彼の人の下

 屋敷内がぴりぴりとしている。何かがあったと、イアンに気づかれてしまうかもしれない。だからこそ、いつも送り届けてもらうのに、無礼にもそのまま彼を帰す。エルサミアはそれと気づかせず笑って見せるのだけれど。
「では、夕刻に」
 自分は所用があって戻るけれど、もう一度同じ時を過ごせますね。微笑むイアンにエルサミアも微笑み返す。今夕、イアンはドヴォーグ家の家族と共にカードを楽しむ予定だった。どうぞそれまでに屋敷内が落ち着いていますよう、祈る彼女の声はどこにも誰にも届かない。イアンにすら。イアンにこそ、届いてほしくはなかったから。
「ただいま戻りました」
 召使たちもひっそりと見守っているかのよう。否、嵐を避けようとしているのかもしれない。令嬢の帰宅にしては人影が少なすぎる。そしてエルサミアは屋敷の奥まった一室、中庭に面した穏やかな陽当たりの小さな居間へと入っていった。
「遅いわよ!」
 途端に飛んでくる罵声。だがそれはエルサミアと同じもの。見ればそこに待ち構えていたのは、エルサミアにしか見えない人物だった。髪型や着ているものだけではない。髪の色、目の色、声。すべてが同一人物としか思えない。ここにエルサミアがいなかったならば、彼女こそがエルサミアと言われたに違いない。
「申し訳ありません」
 頭を下げた彼女は黙って何かに耐えている様子だった。何を言われてもいずれにせよ叱責される、そう知っているかのよう。
「それで。なにを話して何を聞かされたの。さっさと言いなさいよ、この愚図!」
 彼女の怒鳴り声に、室外の召使が慌てて逃げて行ったのをエルサミアは感じる。せめて茶の一杯でも届けようとしてくれたのか。思って彼女は内心で小さく首を振る。きっと室内で待っていた女性に命ぜられていたのだろう、茶が欲しいと。そしてそれを忘れていまエルサミアを詰問する女性だった。
 イアンとなにを話したのか、どこに行ったのか。順序立てて彼女はすべてを話して行く。言いたくない、と思ったこともあるだろうに。
「ちょっと、よけいなことをしないでくれる? 私があの男を慕っているとか。言わないでよ、面倒くさいわね」
「でも、姉さま――」
「そんなこと言わなくっていいのよ! どうせ婚約はもう済んでるの、そんなこともわからないの!」
 金切り声を上げる女性はエルサミアの姉なのか。姉と言うには似すぎているほどによく似た二人だった。
「まだわかんないの、あんた! あたしはあの男と結婚するわよ、そりゃね。でもたかが結婚でしょ。あいつはうちのお金を手に入れる。あたしは貴族の奥方になる。それだけじゃない。お互いに利益があるからしてるの、わかってるの! 好きも嫌いもないのよ、結婚の誓約だけが必要なの!」
「イアン様は、それでもこれから善き夫婦になっていこうとなさっておいでです」
 言った彼女を姉は鼻で笑った。何を馬鹿馬鹿しいと言わんばかりに。好きでもない男と結婚するのはただ地位欲しさだけだと。
「これであたしもお父様お母様も一層贅沢ができるのよ。それをあんたは邪魔するって言うの!?」
 違う、言う暇も与えられず跳びかかってきた姉に彼女は打擲される。何度も、何度も。打ち倒されても、何度も。殴られるだけでは飽き足らず、蹴りつけられ、踏みつけられ。
「およしなさい、ミア」
 呆れ声が止めてくれるまで。それでも彼女はただそこにじっとしていた。許しもなく起き上がってはまた殴られると知っている。
「でもお母様。こいつ、生意気なんですもの」
 ぷ、と頬を膨らませた姉を母親は可愛くてたまらないと言いたげな笑顔で見つめる。彼女は見ることを許されなかった。
「いつまでそうしているの」
 あまつさえ、母であるはずの人に彼女は蹴られた。止めたはずの人に。のろりと顔を上げれば、勝ち誇った姉の顔。くすくすと笑っていた。
「おかしなお母様。私を止めたのに、ご自分でこれを蹴ったりして」
「止めなければあなたはいつまででも続けたでしょう? これが怪我をして困るのはあなたですよ、ミア」
「別に困らないわ」
「あら、そうなの? でしたらジルクレスト卿からのお誘いはご自分で行くのかしら」
「まぁ! 忘れていたわ。そうね、面倒だもの。これの使い道なんてこのくらいしかないって言うのに」
 高く笑って姉は再び彼女を踏みつけた。母親は止めるどころではなく、一緒になって踏んでいる。共に、楽しい楽しい遊びのように。彼女は逆らうことを知らないよう、ただひたすらに耐えていた。
「この屑! 出来損ないの屑!」
 ぎゅうぎゅうと踏みつけられても彼女は逃げられない。ごめんなさい、何度となく呟くだけ。いずれ、聞こえてはいても聞き遂げられることなどないと知ってはいたが。
「わかったらさっさと戻りなさいよ、あんたがいるだけで空気が濁るわ」
 ふふん、と笑う姉の息は荒い。うっすらと額に汗まで滲ませていた。それほどの暴虐を働いておきながら、後悔の色は一刷けもありはしない。そう言う姉で、そう言う母だった。
「はい、姉さま。――それと、これを」
