ドヴォーグ家の晩餐にイアンは招待されていた。婚約者の家だ、それ自体に不都合はなかったけれど、ここまで山海の珍味を並べ立てられると財力ならばこちらが上、と誇示されたようでいささか不快でもある。エルサミアのような素晴らしい人を妻とできる幸運と共に、この家はいただけない、内心でイアンは苦笑する。 「食後にどうです、ご酒でも」 主人が笑って誘うが、それも鼻につくな、とイアンは今更思ってしまう。元々、普段のエルサミアはなぜこんな両親のもとに、と思うような女性でもある。主人も妻も、イアンは実を言えば好感が持てない。それを言うならば、今日はエルサミアにも。 「あら、私もよろしい?」 男性との同席を気軽に求めてくるのは、貴族の妻としては困る、思いつつイアンは苦笑する。いまはまだ彼女はこの家の娘であって自分の妻ではない。 「もちろんだとも。よいよい、共に飲むといい」 相好を崩す夫を妻が蕩けるような眼差しで見ていた。自分はそこにいない、ふとイアンは思う。いつもの彼女ならばこちらを気遣ってくれるのに。考えたところで醜い嫉妬じみていると苦笑した。 小さな居間はエルサミアのもの。家の主人が娘同席で酒の席にすると言うのもいかがなものかと思うが、その娘の居間を使うと言うあたりでイアンは頭痛がしている。平民はわからない、内心で呟いて首を振った。できればエルサミアだけは理解したいと思いつつ。 「あら……?」 席につこうと言うとき、イアンの袖からひらりと白いものが落ちた。はっとして背をかがめようとするイアンにエルサミアは目を煌めかせる。よほど大事なものらしいと。 「ベルティナ!」 強い声にイアンは驚く。エルサミアはこんな声を上げる人なのかと。令嬢の示唆に従って女中頭が落ちたものを拾い上げ、彼女に手渡す。 「まぁ……」 刺繍の手巾だった。大切そうにしていたわりに、それほどのものではない。手触りからしてよほど高価な絹と言うわけではなかったし、豪華な総刺繍でもない。 「酷いお方。どなたから贈られましたの?」 言いつつ手巾を差し出したエルサミアに、はじめてイアンは不思議そうな顔をする。何を言っているのかわからない、そんな怪訝な表情。 「――あなたからいただいたものですよ」 そっと独り言でも呟くよう口にしたのはあの約束のせい。夏霜草の手巾だった。あの日の彼女から、ここだけの秘密、として贈られたあの手巾。イアンは肌身離さず持っている。それを目の前の彼女はまるで知らないもののよう扱う。 ――秘密を誓ったせいか? 疑ったけれど、違うような気がした。目の前で作り笑いを浮かべて言い訳をしているエルサミア。突如として不審が湧きあがる。それを口にするほど、子供ではなかったが。 「ごめんなさいすっかり忘れていて。あまりにもたくさん刺したものだから。どれがどれか、わからなくなってしまったわ」 婚礼の準備が大変だった、手などこんなになってしまった。傷一つない手をしてエルサミアは言う。イアンもまた、そうでしたか、と笑い返す。内心では、言うに言われぬ歪さだけを感じながら。 彼女の父も母も、そんなイアンには気づかない。無論、彼女自身も。他愛ないことを話して、酒を飲む。嫌いではなかったが、ふと思う。外で会う彼女とはもっといろいろな話ができるのに、と。無言で歩いていても、豊かな時間が持てる、そう思う。今はただ騒音が耳につく。 「そろそろ帰ります」 時間も遅くなっていた。酒が進んだのだろう、主人はもう赤い顔をしている。酒は嫌いではないが、酒で乱れた席は好まないイアンだ、頃合と見て席を立つ。 「なんと。お泊りになられればよろしいでしょう」 「えぇ、えぇ、どうぞそうなさいまし」 「ほらイアン様、お父様もお母様もそうおっしゃっていますし……」 「なに、ミアはもうあなた様の妻のようなもの。お気にすることはありません」 下卑た顔だ、とイアンは心の奥で顔を顰める。エルサミアの父にこんなことは思いたくないが、平民とはこんなにも放埓なものなのかと思ってしまう。 「――妻となる人には敬意を持っていたい。帰ります」 誓約式が済むまでは、そのような振る舞いには及ばない。言い放ったイアンにエルサミアが鼻白んだ気がした。 迎えの馬車に乗り込みつつ、イアンは首をかしげる。くちづけ一つを拒んだ彼女。恥ずかしそうに、眼差しを伏せた女性。 「なぜ」 ただ一言、それだけが口をついた。イアンの疑問を置き去りにして、馬車は進む。夜の街路は、嵐のような闇に沈んでいた。 イアンが晩餐に招かれたのを、エルサリスは知っていた。天井近くにある通風孔。そこから漏れ聞こえる喧騒。来客がある時には決まって静かにしているエルサリス主従だ。 「サリス様、寝室にお引き取りになられたほうがよろしいでしょう」 そちらに通風孔はない。寝室ならば好きな楽器の練習もできるとリジーが勧めてくれた。一瞬はそうしようかと思ったエルサリスだったが。はっとして顔を上げる。 「いえ……」 そろそろイアンも帰途につくだろうと思っていた。婚約者の家であろうとも、誓約式が済むまで彼はそのようなことは断じてしない、エルサリスはわかっている。