彼の人の下

 涙を浮かべてリジーが軟膏を練っていた。これだけは欠かさず父が届けてくれる高価な品だ。何もエルサリスを思ってのことではない。彼が姉の身代わりを続けられるように、ただそれだけのこと。
「さ、サリス様。お召し物をお脱ぎあそばせ」
 茶目っ気たっぷりに言ってみせる老女はいまだ潤んだ目。それでもエルサリスをこれ以上悩ませないように彼女は微笑んで見せる。その気丈な姿にこそ、彼は微笑み返した。
 物心ついたときからここでこうしてすべてを整えてくれている乳母だった。この身を預けるになんの心配もいらない。エルサリスは誰が来るわけでもない居間のこと、と半ば開き直ってドレスを脱ぐ。
「なんと……」
 リジーがかすかに吐息を飲んだ。あっという間に青黒くなってしまった痣の数々。肌の薄いエルサリスだけに殊の外、目立ってしまう。
「それほど痛くはないのよ。大丈夫」
 そんなはずはないだろうに。笑ってみせる彼のため、リジーもまた微笑む。
「サリス様はお強うございますもの」
「そうよ。これでも私は男ですものね。姉さまやお母様は女性ですもの。だから、平気よ」
 殴られても、蹴られても。女性の力だからたいしたことはない、とエルサリスは言う。これほどの痣を抱えて彼は言う。それだけ、エルサリスにとってこれは日常だった。
「サリス様――」
 何かを言いかけて飲んだリジー。強いて微笑み、手当てをはじめた。たっぷりと塗られた軟膏が、ほてった傷に心地よい。吐息を漏らすエルサリスにリジーは思わず拳を握る。
「リジー」
「いえ、なんでも……」
「私ならば、本当に平気よ。ちょっと痛いだけ。それも、いまだけだもの。お前が心配してくれるのは嬉しいわ。だから、ずっと私の側にいて」
 両親や姉に逆らわないで。自分の側から、遠ざけられてしまうから。エルサリスの言葉に老女は力なくうなずき、いっそう心をこめて手当てをした。
 エルサリスがそうやってリジーに側にいてほしいと言うようになったのは最近のことだった。以前は自分のせいで彼女までこの牢獄住まいを強いられている、そう呟いていたものを。
「サリス様」
「なぁに?」
「いまだけは、お許しくださいませな、サリス様。リジーの坊ちゃまは、本当にお強くなられた。リジーはそれが何より嬉しゅうございますよ、坊ちゃま」
 肩に置かれた年老いた乳母の手。エルサリスは何も言わず黙って微笑み返していた。それに老女もまた、微笑み返す。また手当てをはじめるまで。
 その皺の寄った手のぬくもりに、エルサリスはじっと目を閉じていた。彼はリジーの乳で育てられたわけではない。けれど彼にとってはリジーだけが乳母だった。
 生まれてすぐ、リジーも理由を知らないことらしいけれど、母はエルサリスを拒絶したそうだ。そしてそのまま殺すか、里子に出すか。そう父に迫ったらしい。
 それを父が今度は拒んだ。ドヴォーグ家として、それはできないと。結果として、まだ目も開かないうちからエルサリスはこの地下室住まいだ。そんな状況で、まともな乳母などつけてもらえるはずもない。
「リジー、ありがとう」
 手当ての礼だと老女は思っただろうか。ただただくすぐったそう、彼女は笑った。本当は、違った。こうして育ててくれた、その感謝。
 何を考えたか、両親の振る舞いにリジーは自分が面倒を見る、と志願したらしい。屋敷でもそう重要な召使ではなかった、当時の彼女は。それどころか、水汲みや洗濯をするばかりのどこにでもいる召使。それがたぶん、母の意に適ったのだとエルサリスは思う。母にとっては下賤な召使の手に委ねることで、暗い喜びを満たしているのだろう。
 当時すでに子を産む年を過ぎていたリジーだ、当然にして乳など出ない。姉であるエルサミアの乳母から乳をわけてもらうのが順当であったはずが、それを母は厳しく拒んだらしい。
 なんとしてもこの赤ん坊は自分が生かす。決心したリジーの心の内はエルサリスにもわからない。なぜ自分などを屋敷の主人に逆らってまで面倒見てくれたのかは。あちらこちらと奔走し、日に何度も貰い乳をし、リジーはここまでエルサリスを育ててくれた。だからこそ、かもしれない。リジーは腹を痛めた我が子でこそないものの、エルサリスをこうして大切にするのは。
「お前には、苦労ばかりかけるわね」
 呟いてしまった瞬間だった。リジーがまるで幼いころのようぴしりと手を打ってきたのは。思わず目を丸くするエルサリスの前に戻り、リジーは真っ直ぐと立つ。
「情けないことを仰せになりますな、サリス様。リジーはなんの苦労もしておりませぬ。こんなことを苦労と思うようでは乳母失格にございますよ。それがおわかりにならないとは……なんと情けない」
 嘆きの言葉は大仰ながら真摯なもの。エルサリスは息を飲んでそっと詫びた。乳母の手を取れば、いまだけは召使の手に軽々しく触るものではない、と厳しく言われる。それに逆らい、エルサリスは微笑む。
「乳母やが私を育ててくれたのよ。ごめんなさい、リジー。この手が、私をここまで育ててくれたの、ありがとう」
 皺の寄った枯れた手。地下で過ごさなければ、ここまで皺だらけではなかっただろう、きっと。それでもリジーはきっと、何度過去に戻っても同じことをしてくれる。微笑むエルサリスにリジーの小さな体から険が取れた。
