隠し持った物が、その場で熱を発するよう。エルサリスはどきどきとしながらイアンに続いていた。ジルクレスト邸の一角、北側に位置する半地下の部屋だ。地下、と言うだけでエルサリスにはどことない親近感と、同じほどの忌まわしさがある。無論、そんなことを知らないイアンの足取りはいつになく楽しげだ。 「こちらです」 そしてエルサリスの忌まわしさもすぐさま飛んで消えた。一面の本棚だった。書架に納められた本の数々。 「まぁ……」 感嘆するエルサリスにイアンはほんのりと嬉しそうな顔をした。照れてもいるのだろう、わずかにそっぽを向くさまにエルサリスは目を細める。 「さほど誇れることもない我が家ですが、蔵書だけは自慢なのです」 言うだけのことはあった。これだけの本を揃えるには何より財力がかかる。そしてイアンがここに馴染んでいる様子。彼はこの本を充分に活用しているに違いない。それがエルサリスには何より好ましく映る。 「ご覧になりますか? 女性には、あまり面白いものでもないかもしれませんが」 それでも少し自慢をしてみたくなってしまったのだ、イアンは笑う。そんな少年のような稚気を彼が自分に見せてくれる。エルサリスは黙って微笑んでいた。 自分に、では断じてないから。イアンが見せているのは、エルサミアに。この場にはいない、彼の姉に。イアンは婚約者に自らをさらしただけだ。自分にではない。何度も呟かなくてはならないほど、どこかが痛い。 「素晴らしいですね。本当に……」 ゆっくりと書架の間を歩けば古書の匂い。羨ましいな、とエルサリスは思う。リジーが女中頭を通して持ってきてくれる本はどれも楽しい。それでももっとたくさんを読んでみたかった。できれば、姉にかかわらない、彼女の身代わりとしてではない本を。思ったところでエルサリスは思考を止める。そんなことをしていい身分ではないとばかりに。 「イアン様がお好みの本は、どのような?」 これほどたくさんの本の山だ。イアンにもただ好きだ、と言う本があるだろう、きっと。せめてそれを知りたいと思う。こうして交わした言葉のすべてを屋敷に戻れば姉に報告せねばならない。それでも自分もまた、知ることができる。それだけで充分、小さく心の中で呟いた。 「好み、ですか。そうですね……」 困ったような、照れているような。そんな顔をしながらイアンが取りだしたのは一冊の厚い本。手渡されてめくったエルサリスは知らず歓声を上げる。 「よかった。あなたならばきっと喜んでくれると思いました」 からりと笑うイアンの横顔。本に灯りは厳禁だからここは薄暗い。そのせいだろうか、普段よりずっとずっと精悍で、思わず本を見るふりをしてエルサリスはうつむいた。 「イアン様は草花が、お好きなのですね」 渡された本は、いわば植物図鑑とでも言うようなものなのだろうか。エルサリスも話に聞いたことがあるだけで見たことはない。精緻に描かれた草花と、それに付随する解説文がこれでもかと言わんばかりに細かく記してある。 「えぇ、素人の学問ですがね。時間を見つけて研究をしていますよ」 貴族にはそう言う学問をするものもいる、とエルサリスも聞いていた。なるほど、イアンもそうだったのか。思えば嬉しい。 同時に、胸苦しい。自分は、そうして学問をするイアンをずっと見ていたい。もしも隣にいられるのならば。邪魔をせず、折を見て茶を淹れてみたり、そっと明かりを差し出したり。そんな想像をしてみる。けれどしかし。 イアンの横に座すことになるのは、エルサミア。あの華やかなことが好きな姉。学問など、黴が生えた年寄りがすればいいと思っている姉だった。きっと本に熱中するイアンを姉は冷たい目で見るだろう。 「エルサミア、どうしました」 呼ばれてはっとした。そのとおりだ、自分はエルサリス、姉ではない。イアンは姉の婚約者。呪文のよう唱えて笑みを作った。 「とても素敵なご本なので。ついつい。はしたないですね、申し訳ありません」 「喜んでくれて嬉しいですよ、私も。あなたも本が好き?」 好きだと答えたかった。ここでイアンの隣で本を読みたい、結婚した後でもそうして過ごしたい。言いたかった。 「……本当は、あまり。でも、このご本があまり素敵でしたから」 無知でごめんなさい、そんな風に彼は笑ってみせる。イアンもまた笑ってくれるはずだから。エルサミアならば、本は嫌いだから。 「いいのですよ、気にしないでください。実を言えば我が母もここの本は好かなかった」 学問の本ばかりだったから、女性が好むような綺麗な本はあまりない、そのせいだとイアンは笑う。ふと思いついたよう、彼は続けた。 「あなたが我が家の人となったら、ここにはもう少し美しい本も増やしましょう」 エルサミアが嫁してくるその日を、イアンはこれ以上なく楽しみに待っている。それが伝わって来てしまう。だからエルサリスは、穏やかに微笑みむのみ。他にはどうしようもなかった。あるいは、そのせいかもしれない。 「イアン様」 図鑑を返し、エルサリスは大きく息を吸う。