あの日の切ない眼差しが浮かんで消えた。 だがしかし、エルサリスが感じたのはそれではなかった。原因はイアンではない、イアンでありながら、違う。 ――姉さま。 背筋が粟立つ。自分が何をした、ようやくそんな言葉が浮かんだ。今まで諾々と従ってきただけの自分が。それを思えば小さな笑いが浮かぶ。 「リジー、ご機嫌がよろしくないみたい。気をつけてね」 自分がではない。リジーには言わずともわかる。ぴりぴりとした緊張を感じていると、リジーには言わずともわかる。理解の証とばかり、老いた体と言うのに飛びあがり、リジーは傷薬を確かめはじめた。 「準備がいいのも考え物よね」 ちらりと笑えば、笑いごとではないと渋い顔をされた。実際、エルサリスがこのような物言いをする時、決まってエルサミアの襲撃を受ける。そして酷い怪我をする彼だった。 「少しは抗いなさいまし、サリス様」 「そんなことをしたら、もっと酷いことになるんだもの」 肩をすくめたエルサリスにリジーは強くは言えなかった。抗えと言う。庇うと言いたい。けれどそれをすれば、エルサリスはよりいっそう痛めつけられる。 そしてエルサリスの予告通り、乱暴な音がした。背筋を正すエルサリスの傍らでリジーは控える。蹴り開けられたのだろう扉が軋んだ音と共に跳ね返っては、また騒音を立てる。一呼吸もおかず、殴られた。 「エルサミア様!」 リジーが咄嗟に、それでも止めようとしてしまった。見たためしがないほど激高している彼女に、エルサリスが殺される、そんな恐怖。けれど老女の体は彼女の腕の一振りで跳ね飛ばされた。 「邪魔よ!」 一歩踏み出し、リジーを踏みにじろうとする姉の前、エルサリスは身を投げ出す。踏みつけるのならばこの体をとばかりに。にんまりと笑った姉が希望通りと言うよう、踏みにじった。 「あんた、わかってるんでしょうね。どう言うことなのよ。なんなのあの手巾!」 床にうつ伏せになりながら、エルサリスは背筋に冷たいものを覚える。ぎりぎりと踏まれる体など、痛くもない。 「あんた、大したものでもないのを贈ったりして、どう言うつもりなのって聞いてるのよ! あの男も男よね。後生大事にしちゃって。馬鹿じゃないの」 鼻で笑う姉にエルサリスは少しだけ、安堵した。イアンは姉に見せたわけではないのだと。何かの事故で、姉に見られてしまっただけだろう。それが何よりありがたい。 「あんたもあんたよ、なんであたしに言わないのよ!? 恥かくところだったでしょ、わかってんの、この出来損ない!」 「申し上げました! 私、姉さまの代わりにちゃんと刺繍を済ませました、イアン様に一枚差し上げましたって、申し上げました!」 「出来損ないのくせに口答えする気!? 生意気なのよ!」 背にある足が首筋へ。半身を起こしていたエルサリスを蹴り飛ばす。そのままぎちりと首を踏まれた。リジーが息を飲み、腰を浮かせたのが目に入る。エルサリスは目顔でそのまま、そのまま、と祈っていた。男の自分はともかく、姉の暴力に年老いたリジーでは体が持たない。 「あんな地味な刺繍だって、あたしに相応しいものだと思うわけ!? なんなの、あの野暮ったい花! あれを喜んでる男もどうかと思うけど。だいたい何よ、植物学とか。金にもならない道楽なら、もっと楽しいことをすりゃいいじゃない。馬鹿は馬鹿よね。だから貧乏貴族なんかになりさが――」 エルサミアは、自分がよろけたことに驚きと怒りを感じる。出来損ないが、体を起こしていた。起きていいと言った覚えなどないというのに。 「私のことならともかく、イアン様のことをどうこうおっしゃらないで!」 同じ碧い目が怒りに煌めくところをエルサミアははじめて見た。これにも感情というものがあったのかと思う。思うからこそ、気分が悪い。木偶人形が口をきいたような気味の悪さを感じていた。 「黙んなさい!」 頬を張っても、エルサリスはきりきりと姉を見据えたまま。赤くなっても、腫れあがるまで何度も。それでもエルサリスはイアンのことだけは許さない、そんな目のまま。ふっとエルサミアの唇が醜い笑いに歪んだ。 「へぇ……あんた……」 とっくに乱れた喉元を掴まれた。半ばちぎれた服の隙間から覗くのは白い肌。エルサミアの身代わりとしてあるための詰め物がずれて歪んでいた。気味の悪いものを眺めつつ、エルサミアははじめてエルサリスに顔を近づける。 「あの男に惚れてるの?」 震えを隠そうとしたエルサリスの碧の目。エルサミアは歓喜に震える。こんなにも楽しいおもちゃがあるなど、気づきもしなかった。 「あぁ、そうなの。なんて可哀想。残念だったわね、出来損ない。あの男はあんたがどう思おうと、あたしの婚約者。でもあれかしら。あの馬鹿男だったらあんたのほうを選んだりするかしら?」 あり得ない。けれど言われたエルサリスは目をそらしたくなる。一瞬の動揺を姉は見逃さず、彼を嘲笑った。 「でも、あんた、男じゃない。子爵夫人には、なれないわよねぇ?」 からからと笑って姉は背を返す。その場に気づけば倒れ伏していたエルサリスを踏みにじり。リジーが必死になって介抱していた。 |