彼の人の下

 数日前に飾られた夏霜草がまだよい香りを漂わせている。その芳香に包まれてエルサリスは手紙を書き上げていた。
「こうしていると、私のお友達みたいね」
 思わず浮かんだ苦笑にエルサリスは身を引き締める。勘違いをしてはいけない、これは姉に来た、姉への手紙。その代筆を仰せつかったにすぎない。たとえほぼすべての手紙をこうしてエルサリスが書いているのであったとしても。それを彼らが知らないのだとしても。
 書き上げた手紙を封筒に納め、封はせずにひとまとめにしておく。見つけたリジーが上の召使に渡すだろう。
「おや、お忙しいこと。何かご用事ですか、サリス様」
 珍しくエルサリスがいそいそと働いている。手紙を持って行って戻ったリジーが目を丸くしていた。それにエルサリスは片目をつぶる。
「少しね、自分のためにしてみたいことが……あって……」
「よいことですよ、坊ちゃま。何もそんなにお姉さまにお尽くしになることもないとリジーは……」
「そんなことを言ってはいけないわ。私は姉さまのためにだけ生かされているのですもの」
 楽しげだったエルサリスの雰囲気が沈む。それにリジーは後悔をした。そう思っているのは事実だったけれど、自分のために生きてほしいと言えば必ず彼はそう言う。わかっていることなのについ、口をついてしまったのはやはり、それでも彼には生きてほしい、思うせいかもしれない。
「刺繍ですか?」
 自分のため、と言ってすることとは思えなかった。エルサリスはいまでも充分すぎるほど針を持っている。
 なにしろ婚家に持ち込むことになる各種手巾への刺繍はすべてエルサリスの手になるものだ。教えたのはリジーながら、目を見張るばかりの上達ぶりで、いまは立派な作品と言ってもいいほど。
 婚家への手巾は、花嫁の評判にかかわる。中でも日常、自分と夫が持つことになる手巾と晩餐の際の手拭きに使われるものは人目にさらされる機会も多いことから針に自信のない娘は専門の職人に任せるとも聞く。そしてそれが暴露されていっそう恥ずかしい思いをすることもあるのだとか。エルサミアにその心配はないだろう、思えばリジーは腹立たしい。
「本当に……なんと美しい……」
 今は晩餐用のものを刺しているところだった。刺繍用に図案化されたジルクレスト家の紋章を新婚らしく小花で飾る。そこから繊細な蔦が手巾をぐるりと囲む。中々ここまでできる者はいなかった。
「リジーが教えてくれたからよ」
 なにもかも、この乳母が教えてくれた、エルサリスはそう思う。リジーは自分がよけいなことを教え込んだせいで姉に要らない用事をやらされている、とも思っているらしい。
 違う、とエルサリスは知っている。自分にその技術があろうがなかろうが、姉には関係がない。いずれにせよ、姉は申しつけてくる。そしてできなければ姉に恥をかかせるのか、と暴力を振るうだろう。ならば字は綺麗な方がよかったし、刺繍だとてできるに越したことはない。エルサリスはリジーに感謝すらしている。それを素直に受け取ってくれる乳母ではなかったのだけれど。
 もしもリジーと二人、生きていれば自分の人生はきっと違っただろうと思うこともある。それでも、その人生がどんなものか、想像ができない。エルサリスにとっては、生まれたときから庇ってくれるリジーと、それを圧倒して圧し掛かってくる父母と姉、それが日常だった。
「ねぇ、リジー」
 尋ねてみたいことがあった。その目の色に気づいたのだろうリジーが、自分も刺繍を片付けながら正面で微笑んでいる。それにほっとして彼は微笑んだ。
「ずっと、聞いてみたかったの。――どうして私を助けてくれたの?」
「目の前で殺されそうになっている赤ん坊がいれば誰でもそう致しますよ、坊ちゃま」
 呆れた、と言わんばかりのリジー。けれどエルサリスはうなずけない。なにしろ彼は日々、父と母の、姉の暴虐にさらされている。彼らに逆らうと考えることができないほどに。それを認めてリジーは小さくうなずいた。
「……そう、で、ございますね。私も恐ろしゅうはございましたよ」
「だったら」
「こちらにお世話になる前のことですが。――別のところでお勤めをしておりましたよ」
 微笑む乳母にエルサリスはうなずく。貴い家への勤めをしたことがある、と言っていたリジーだ、そのときのことなのだろう。ならば家名や詳しい事情は言えないに違いない。エルサリスにリジーはやはり微笑んだまま無言でうなずいた。
「さる貴いお方のところでお勤めをしておりましてね。働きぶりが認められたのでしょうか。いわば、別館とでも言うようなところに行ってくれないか、と」
 エルサリスはこうして地下に生きているけれど、姉の身代わりが充分に果たせるよう、一般教養はしっかりと仕込まれている。否、学問をする姉の隣室の暗がりで身じろぎ一つままならないままに学ばされた。だからこそ、リジーの仄めかすことに見当がつく。
「立派な、それこそ圧倒されるような高名な方々がおいでになりましてねぇ。身が竦まんばかりとはあのことでしょう」
 今でも思い出すだけで震えそうだ、笑うリジーにエルサリスは納得をする。おそらくそこは、貴族が持つ騎士団の一つだったのだろうと。有力な家では自らの家の騎士たちを集めた騎士団があると聞く。立派な騎士たちに身が竦んだ、そういうことなのだろう。
「平素はとても厳しい方々でいらっしゃいましたよ。大きな声を上げるのを耳にしたことが何度もありますとも」
