彼の人の下

 この地下には、生活に必要なものがすべて整っていた。それもこれもただ父母がエルサリスを目にしたくないがゆえ。それでもエルサリスはかまわなかった。優しいリジーと二人、こうしてここに生きている。
「おいしかったわ。リジーは本当にお料理が上手ね」
 ずっと食べ続けているリジーの手料理。本当ならば専門の料理人が腕によりをかけて供するものを口にするだろうエルサリスに、こんな家庭料理の域を出ていないものを食べさせるのがリジーは悔しい。
「最近は、姉さまの代わりに色々なところに行くでしょう? でもリジーの料理が一番、おいしいのよ。困ったものね」
 姉が面倒だから代われ、と言っている人々との付き合い。王都に新しくできた料理店に行かされたり、隠れ家のどこそこに行かされたり。姉は保守的なのだろう、珍しいものは好きなくせに、このような付き合いは嫌がる。結果として、姉より様々なところに出歩く羽目になっているエルサリスだ。幸い姉も親しい友人と甘味を食べに行く、などと言うことまでは嫌がらない。甘いものがそれほど得意ではないエルサリスとしてはそれだけでありがたい気分だった。
「なんと、とんでもないことを仰せになられますな」
「普段食べているものが一番だって、言うでしょう?」
「それはもっとずっと庶民のことにございますよ」
 半ば呆れつつリジーは嬉しさが隠せない。エルサリスが喜んでくれる、笑顔でいてくれる。それが何よりリジーには大切なことだった。
「そろそろ楽器の練習をなさいませな、サリス様」
 小さく笑ってリジーは促す。それに彼も笑って応じる。食卓から立ち上がり、そして何気なくドレスの裾を直す。リジーは目をそらさなかった。
「リジー、そんな顔をしないでちょうだい」
「まぁ……申し訳……」
「言っているでしょう? 私は姉さまの身代わり、出来損ない。こうして姉さまの代わりになるためだけに、生かされているのよ」
 出来損ない、と言ったときだけリジーが険しい顔をした。もしかしたらそんな顔が見たくて言ったのかもしれない、ふとエルサリスは思う。
「だから私は男として生きる方法がわからないのよ」
 こうしてリジー以外の人目がない地下にあっても、エルサリスは日常的に女の姿のままだった。目覚めれば薄化粧を施し、女物の衣装をまとい、女の髪形をする。幸か不幸か、幼いころから姉と瓜二つであった顔は、大人になったいまでも男の匂いがほとんどしない。
「さ、練習をするわね」
 そんな自分をリジーが悲しんでいることは知っている。それでも、どうにもならないとエルサリスは思う。こうして生まれてしまった。こうして生きてきた。ならば、このままずっと行くしかないのだろうと思う。逆らえば、自分のみならずリジーが命を落とす。
「いっそ……」
 自分だけならば死んでしまってもいいような気もする。けれど積極的に死に惹かれるかと言えばそのようなこともない。漫然と、流されるまま。
「それも、いいわね」
 食堂から私室に戻り、独り言を呟く時ですら、女の言葉。それにエルサリスは苦笑する。男の話す言葉を聞いたことがないわけではない。
「それでも、口にしたことがないのだもの」
 自分でどう話していいか、わからない。何より、怖い。もしもリジーと二人、男として話していたならば、咄嗟の時に過ちを犯しはしないだろうか。姉の身代わりでいる間に、間違いを犯さないだろうか。それだけはあってはならないことだった。
 ゆっくりと首を振り、エルサリスは私室に大事に置かれているヴィオールを手に取った。狩りに使う弓よりもっとずっと細身の、それでもよく似た道具で弦を擦って音を出す、昨今流行の楽器だ。
「一度……」
 はっとして口をつくんだ。誰に聞いてほしいと思ったのか。考えただけで頬が赤らむ。何も考えないようにして、エルサリスは練習をする。
 これも姉が習いたいと言ったものの一つだった。もちろん、エルサリスもやらされた。高名な楽師が姉に稽古をつけに来る部屋の隣、窓も閉てたままの薄暗い部屋でエルサリスはそれを聞かされた。扉の隙間からそっと窺う。どうやって音を出すのか、姉にどんな注意をしているのか。じっと無言で吸収する。
 その日のうちにこの地下にも新しいヴィオールが届けられた。あとから「仲の良い小間使いと一緒に練習をするために」姉がねだったことになっているとリジーが聞いては憤慨していたが、エルサリスはかまわない。
「この音、私は好きよ」
 姉はうまく弾くことができずに早々に飽きた。エルサリスはやめろとは言われていないので続けている。今ではそれなりになってきていた。とてもあの楽師が弾いていたようにはならないけれど、リジーは贔屓目は横においても素晴らしいと微笑む。
 ゆっくりと音楽の中に沈み込みながらエルサリスは思う。昼間のことを。この手の中にあった夏霜草と言うあの花。
「……イアン様」
 ぽつりと呟いてしまってはまた頬が熱くなり、つられるよう、くちづけを受けた額にかっと熱が灯ったかのよう。それにエルサリスは黙って唇を噛んだ。
 わかっている。イアンは自分に、エルサリスにくちづけをしたのではない。彼が寄り添おうとしているのはエルサミア。
「どうにも、ならないもの……」
 はじめてイアンに出会ったときの――もちろん姉の身代わりとして――あの優しい微笑が忘れられない。とても綺麗な緑の目。自分を見て、微笑んでいた。
「違う。姉さまをよ、私じゃないわ」
 奏でながら、エルサリスは言い聞かせる。イアンは自分の婚約者ではない、姉のだ。思っては小さく笑ってしまった。
 どれほど姉に似ていようとも、この身は男。エルサリス自身、このような育ち方をしたというのに、自分を男性だと疑ってはいない。女性として生きたいと思っているわけでもない。そうするしかないから、そうしているだけ。彼にとってはそれだけのこと。
 だからこそ、自分がイアンと添えないこともまた、理解している。子爵家の当主であるイアン。何より求めているのは、跡継ぎを産むことができる「女性の伴侶」だろう。それが貴族というものだ。
「どんなに、私が……」
 慕っていたとしても、どうにもならない。そもそも、イアンは姉と自分の入れ替わりのことなど、知りもしない。
「お怒りになるでしょうね」
 騙されているのだ、タイデル子爵イアン・ジルクレスト卿が。激しい怒りを感じないほうがおかしい。エルサリスは何度か口をつきそうになった真実を、イアンには言えないでいる。
 怒られるから、ではたぶんきっとない。その怒りを一身に浴びて死んでしまってもそれはいっそ幸福かもしれない。そうも思うのに言えない理由はただ一つ。
「もう、少しだけ――」
 姉が嫁ぐその日まで、姉の身代わりとしてイアンとすごしてみたい。イアンには申し訳ないことだとは思う。騙されて、イアンには愛も敬意も抱いていない妻を迎えさせることになるのだから。
 けれど彼は高貴な家柄。ならば婚姻は婚姻として、愛は別に求めることもできよう。エルサミアと温かい夫婦にはなれなくとも、彼ならばきっと愛し愛される誰かを見つけることができる。
「それまで」
 ほんの少し、短い間だけでも「エルサミア」としてあの眼差しに包まれていたい。優しく穏やかな彼と共に束の間を生きたい。
 隣室から漏れ聞こえてくるヴィオールの音色。ひどく悲しい音がしてリジーはふと眉を顰めていた。

