彼の人の下

「馬鹿じゃないの!?」
 屋敷に戻って最初にするのは、姉への報告。エルサリスは細大漏らさず姉に伝える。そして頬を張られた。逆手の指輪が当たったのだろう、口の傍から血が滲む。
「くちづけぐらい、やらせてやればいいじゃない。何をお上品ぶってるの! 自分は男だから、とか思ってるんじゃないでしょうね」
 ぎりぎりと顎を掴まれた。その痛みより、姉の暴言が心に刺さる。エルサリスはけれどじっとうつむいたままだった。
「あんたにはあたしの代わりをやらせてやってるのよ。ありがたくあたしの幸せを祈るくらいのこともできないの、この出来損ないの屑が!」
「……ですから、姉さまの、婚約者ですから。私が」
「だから、あたしの婚約者なんだから、好きにやらせろって言ってるのよ、言葉、わかってるの? ちゃんと通じてるの? 出来損ないの上に馬鹿じゃ救いがないわね」
 は、と鼻で笑われた。姉の言うことは、わかっている。イアンの好きにさせればいい、すなわち自分の立つ位置を確保しろ、と言うことに他ならない。
「あたしはあんな薄ぼんやりとした陰気な男を大事にしてやる気なんかないのよ、わかってんでしょうね。だったらあんたがするんでしょ、違うの!」
 返答もできないままに、再び殴られた。ひときわ派手な指輪が、エルサリスの頬を抉る。長い傷がついたのにもかまわずエルサミアは激高し続けた。
「あんたがしっかりあの男の心を捉えとけば、あたしが面倒くさいことする必要がなくなるでしょ。あんたは何者なの、出来損ない!」
「ね、姉さまの身代わりを務めるだけが私の務めです」
「そのとおり。わかってるんだったら、くちづけぐらいでごちゃごちゃ言うんじゃないわよ。なんだったら体でも差し出したら? あぁ、それはできないわよね。あんた、男だもの。いくらあたしにそっくりの気色悪い顔でも、さすがにばれるわよね。気持ち悪い」
 蹴り飛ばされた。エルサリスは抗わない。自分が何を言われてもかまわない。ただ、イアンへの侮辱だけは、悲しく思う。背中に乗せられ、踏みにじってくる姉の足。いずれ、母が止めに来るだろう。この体にまだ用があるうちは。
「下がりなさい! いつまで愚図愚図してるの、鬱陶しい!」
 逃げる隙など与えなかったくせにエルサミアは言い放つ。止めに来た母が上気した娘の顔が美しいと笑っていた。
 酷く足首を傷めたらしい。片足を引きずりながら地下へと戻る。リジーがやきもきとしていることだろう。
「サリス様……なんと……」
 傷だらけのエルサリスにリジーは絶句した。ここまで痛めつけられたことは近年ないと言わんばかりに。
「大丈夫よ、リジー」
「どこがですか、坊ちゃま!」
「少し派手な傷があるだけよ。それほど痛くはないの」
 嘘だった。リジーにも、それはわかっている。その上でリジーはそうでしたか、と笑って見せてくれた。
「では傷の手当てを致しましょうね」
 いつもどおりのことだと。手当ての準備をするリジーを横目にエルサリスは長椅子に腰を下ろす。これが日常だと言い切れてしまうところが、はじめて悲しいと思った。
 それでもなにがどう悲しいのかは、わからない。姉の言うとおり、自分は姉の身代わりを務めるためだけの出来損ないにすぎない。エルサリスはそれを信じて疑えない。幼いころからずっと、父にも母にも、そして言葉を発するようになってからは姉にも、言われ続けている。お前は出来損ない、エルサミアの予備、身代わりを務められるのを光栄に思えと。地下に戻るたび、リジーは「ご両親様のお言葉をお信じなさいますな、坊ちゃまは出来損ないなどではありません」そう言ってくれたけれど。
「でも――」
 現にこうして出来損ないとして地下に軟禁され、姉の代わりだけをしている日々。両親の言葉を、エルサリスは疑えない。リジーが慰めてくれるその言葉をいまは嬉しいとは、思えるようになったが。
「さ、お顔を」
 指輪に抉られた長い傷にリジーは顔を顰めた。跡が残るほど酷いものではないけれど、この傷が治るまで、エルサリスは地下から出してはもらえない。早朝の散策はできないだろう。
「ごめんなさいね、リジー」
「どうなさいました、サリス様、突然に」
「だって、私の傷が治るまで、お前もここに閉じ込められてしまうわ」
 それが切ない、とエルサリスは溜息をつく。リジーは胸が詰まってなにも言えなかった。痛みに耐え、暴虐に耐え、それでもエルサリスは人を思いやる。ただ黙って枯れた手でエルサリスの手を挟んで撫でた。
「今日は殊の外、ご勘気の嵐が激しゅうございましたね」
 なにかあったのか。しばらくして手当てが終わったあと、リジーはそっと呟くよう問う。エルサリスは小さく苦笑していた。
「……イアン様のことを、ね」
 姉には言いたくなかったことでも、リジーにならば別だ。姉はイアンを罵倒する。それがわかっているからこそ、言いたくない。リジーはきっと、黙って聞いてくれるだろう。
