感謝もできないの、この出来損ない! はいつくばって礼を言いなさいよ!」
 いつもならばすでにエルサリスは小声で詫びとも礼ともつかないものを言っている。しかし今はただじっとその碧い目から涙を流しつつ姉を見据える。がちりと酷い音がした。
「サリス様!」
 リジーの悲鳴。手近にあった古い花瓶を手に息を荒らげるエルサミア。頭から血を流して倒れ伏すエルサリス。女中頭が見たのはそんな惨状だった。




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