彼の人の下

 早朝の一時、人目の少ないこの時間だけ、エルサリスは庭の散策を許される。エルサリスとリジーにとっては陽にあたることのできる貴重な時間だった。もちろん例の地下室への階段を守るあの女中頭の監視がついているのだけれど、物心ついて以来のこと、エルサリスは気にしたことがない。
「まぁ、見て。リジー。朝露が……」
 ドヴォーグ家は貴族をも上回るほどの富裕を誇る。おかげで庭の植物も珍しいものあり、伝統的なものありと多彩だ。中でもエルサリスが殊に好むのは香草類。その葉の上、ひと雫の朝露がちょうど朝日にきらきらと輝いていた。
「なんと美しい――」
 リジーが見ていたのは朝露ではなく。まだ早朝とあって解き流したままの銅色の髪。風に揺れる後れ毛を何気ない手つきで押さえる様。すっきりとした立ち姿の、エルサリス。リジーの目には女性美の完成形がここにあるよう、見える。それだけに、いたわしくてならなかった。
「本当に。綺麗ね」
 振り返ってエルサリスがにこりと微笑んだ。何も気づいていないのだろうそれにリジーもまた笑みを返す。主従の傍ら、無言の女中頭が立っていた。
「少し摘んでもいいかしら?」
 ふと思い立った、そんな様子でエルサリスは女中頭に問うた。しばし考えるのだろう、間を置いてから彼女はやはり無言のままうなずく。
「リジー」
 女中頭を乳母が睨んだのをエルサリスは感じる。苦笑してたしなめた。彼女はこの屋敷の主人一家に仕える人。エルサリスの監視を役目の一つとして与えられているのだから、そんな態度を取ってはならないと。
「はい、お嬢様」
 致し方ないと言いたげにリジーはうなずく。人前ではこうしてお嬢様、と呼ばねばならない。それが切なくてならないリジーだった。
 女中頭に確認を取りながら、エルサリスは少しずつ草花を摘んでいく。自分の屋敷の植物だというのに。エルサリスにとってはここは「父母の屋敷」であり「姉の家」なのかもしれない。自分はそこに厄介になっている出来損ない。そんな思いがちらりと浮かんで、リジーに気づかれる前に、とそっと追いやった。
「お時間です」
 無情な女中頭の声。リジーはかすかに溜息をつく。もう少しくらい、と思うのだろう。だがエルサリスは微笑んでうなずいて背を返す。
「戻りましょう、リジー」
 お前の朝食が楽しみ、そんなことを小声で呟きながら。女中頭は聞かなかったふりを続けるつもりだろう、淡々と歩を進める。地下室の入り口の扉の鍵は彼女の役目だった。
「お役目ご苦労様」
 屈託のない、静かなエルサリスの声に女中頭はそのときだけ目を伏せる。好きでしているわけではない役目だ。生半なものに任せるわけにはいかないからこそ、主人の信頼篤い彼女がしている。それでも、彼女にだとて感情はある。
「あぁ、いけない。……こんなものを作ったの、香り袋。庭の香草と、姉さまにいただいたお花が少し。よかったら使ってくださいな」
 乾燥させた花々の入った柔らかな麻の袋。端切れだけれど、とエルサリスは微笑む。姉からもらった花、と言うのも彼女が気に入らなくて投げて寄越したようなもの。それでもエルサリスは乾燥させて大切に香り袋に作った。
「……頂戴いたします」
 悩んだのだろう、女中頭も。それでもエルサリスの好意は、拒めなかった。彼は何も自分を懐柔しようとしているのではない、ただせっかく作ったものだからと言っているだけだ。気に入ってくれたならば嬉しいと、所詮は手すさびに過ぎないと。時間ならば、持て余しているに違いないエルサリス。今からまた、ここに閉じ込められるエルサリス。
「ではまた明日。晴れるといいわね」
 軽やかにエルサリスは去って行く。ぎちり、と重たい音を立てた扉の向こう、彼がどんな暮らしをしているのかは、女中頭もよくは知らない。かすかな溜息を残して彼女は仕事に戻っていった。
「気に入ってくれるといいのだけれど」
 エルサリスはリジーと共に階段を下りている。不満だ、と言わんばかりに鼻を鳴らす品のない音が聞こえた。
「まぁ、リジー」
「ご無礼を。ですが、サリス様、お優しいにもほどがありましょう」
「そうかしら?」
「なにも、お手ずからの作品などお下しにならずともよろしゅうございましょう」
「そこまで立派な人間ではなくってよ、私」
 茶目ぶってエルサリスは笑った。リジーと話していると自分が王家の姫君のような気がしてきてしまう。それだけの誇りを持て、と育ててくれた乳母だった。
「私とリジーと二人きりだもの。たくさんあっても困るわ」
 好きで作ったものではあるけれど、そればかり五つも六つもあっても困る。何かと苦労を掛けている女中頭だ、気に入ってくれればよいとエルサリスは思うだけだった。
「それよりリジー、お腹が空いたわ」
「おやおや、はしたない」
「私が女らしくすると困り顔をするくせに、酷いわよ」
「ご大家の坊ちゃまは空腹を訴えたりなさらないものですよ、サリス様」
 言い返されてエルサリスは笑う。リジーもまた笑って朝食の支度に立った。まるで庶民の家のよう。朝の散策から戻ると、上の厨房から届けられた食材でリジーは朝食を作ってくれる。手間をかける、とエルサリスは思うのだけれど、リジーは安堵しているらしい。