 その頃。夕食も済み、そろそろジルクレスト卿もおいでになろうかと屋敷内がそわそわとしていた。馬車が到着するなり召使がぱっと顔を明るくする。不機嫌だったお嬢様のご機嫌もこれでよろしくなろうかと。
「イアン様!」
 陽が落ちてからの訪問に花というのは野暮なものだとは思ったけれど、イアンに他の贈り物は思いつかない。何よりあれほど夏霜草を喜んでくれた女性だ、きっとこれも喜んでくれることだろう。
「あら、素敵ですね。綺麗だわ!」
 おや、と花束を受け取ったエルサミアにイアンは内心で首をかしげる。喜んだふりをされた、なぜかふとそんな気がした。
「ミア、そんなところにいつまでもジルクレスト卿を――」
 ドヴォーグ家の主であるエルサミアの父が苦笑しつつ、それでも相好を崩す。その横には誇らしげに娘を見ている母。この屋敷に来るといつものことだな、と心の中でイアンは小さく笑う。いささか手元不如意とはいえ、ジルクレスト家は長い歴史を誇る家だ。いかに裕福とはいえ、平民のやり方が鼻につくこともないわけではない。それを言える身ではないから黙っているだけだ。
「どうぞジルクレスト卿、こちらに」
 彼女の父に促しに、軽くうなずいては席につく。嬉々として弾むような足取りのエルサミアがすぐ横に腰かけた。
 カードの誘い、と聞いて嬉しかったのは事実だ。何より、今日の彼女はイアンが好ましく思う穏やかな彼女であったものを。けれどいまは。思ってからそっと首を振る。これからだと。婚姻を結び、ゆっくりとお互いを知っていけばいい、そう言ったばかりであったと。
「さぁ、勝負とあっては、容赦はいたしませんぞ」
 からりと笑う父親に、イアンは思わず首をかしげていた。遊技卓についたのは自分と彼、そしてエルサミアと母。
「どうなされましたか?」
 母親に問われて、さすがにイアンは口にしていいものかどうか戸惑う。が、気づかれてしまっているのだからもう致し方ない。
「我が家では、カードというものは男の遊びですから。いささか驚いた、それだけですよ」
 女性がカードをしないものではない、が、女性同士で卓を囲むのが普通だ。それがイアンの「普通」だったけれど、平民の間では違うらしい。咳払いを繰り返す父親にイアンは鷹揚に微笑んでカードを促した。
「お、おう。では……」
 鮮やかとは言い難い手つきでカードをさばく。女性は同じ卓を囲むものではない、と言ったせいだろうか。エルサミアが無言だった。機嫌を取るのはきっと婚約者の自分の仕事だろう。苦笑して彼女に向き直り、ふと気づく。
「どうかなさいましたの、イアン様?」
 つん、と顎を天に向けたいかにも拗ねているぞ、と言わんばかりのエルサミア。なんでもないですよ、と笑ってみせながらイアンは別のことを考えている。
 夏霜草の香りがしていた。エルサミアからではなく、この部屋から。強く、強く。まるで潰れてしまった時のよう、強く。あの花を愛するイアンはその香りを知っていた。




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