彼の人の下

 迎えに差し向けた馬車の中、エルサミアと共に揺られつつイアンは機嫌がいい。今日の彼女は先日と違って落ち着いている様子だった。それが彼には好ましく映る。
「さぁ、どうぞ」
 植物園は初夏の風。エルサミアも散策を意識したのだろう、散歩用のすっきりとしたドレスを纏っている。ほっそりとした肩を覆う繊細なレースが彼女の美しさを引き立てていた。
「ありがとうございます」
 軽く手を取って馬車を下りる。その手指すら羽のよう。イアンは少しだけ面映ゆい。こんなに美しい人が婚約者である幸福、というものだった。
「少し陽射しが強いかな。大丈夫ですか」
 女性はとかく強い陽射しを忌む物らしいから、言い添えればエルサミアはほんのりと笑った。こんなときにまで伝聞ですか、と言わんばかりの笑み。
「申し訳ない」
「イアン様?」
「私はどう女性に接していいのか、いまだ迷うのですよ」
「私にも、でしょうか」
 婚約も調った仲だというのにか。問われた気がしてイアンはばつの悪い顔になった。照れたような、居心地が悪いような、そんな顔が彼女はとても好きだと思う。口には出さなかったが。
「……陽射しならば、大丈夫です。ありがとうございます、イアン様」
 歩きだしてから、呟くよう彼女は言った。はっと気づいて見つめれば、困り顔。少女のようで一瞬イアンは戸惑う。時折彼女はこんな顔をした。
「……尋ねてもいいですか」
 思わずイアンは言ってしまう。並んで歩きながら、今更なにを言っているのだろうと思いつつも、それでも止められない。
「……はい」
 植物園はよい香りがした。初夏は香草の花が開く時期でもある。香りのために育てられている花々ではないだけにいっそう健気に香る、そんな香草の花がイアンは好きだ。
「あなたは……私との婚約をどう感じていらっしゃるのだろう」
 子爵家からの申し込み。裕福な、けれど家柄で言えば平民であるドヴォーグ家。エルサミアは逆らえなかったのかもしれない。真っ直ぐと前を向いたままだったのはだから、そのせい。
「イアン様」
 きっぱりと呼ばれ、渋々と彼は彼女を見やった。そして驚きに目が丸くなる。碧い目が、強く、けれど優しく輝いていた。
「イアン様と生涯を過ごすことになる……エルサミアは、なんと幸福なのかと思っております」
 ためらったのはたぶん、羞恥が勝る言葉だったからだろう。目許を染めてうつむいた彼女にイアンは顔をほころばせる。
「そうか。……よかった」
 安堵していた。こうして共に歩いている今は感じない不安。先日はなぜか強く感じた。本当にこの女性は自分を伴侶とするつもりか。そんな風にまで思ってしまった。
 断りたければ断れ、とまではイアンは言えない。ここまで調ってしまった婚約だ、もうその段階はとっくに超えている。それでも先日は不安、否、不快を覚えたのも事実。
「こんなことを言うと、あなたこそ不安になってしまうかもしれませんが。あなたは時折とても寂しそうに笑う」
「え……」
「先ほどもそうでしたよ」
 気づかなかったのだろう、エルサミアは驚きとともに唇に指を当てていた。それはそれで不安だとイアンは思う。彼女の心に何があるのか知りたいと思う。家と家の関係として婚姻を結ぶ。だからと言って彼女と恋ができないわけでもない。不意にそう気づいてイアンは笑う。
「イアン様? なにか、ご不快になりましたでしょうか」
「とんでもない。私は……今更ですが、この瞬間あなたに恋をしたのだと気づいて。我ながら鈍いものだと思えばおかしくて」
「……まぁ」
 くすりと笑いつつ、エルサミアの目は翳っていた。言うのではなかった、イアンは内心で後悔をする。それを感じたのだろう彼女がまたも強いて微笑んだ気がした。
「……私は、お目にかかったときからずっと、イアン様おひとりを。……お慕いしております」
 うつむき、エルサミアは何を言ったのだろう。しばし棒立ちになるイアンを置き去りにして彼女は行ってしまう。
「エルサミア! 待ってください」
 慌てて追いかければ振り返って彼女は笑った。まだまだ目当ての花は先だとばかりに。それにイアンも小さく笑い返す。
「聞いてください、エルサミア」
 並び直してイアンは言う。なんでしょう、と言うよう彼女が首をかしげていた。意志の強い碧い目は、こうして外で会うときはいつも優しい。
「決してあなたを責めるわけではない、わかってくれますか?」
「努力はいたしますわ」
「そうしてください」
 律儀なイアンの言葉をエルサミアは笑う。ふとイアンは思う。彼女は何に対してどんな努力をしているのだろう、と。
「あなたは時々、とても活発になりますね」
「申しわけ――」
「ですから、責めているわけではないと言いましたよ」
 笑って言えば、それでも困った彼女の顔。言うのではなかったかと思っても今更仕方ないことだった。諦めてイアンは話を続ける。どういうわけか彼女もまたそれを望んでいると気づいたせいもある。
「正直に言って、いまのよう、落ち着いているあなたのほうが私にとっては好ましい」