「ねぇ、リジー。ずっと聞こうと思っていたのだけれど。答えたくなかったらいいの、ちょっとした不思議だから」
「おやおや、リジーはサリス様に隠し事など致しませんよ」
「そうね、リジーはいつも私の味方だものね。――ねぇ、リジー。お前はもしかして貴いお方のお屋敷に勤めたことがあるのではなくて?」
「えぇ、ございますよ。まだまだ若い時分にございましたが」
「それでなのね。リジーの言葉はとても綺麗だもの。おかげで私も姉さまの代わりをする時、恥ずかしい思いをしなくて済んでいるのよ」
 エルサリスは姉のよう、教育を与えられてはいない。良家の子女として、修辞や楽器、絵画や文学。そんなものを修めるのはごく当たり前のこと。それをエルサリスは許されていない。
 代わりに、リジーが字を教えた。内緒で持ち込んだ本を読ませてくれた。それが知られてしまってからは、本格的にリジーも地下室から出られなくなってしまったのだけれど。楽器は姉が習うのを別室に隠れて聞かされた。それだけで、同じようになれと言われた。絵画は借りてきたものを無言で見せつけられた。絵画の題と作者を教えてもらえるのも一度きり。
 けれど不幸にも、エルサリスにはそれで充分だった。覚えなくては暴力を振るわれる。確かに痛い思いはしたくはないから必死だった。しかしそれ以上に、エルサリスは一度で、あるいは数度の練習で、エルサミア以上の音楽を奏で、教養を身につけた。
「サリス様があまりに優秀でいらっしゃるから、旦那様も奥様も、なによりお姉さまも嫉妬――」
「リジー。だめと言ってるでしょう。そういうことを言っては伝わってしまうものよ」
「伝わりようもございませぬよ、サリス様」
 悪戯っぽいリジーにエルサリスは力なく笑った。確かにそれも一面の事実ではある。地下室住まいのエルサリス主従。殊にリジーは屋敷の主人たちの前に出ることなどない。それもいい、とエルサリスは思っている。姉に殴られる自分を見れば、身を挺してリジーは庇おうとする。細い老女の体で。それだけはしてほしくなかった。
「貴い方のお屋敷にいたのなら、リジーはきっと物知りね?」
 さて、とリジーは笑った。エルサリスは姉と同じだけの教養を身につけはしたけれど、身代わりを命ぜられない限り、ここで日がな暮らしているだけだ。決して世間を知っているとは言えない。
「あのね……」
 問おうとして、エルサリスは少しだけためらう。ゆっくりと息をするエルサリスに時間を与えようと言うのだろう、リジーは薬草茶を淹れてくれた。打ち身の熱を取るものだ、と差し出されたそれに口をつけ、エルサリスはやはり問おうと思う。
「……この時期に咲く花なの。黄色い、つぶつぶとした小さな花が固まって……私でも見栄えはよくない、と言うわ。それでも、なんて言ったらいいのかしら。私の目には、とても健気に見えたの」
「えぇ、えぇ、わかりますとも。サリス様のお心をリジーはよく知っておりますよ」
 うなずく乳母にエルサリスはほんのりと目許を染める。そうすると、姉とははっきりと違う表情になった。並べてみても同じと言うだろう顔が、たぶん百人いれば百人、いまのエルサリスのほうこそ美しいと言うに違いない顔になる。その理由に思い至ったリジーがふと口許をほころばせた。
「とても愛おしい花だったけれど、香りのほうを好む人のほうがずっと多いだろうと私も思う。華やかで、薫り高くて。優雅な香りとはこう言うものかしらと思うような。ねぇ、リジー、あれは、なんという花なの」
 イアンに、尋ねればよかった。あのときは、胸が高鳴りすぎてとても思いつかなかった。姉のためにイアンが摘み、差し出した花は、姉の手で粉々にされてしまったけれど。せめて、その名だけでもエルサリスは知りたい。その向かい側、浅く椅子に腰かけたリジーがぽん、と胸を叩いていた。
「リジーにお任せくださいませな。もちろん存じておりますよ」
「まぁ、やっぱりリジーは物知りなのね!」
 きらきらと煌めく碧い目。エルサミアの高圧的な目よりずっとずっと美しいとリジーは思う。その優しい眼差しにリジーは応える。
「夏霜草、と申しますよ。季節外れの霜にあたってしまった可哀想な花、と言うことでしょうねぇ。縮こまって、身を寄せあって、ぱっとしない花をそれでも香りが装うのでしょう」
 夏霜草、エルサリスは口の中で繰り返す。忘れないように、何度も。素晴らしい香り、とリジーは言っているけれど、香りより、花の姿より、覚えていたいのはきっと。
「サリス様は花のほうをお好みでしたか」
「えぇ、いとけなくて。――変わっているわね、私。気をつけなくては。姉さまはきっと香りが素敵と仰るでしょう」
「そうでございましょうねぇ。ですがリジーは、あの花そのものを愛らしくお思いになるサリス様こそが、愛おしく思えますよ」
「まぁ、ありがとう。嬉しいけれど、恥ずかしいわ」
 にこりと笑うエルサリスに、リジーははじめて大人の顔を見た、そんな気がした。地下室に暮らしはじめて二十年。よくぞ健やかにお育ちなされた、内心でリジーは涙を飲む。




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