 必死になって立ち上がれば、体中が痛い。それでもここで立たなければ、更なる暴力にさらされるだけ。今まで健気に手の中で守ってきたあの花を彼女は姉に差し出す。
「はい? なにこれ。こんなものがなんだって言うのよ」
「イアン様が、くださいました」
「は……。あの男、なに考えてるのかしら。こんな見栄えの悪い花を贈られて喜ぶ女がいるとでも思ってるの? ほんと、頭の中身を疑うわね」
「そうねぇ、本当に。ミアには似合わないわね。この出来損ないになら、いいかもしれないけれど」
 意地悪く笑う母に姉は華やかに笑った。そして差し出された花を無理矢理奪い取る。一度は受け取った、そんな体裁を付けるよう香りを嗅いで、そして花を彼女につき返す。
「ほら!」
 まるでこれが類い稀なる贈り物のよう。彼女は息を飲んで姉からその花を受け取ろうとした。見栄えの悪い、ぼそぼそとした黄色い塊を。手から手に移ろうとするその瞬間、姉は手を離した。
「あ――」
 床に落ちる花。咄嗟に拾おうと身をかがめた彼女の目の前で花は踏みにじられた。分厚い絨毯が汚れて行く。ぐりぐりと爪先で見せつけるよう、にじられる花。彼女は手を出したまま凍りつく。花の断末魔だったのかもしれない。ひときわ鮮やかな香りが室内に満ちた。
「さっさと戻りなさい。言ったでしょ。そんなことも守れないの」
 震える唇のまま、彼女は一礼する。それを母娘が笑って見ていた。彼女が逃げるよう去って行くのを。実際、逃げていたのかもしれない。
「……ごめんなさい」
 廊下を走るよう歩いて行く。召使たちは誰一人として姿を見せない。こうなると彼らは知っているのだから。
「イアン様――」
 せっかくの心尽くし。目の前でめちゃくちゃにされたあの花。涙も出ずに彼女は足早に向かう、地下室へ。自分の住まいへ。
「いま、戻りました」
 待ち構えていた古参の召使。視線を合わせず一礼をする。そして無言のまま鍵を開けては彼女を通す。扉をくぐるなり、背後で重々しい音がして再びここは閉ざされた。
 地下室とはいえ、それなりに整えられてはいた。薄暗さだけはどうしようもなかったけれど、天井付近には空気抜きの窓が設けられているせいでいまはまだ明かりが射しこんでいる。狭苦しい廊下の左右に扉がいくつか。いずれも彼女の生活の場。寝室であり、浴室であり。
「お帰りなさいませ」
 飛ぶよう駆けてきた老いた召使のための部屋もある。一目見るなり召使の目には彼女が体を傷めていると知れたのだろう。酷く酷く痛ましそうな顔をした。
「ささ、おはようこちらに。傷をお見せくださいませな」
 手を取らんばかりのその態度に屋敷に戻ってからはじめて彼女は微笑む。そして自分から老女の手を取った。
「大丈夫よ。見えるところに傷はないもの」
「見えないところにお怪我があると言う意味でございましょうに」
「そんなこと言わないで」
 小さく笑えば怪我が痛んだのだろう、顔を顰める。それに老女は慌てて居間の長椅子へと彼女を座らせた。老いた体を叱咤して、老女は手早く手当ての道具をそろえて行く。
「慣れたものね」
「サリス様がそれほど何度となくお怪我をなさっていると言うことでございましょうに」
「私なら、大丈夫よ」
「いいえ。こんなにお怪我ばかりなされて。旦那様も奥様も、エルサミア様だけをお可愛がりになられて。双子のエルサリス様にはこの仕打ち。いったい何がそんなにお気に召しませぬのか」
「私は出来損ないだからよ。私なら大丈夫よ、リジー。お前はお母様たちに逆らってはだめ。お前までいなくなったら私はどうしたらいいの」
「なんと……サリス様……」
「それもだめよ、リジー。私を呼ぶときにはお嬢様。そう言われているでしょう?」
 たった一人、この乳母だけがエルサリスの味方だった。こうして共に地下室に閉じ込められてまで、世話をしてくれる。大切にしてくれる。優しい手当ての手指はこんなにも老いてしまったというのに。こうして自分と共にあると言ってくれてから、リジーはきっと一度も街に出ていない。エルサリスはそれを情けなく思う。
「リジーは……リジーは、あなた様をお嬢様とお呼びせねばならないことが、こんなにも悔しく、憎く――」
「言ってはだめ。それはきっと伝わってしまうから。私は出来損ないとして生まれたのだもの。姉さまのお役に立つためだけに、生かされているの。それを弁えなくては、ね?」
「いいえ! サリス様は出来損ないなんぞであるものですか! お体も、お心映えも、なんの不足もなくご健康であられる。なのに……なのに……こんな、女の格好なんぞをさせられて……」
 涙まで浮かべている乳母にエルサリスは、エルサミアの双子の「弟」である彼は、ほんのりと笑った。ぽん、と彼女の手を叩く。
「私は娘として育てられたのだもの。男として生きる術を知らないわ」
 ただそれだけのこと。肩をすくめて笑ってみせれば、傷めた体がひどく痛んだ。




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