「まぁ……恐ろしくはなかったの」
 不安そうに翳るエルサリスの碧い目。リジーはそれを満足そうに見やっていた。その目は、決して彼自身の怯えではなかったから。乳母が怖い思いをしたのではないか、それをこそ案じる彼にリジーは目を細めていた。
「それはそれは怖うございましたよ。なにしろ殿方の大声ばかりですもの。当時は私もいまほど年寄りではありませんでしたから。あの頃……私は三十代も後半でしたでしょうか。若い娘のよう怯えることはありませんでしたが、それでも殿方の大きな声はやはり怖いものではありましたよ」
 ほほほ、と口許を覆ってリジーは笑う。それにはさすがに苦笑するエルサリスだった。こんな姿をしていても、彼は自分を男性と自覚している。だからリジーの男の大声が怖い、と言う感覚がやはり、十全にはわかり得ない。
「それなのにね、子供たちを前にすると皆様、本当に優しい方々に早変わりなさって」
「子供たち? お子様がたくさんいらしたの?」
 口にしてしまってからエルサリスは違う、と思った。騎士団の話だったはずだ。ならばそれはきっと従騎士や、見習いたちのことか。
「いいえ、サリス様がお考えになったのとは、少し違いましょうね。――身寄りのないお子を、育てていらしたんですよ。大勢いた子供たち、皆が皆、親のない子供たちでした」
 なんということか。エルサリスは絶句する。そんなエルサリスに、リジーは黙って微笑む。彼はなぜ、その方がいいと思わないのだろう。親など、兄弟などいないほうがずっといいはずだ、彼には。それでも親のない子供を哀れに思うエルサリスの優しさ。リジーは言葉がない。
「ねぇ、リジー。私はこれでも幸せよ。お父様、お母様は厳しくていらっしゃるけれど、姉さまの代わりを務めることでこうして生きていることを許してくださる。それでいいのよ」
 もしもあの方々に聞かせることができたならば。リジーは今になって後悔めいたものを覚える。赤子を預かった瞬間に、この屋敷を出奔するのだった。あの方々に助けを乞うべきだった。当時はできるはずもないことだったと知っていてすら、そう思ってしまった。いまではもう、遅すぎる。ほんの短い間のご奉公だった。そんな細い綱に縋りつけるほど、厚顔でもない。それでもちらりと思うのはエルサリスのため。万が一の際にはどんな謗りを受けようともかまわない、リジーは覚悟をしていた。彼に悟られないよう、改めて微笑みを浮かべては話を続けた。
「中でもおひとり、それは怖い方がいらっしゃいましてね。その方の側を通る時など、背筋が冷えるような思いを何度したことか」
「いじめられたり、したの? リジー」
「いいえ、とんでもない! 本当は優しい方々なんですよ、きっと。ですが、評判というものにございましょう。殿方の世界はややこしくもありますからね」
「こう、いつもむつりとしていなくては沽券にかかわる、と言うような?」
 そうそう、とリジーが朗らかに笑った。それにエルサリスはばつが悪くなる。実はそうしているのは父だった。もしかしたらそれとわかってリジーは笑っているのかもしれない。
「その方がね、面白いことに一番お子を可愛がられるのです。子供たちもそれがわかっているのでしょう。お庭で見かけると、わっと群がってお話をねだったり、ただ縋りついたり。その方も普段とは打って変わった優しいお顔で子供たちを抱き上げて遊んでやっておりましたよ」
 懐かしそうにリジーは言った。エルサリスには想像もできない世界、と言った方が正しい。彼には年長の男性に慈しまれた経験がない。父親とは自分を蔑んで殴るものでしかない。だからだろう、リジーの話をお伽噺のように感じるのは。
「そう言うお姿を見ていたものですから。なんの対価も求めない、ただ子供が子供であると言うだけで慈しむ。その方は仰いました。子供は一人では生きて行かれない、そうできるまで育てるのは大人の役目だ、と。――だからですよ、サリス様」
「え?」
「なぜリジーが坊ちゃまをお育てしたのか、とご質問なったではありませんか」
 ころころと笑う乳母にエルサリスは言葉がなかった。たったそれだけのことで育ててくれた。ならばどんな対価があれば育ててもらえるに値したのかは、わからない。自分は姉の代わり以外、なんの価値もない出来損ないだ。姉の双子の弟として生まれた瞬間から、母に見放された出来損ないだ。それなのに。
「まぁ、坊ちゃま」
 今まで動いていた刺繍の手。ぱたりと止まってエルサリスは刺繍の枠を放り出す。そのまま顔を覆っていた。どんな美女であろうともかなわないほど美しい、だからこそ乳母にとっては切ないその姿。近々と膝をついてエルサリスの背を叩くリジーのほうこそ、涙ぐんでいた。
「ありがとう、リジー」
 慰めてくれて。あるいは育ててくれて。どちらとも取れるようなエルサリスの言葉。すべてを含んでいたのかもしれない。
 午後を費やしてエルサリスは刺繍を仕上げた。そして自分の分も少しばかり。
「リジー。もらってちょうだい」
 自分のために、と刺していた刺繍を、けれど彼はリジーに差し出す。はじめからそのつもりだった。紋章も頭文字もない、リジーのための刺繍の手巾。長年の間に覚えた乳母の好きな花々で埋まったそれに彼女は今度こそ涙をこぼしていた。




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