「はい、努力を――」
「かまいませんよ、エルサミア。それはきっと、私が慣れるべき部分なのでしょう」
 はじめから婚約者、として引き合わされた二人だ。イアンはドヴォーグ家の娘、と言う彼女の外側しか知らなかった。それすら知っていたとは言い難いほど、なにも知らずに出会った。
「ですから、きっとこれからです」
 何をだろう。不安そうなエルサミアにイアンは微笑む。気の強い部分を多分に持ち合わせている彼女だというのに、イアンが多く知る彼女はこのような女性でもある。むしろはじめて勝気な彼女を見たときには内心で激しい驚きに駆られたほど。
「秋には、あなたは我が家においでになる。それまでにもこうして過ごして行きましょう。二人で、少しずつ互いのことを知っていきましょう」
 エルサミアは、黙ってうなずいた。うつむいていたから、彼女の表情はイアンには見えない。それでも喜んでいるのだけは、わかる。同時になぜか彼女が涙をこらえたような気もしたが。
「いえ、お気になさらないで。嬉しくて……」
 言い訳だ。なぜだろう、イアンは不思議と思った。自分でも言うよう、彼は女性の扱いが上手な方では断じてない。もしもそうであれば、多少の手元不如意などどうとでもなる。同じ家格の、あるいは上の妻を迎えることだとて容易い。イアンはそれがどうしてもできない性格だった。
 だからこそ、不思議だ。なぜエルサミアの感情が手に取るよう、わかったのかが。これが恋をすると言うことか。そんな風に思っては少し恥ずかしくなるイアンだった。
「あなたを妻と呼ぶことができる私は幸福だ。そう思います」
 軽く手を取れば、委ねられる指先。初夏と言うのにひどく冷え切っていた。それに彼女自身、気づいたのだろう。イアンに何を言わせるより先に微笑んで手を引いてしまう。
「まいりましょう、イアン様」
 目当ての花はもうすぐ。イアンもまた微笑み返して彼女と行く。さすがに王室の植物園だけはある、女性の足には多少広すぎるほどだった。王室のそれであり、第三城壁の内側にあると言ってもここは平素から庶民にも開放されている。おかげで散策する恋人たちの姿にも事欠かない。
「私たちも、同じですね」
 悪戯に囁けば、見上げてくる碧い目。困った顔のまま睨まれてしまったらしい。それもまた愛おしい。イアンは口にしなかったというのに彼女には伝わったようで、ぷい、と目をそらされてしまった。それがまた楽しくてならなかった。
「あぁ、ありましたね」
 先ほどから強く香っていた。エルサミアも気づいていたのだろう、目が輝いている。わずかにイアンを振り返り、彼がうなずくと共に香りの元を探して足を速める。見つけたその目は香りのよう、煌めいていた。
「えぇ、その花です。ご覧のとおり、花そのものは決して見栄えがよいものではない」
 イアンの言は誇張が過ぎるというもの。無論、逆方向に。見栄えがよいものではない、どころではない。花か何かわからないぼやけた黄色い塊のようだ。小さな粒が集まって、かえってごろごろぼてぼてと重苦しい。それなのにエルサミアは首を振る。
「いいえ。私には……胸が苦しくなるほど、健気に映ります。いえ……健気と言うよりは、励まされているような、そんな気がいたします」
「あなたが?」
 イアンは驚く。香りの華やかさならば、エルサミアに似合いだった。見た目とは裏腹に、この花はなんとも言えず優雅で強い香りを放つ。この時期、貴婦人たちはこぞって花束の中にこの花を混ぜる、と言う。こっそりと、花々に隠して、ただ香りだけを。
「ごめんなさい、なぜか、そんな気がしてしまって。似合いませんでしたね」
 気の強さを滲ませて彼女は笑った。まるでこの花のほうこそ自分には相応しいのに、それでも言えない。そんな風情。だからこそ、イアンは思うのかもしれない。彼女が好ましいと。
「あなたは強い人だな」
「え?」
「この花のほうこそを好む、そんな人にはじめて会いました。もっとも、私の交友範囲は決して広くはないのですが」
「まぁ、イアン様。いくら婚約者の前とはいえ、酷いお言葉です」
「あ。いや、そうではないのです。決してそのような……」
「冗談です、イアン様」
 ふっとエルサミアが笑った。その笑みにイアンは花の香りを見る。優雅で強い、この香りを。そっと一枝を手折っては彼女の手に忍ばせる。
「あなたが思うよう、あなたはこの花に励まされているのかもしれない。私には、まだそれがわかりません。それでも私は、あなたにはこの香りもとても似合う。そう思います」
 訥々とした言葉だった。美貌を謳われるイアンだというのに、社交が不得手なせいでずいぶんと損をしている。まるでその方が好ましいと言うよう、エルサミアはほんのりと微笑んだ。イアンに彼女の笑みは閃光のよう。人目もはばからず、彼女の額にそっとくちづけていた。




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