半地下のせいだろうか、急に呼吸が苦しい。それに強いて深く息を吸い、隠し持っていた小さなものを手の中に握る。 「どうしました?」 「……一つだけ、秘密の約束を、してくださいませんか?」 「あなたと私の? 内容にもよりますが、あなたは無理難題を言う人ではないし、かまいませんよ」 くすりと笑ってしまった、イアンの言いように。こう言うとき、調子のいい男ならば内容など聞きもせずにただうなずくだろうに。けれどエルサリスは首を振る。 「いいえ、イアン様と私の、ではありません。今ここで、ここだけの。今後、私にも仰らないで」 何を言い出すのか。イアンの眼差しが不審を宿す。じっと見つめてくる碧い目。イアンはその意志の強い光と、相反するような優しさにゆっくりとうなずいた。 「わかりました。あなたが何を求めているのかは、私にはわからない。それでもあなたの望みならば、今後他言はいたしますまい。あなた相手であったとしても」 懐の深い言葉にエルサリスは泣きそうだった。彼がそう言うならば、彼は無言を守ってくれる。それだけは、信じられる。 だからこそ、こんなことをしている。姉には言えないことをしている。何を言っていいかわからず、おずおずと差し出したのは、刺繍の手巾。 「私に? ありがとう……なんと!」 イアンの驚愕の声。エルサリスはいたたまれなくてじっと立ち尽くす。うつむいて、ただイアンの前で棒立ちになる。その体が、イアンの腕に包まれた。 「あ……」 「あなたは、本当に素晴らしい。夏霜草、気に入ってくださったのですね」 胸に頬を寄せてしまった。いまの自分はエルサミア。彼の婚約者だ。姉ならば、もっと大胆な振る舞いにも及ぶかもしれない。エルサリスには、そこまではできない。ただそっと、胸に頬を寄せる。 リジーと共に刺していた婚礼の手巾。自分のために少しだけ刺した物の一枚は、リジーに。そしてもう一枚は、ここに。あの日の夏霜草をただ隅に一叢。イアンの頭文字をひっそりと共に刺繍した。 「尋ねてもいいですか、エルサミア? なぜこれを……いえ、気にしないでください。あなたが秘密にしてほしいと言うのならば、秘密にします。そうお約束したのだから」 そのとおりだった。イアンにしてみれば不思議なこと。婚約者から贈られた、自分の頭文字の入った手巾。隠すようなことでは決してない。むしろこの刺繍の腕だ、自分の婚約者はこんなにも素晴らしいと人に言ってくれ、と言われたとしても驚かない。イアンにも友人たちから苦笑と共に婚約者から贈られた手巾を見せられたことがある。 「……他愛ないことです。その、夏霜草は、婚礼には不似合いだから、と。それでも、私……」 「気に入ってくださった?」 「……はい」 それだけのことだから、秘密と言うようなものでは本当はない。精一杯の主張をイアンは受け入れてくれたらしい。そっと背を抱く腕がいまになって熱い。 「エルサミア」 呼ばれて、顔を上げた。姉ならば、そうするから。頬に触れるイアンの指。姉ならば。一瞬目を伏せ、けれどエルサリスはそっと離れる。 「すみません、不作法でした」 落胆ではなかった、イアンの声は。それに救われて、救われた分、嵐のような気分。姉ならば、彼のくちづけを誇らしげに受けるだろう。 エルサリスには、できない。イアンを慕うからこそ、できない。「エルサミア」へのくちづけは、欲しくない。こんな自分にも誇りがあったのかと、驚くほどに。 「いいえ……ごめんなさい。その……恥ずかしい……」 エルサミアは羞恥を覚えないだろう。自分と姉が少しずつ離れて行く。いけない、と思った。自分は姉の身代わりとしてだけ、生きているのに。それなのに、この胸にイアンがいる。 「いえ、私のほうが悪かったのです。婚約者とはいえ、不作法に過ぎました」 潔く頭を下げる青年に、エルサリスは何も言えない。ただ黙ってその指先に触れた。今だけは、自分が、エルサリスが触れている指。イアンはそうと知らないのだとしても。許されたと思ってくれたのだろうか、イアンの頬が明るくなる。 「気の早い話ですが」 いつまでも言い続けていてはかえって申し訳ないと思ったのだろうイアンの姿。咳払いまでして話題を変えてくれた。思わずほころぶエルサリスの口許にちらりと目をやって彼もまた嬉しそうだった。 「私は植物学が好きなのですが。いずれ訪れてみたいところがあるのです」 そのときは一緒に行こう、きっとそう言ってくれている。自分がイアンの傍らにあるのは、秋まで。姉が嫁す日まで。イアンの望みは叶わない。ちくりと胸が痛んだ。 「北部に、王室所有の薬草園があるのです。広大で、ない植物はないとまで言われています。是非、機会ができたら共にまいりましょう」 えぇ、と微笑みながらエルサリスは呟く。そんな日は来ないのですと。自分は彼の前から消え、姉が彼を尊重することはない。 突然だった。この瞬間、喉元まで出かかった言葉。自分はエルサミアの弟だ。姉はあなたの家名だけが必要なのだと。 慈しむよう包まれた己の手。エルサリスは言えなかった。 |