 リジーは決してエルサリスには言わなかったが、毒殺を警戒している。警戒し続けている、と言った方が正しいか。実際、腐ったり、甚だしくは弱くはあるが確実に毒を仕込んだ料理であったりを届けられたことが一度ならずある。さすがに食材そのものに毒を仕込むことはしないだろう、主人も、奥方も。単にエルサリスに対する嫌がらせをしたいだけなのだから。わざわざ厨房などという「下賤な場所」に赴く様子は想像できない。
 その間にエルサリスは摘んできた草花を花瓶に挿し、身支度を整えていた。これほど裕福な家の令嬢ならば服を着るにも小間使いの手を使うものだけれど、エルサリスはもちろん一人でする。きちんといつ人前に出てもいいような姿になってここにいる。すでに習慣だった。
「まぁ、素晴らしい。よいご趣味です」
 花瓶に挿しただけの野の花の風情。それでもエルサリスの手によって整えられた香草は、それだけで充分に美しい。
「香草の花は、野趣があると言うのかしら。華やかではないけれど、とても綺麗だと思うの」
 リジーと二人、他愛ないことを話しながら囲む食卓は楽しいものだった。これも主人一家の食卓ではあり得ないこと。リジーは乳母で、使用人だ。共に食卓を囲むなど、信じがたいと彼らは言うだろう。
「でも、二人きりの生活ですものね」
「そればかりは申し訳なくも思いますが、嬉しゅうございますよ」
「私もよ。リジーとこうしているのが一番くつろぐもの」
 秘密を知る彼女。ここまで育ててくれた彼女。なにを話しても驚かず、なにを言ってもよい人。時にはたしなめ、時には共に泣いてくれるような乳母。エルサリスが狂わずにいられるのはきっと彼女のおかげだ。
「おや、物音が……。失礼いたします」
 そう言って食後の茶を飲んでいたときリジーは立つ。老いた今でも充分に耳の鋭いリジーだった。そんな彼女にエルサリスは小さく笑う。本当は、リジーよりずっと早く気づいていた。そればかりは、彼女にも言わないが。ほどなくしてリジーは戻る、散策の時から残っていたかすかな不機嫌が飛んで行ってしまったような満面の笑顔だった。
「まぁ……」
 エルサリスにもその理由がわかる。見るより先に、香りで。リジーが抱いていたのは、あの夏霜草。ほんの二枝、三枝ばかりではあったけれど、とてもよく香っていた。
「ベルティナ殿に、できればとお願いしておいたのです」
 リジーの言葉にエルサリスは目を丸くした。あの女中頭がリジーの、延いては自分の望みを叶えてくれるとは。
 リジーもまた、目頭を熱くしている。女中頭への感謝ももちろんある。だがそれ以上に、こんな他愛ない望みでも叶えられたと喜ぶエルサリスが切なくてならなかった。エルサリスは滅多に何が欲しいと言うことはない。年に一度、あるかないか、本当にその程度だ。口にしてすら、このようなものだというのに。エルサミアが日に二度も三度も言っているのとは大違い。だからこそ、ベルティナも融通してくれたのだろう。理由は聞かずに、ただほんの少しばかりの夏霜草を差し入れてくれた。
「嬉しい……」
 リジーに手渡された夏霜草をエルサリスは大切そうに抱いていた。花束と言うほど大きくはないそれを、まるで抱えるように。そっと、身の内に包むように。
「……サリス様」
 声に、はっとして彼は顔を上げた。いささか慌てた様子で花瓶を探しはじめる。そこにはすでに摘んできた花が差してあって、違うものはないかとおろおろする様。リジーはつい微笑んでいた。
「……笑わないでちょうだい。嬉しかったのだもの。この花、とても好きなの。ね、可愛らしいし、お気に入りなの。だから――」
「サリス様、慌て過ぎにございますよ。それでは隠し事があると白状しているも同然、というものです」
「していないわ、隠し事なんて!」
 いまのは多少エルサミアに似ていたか、とリジーは苦笑する。それでも彼のほうがずっと優しげだ。声を高く張っても目許の優しさだけは薄れない、それがエルサリスだった。
「リジーにも内緒にございますか、サリス様? リジーは坊ちゃまの乳母にございますよ」
 決して裏切ったり、秘密の暴露をしたりはしない。あえて言わねばならないのか、そんな語調にエルサリスはしょんぼりと腰を下ろす。それでもまだ花は大事そうに抱いたままだった。
「存じておりますよ、サリス様。サリス様は――」
「言わないで、リジー。いいの、本当は、とてもいけないことだから。いいの、私は、これで充分なの」
 硬く強張った顔のまま、青ざめたままのエルサリスは笑った。必死になって微笑むものだから、口許がわずかに痙攣している。痛々しくてならなかった。
「わかりました、いまは問いませぬよ、サリス様。さてさて、花瓶を探して参りましょうね」
 そっと微笑んで、追及の手を緩めてくれたリジー。エルサリスは花の香りに顔を埋めつつ呟く、ごめんなさいと。リジーは聞こえなかったふりをして花瓶を探しに行った。




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