 そして今日あったことをぽつりぽつりとエルサリスは語り出す。刺繍の手巾を差し上げたこと。内緒にしてほしいとお願いしたこと。いつか北の薬草園に二人で行きたいと言ってくれたこと。そして、くちづけを拒んだこと。さすがにそればかりはほんのりと頬が赤らんだ。
「エルサリス様」
 きちんと名を呼ばれ、彼は背筋を伸ばす。急なリジーの素振りがわからない。それでもいま、彼女はきっと大事なことを言おうとしている。
「ジルクレスト卿は、ご信頼申し上げるに値するお方ですか」
「なんてことを言うの、リジー。あの方は――」
「申し訳ありません。ですが、サリス様がそこまで信頼を寄せておいでならば……」
 ぎゅっと握られたリジーの拳。エルサリスは怖くなる。何かが来る、得体の知れない何かの足音がする。そんな気持ちにも似た。
「ジルクレスト卿に、すべてをお話になるわけには、まいりませんか」
 唖然とした。できるはずもない、それ以前に考えたこともない。エルサリスはしばし夢想する。もしも話したら。もしも受け入れてくれたら。もしも、怒らないでいてくれたら。
「坊ちゃまは、本来ならばドヴォーグ家の大事な跡取りでいらっしゃいます」
「そんなことは――」
「ご両親が何を仰せになろうとも、このラクルーサでは女性が父の跡を襲うことは難しゅうございます」
 何よりエルサミアはジルクレスト家に嫁す予定だ、とリジーは言った。はたと気づく。いままで気づかなかった自分が馬鹿のようだった。
「姉君のご結婚なったあと、サリス様はいかがなされますのか。ご両親様はどうなさるおつもりなのか。旦那様も奥様も、サリス様を――」
 リジーは言葉を切る。エルサリスには続けない言葉が明瞭に聞こえた。自分ははじめから存在しなかったもの。エルサミアは一人娘で、兄弟などいない。最初から。ならば、それをそのとおりに。
「何もリジーはサリス様にご両親様を追い落とせ、ドヴォーグ家の正しい主たれ、とは申しておりません。ですが、このままではサリス様は。ですから、ジルクレスト卿におすがりするわけには、まいりませんか」
 ただただ育てた子を案ずるリジー。エルサリスは恥ずかしくなる。漫然と、地下でただ姉の身代わりを時折務めていれば、これはこれで幸福だと思った自分が。
「でも、イアン様を巻き込めないわ」
 それだけは、きっぱりと言った。心を寄せる人になったからこそ、イアンは巻き込めない。ただでさえ彼は同じ階級の貴族から妻を娶ることができない、と言う境遇にある。ここでドヴォーグの恥に巻き込めば、彼は挽回不能な損害を被る。
「サリス様、卿をお慕い申し上げているのでしょう」
「それは……その。そうだけれど……、でも、それとこれとは」
 仄かに頬を染めたエルサリスだった。傷が痛々しいだけに、ひどく儚くて、リジーですら見惚れるほど。だからこそ、乳母は確信を持つ。
「ジルクレスト卿が、より接しておいでなのはサリス様ではありませんか」
「え……」
「姉君ではない、サリス様です。卿は『婚約者』をお気に召したご様子でいらっしゃるのでしょう?」
 だからこそ、いずれ共に薬草園に行こうと言ったのではないか、リジーは言う。それにはエルサリスも返す言葉がなかった。イアンは確かに「エルサミア」を気に入ってくれているだろう。
「その卿がお気に召した『エルサミア様』は坊ちゃまではありませんか。卿のお心にいるのは、サリス様ではありませんか」
「そんなことは――」
「断じて、姉君ではありませんよ」
 たとえ同じ顔をしていても。リジーにはわかる。佇まいも、心の持ちようも、まったく違う。エルサリスの方が遥かに遥かに優れて美しい心根の持ち主だ。イアンが婚約者を愛したと言うのならば、それはエルサリスだ。
 逆に、こうして日々エルサリスに接しているからこそ、わかることもある。イアンには、わからないだろうと。そもそも同じ顔をした別人がいるとは思うまい。ましてその二人が示し合わせて自分を騙すとは誰が思うものか。イアンは「エルサミア」が二人いるとはまかり間違っても想像すらしていまい。
「ですからこそ、です。卿に真実をお話なさいませ。きっと――」
 助けてくれるだろう。エルサリスもわずかな期待を持つ。何度も会ううちに、穏やかながら真っ直ぐな正義感を持つ人と知った。ならばきっと。
「だからこそ、よ。リジー。私は言えない」
「なぜにございますか、サリス様。サリス様は!」
「ごめんなさい、リジー。ただ、怖いの。それだけなの」
 うつむいて拳を握ったエルサリス。膝の上のそれがかすかに震えていた。リジーははじめて見るその仕種に目を丸くする。
「私がイアン様を騙しているに違いはないもの。真実をお話すれば、きっと助けてくださる。あの方は優しい方だから、きっと。でも……私は怖い。私はイアン様を騙しているのだもの」
 姉の身代わりを命ぜられたとはいえ、イアンが心を寄せたのは「姉」だ。この自分が男とは思いもしていない。もしも妹であったならば、話は違っただろうか。くだらないことを考えた自分をエルサリスは嗤った。




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