彼の人の下



「私の、覚悟、かもしれません。いえ、覚悟、です。生きて行く。その覚悟のために、私は……変わりたい」
「だったら枯らす必要はないぜ? 封印で充分だ」
 その方が安全でもある。言うエリナードを碧の目が真っ直ぐと射抜いていた。エリナードはその藍色の目で受け止める。二筋の眼差しに、ふとフェリクスが視線を戻した。
「あなたは自分の意志を通すってことをようやく学んだわけだ。でもね、エリィが言った通りだよ。危険なことだ。封印じゃなくて枯渇を望むのは、どうして?」
「……他愛ないこと、だと思うのです」
「たとえ他人にとって他愛ないことでもあなたには大事なことなんでしょ? いいから言いなよ」
 促しに、銅色の髪をした人が仄かに視線を伏せた。ためらいと、戸惑いと。それでも懸命に言葉を紡ぐさま。じっと見ていた。
「私……。もう、あんなことはしたくない……」
「どうして?」
「だって……。生きて行きますから。なにかあったからすぐにまたエリナードを頼ってしまったりしないように。だから」
「あなたの魔力は弱いよ。そのあなたがね、星花宮の結界突破してエリィに声を届かせたって、そんなことが一生で二度もあると思うの? ないと思うよ、僕は」
 不慮の事故、あるいは類い稀なる例外。フェリクスの断言に銅色の髪の人が息をつく。それでもまだ、どうしても。ちらりとエリナードが笑った。
「師匠、諦めた方がいいですよ。知ってるでしょうが。こいつは意外と頑固ですからね」
「知ってるけど。危険を伴うことなんだし子供たちを危ない目に合わせたくないのが親の心情なんだってば」
 小さく笑った彼に銅色の髪の人は無言で頭を下げていた。その拍子に滝のような赤い髪を幻視した。肩から零れるその儚さにも似た。フェリクスは心を決める。いまならばと。
「よし、じゃあ。やろうか」
 差し伸べられた、大人の男としては小さな手。それでもこの手に救われた、と思う。何を言うこともできず無言で手を取る姿に彼はちらりと微笑んだだけだった。それが何より励ましになると知って。



 ――時間は三年前に遡る。
 屋敷内に華やかな声が響いていた。ドヴォーグは貴族の家ではない。先祖代々成功し続けてきた、資産家だ。それこそ貴族に娘を嫁がせることができるほど。
「まぁ、素敵! でも、こちらもいいわ。これを赤い石に換えたらもっと素敵。きっと私の髪に映えるもの」
 今は黄色い石が嵌っている髪飾りを手に取り、一人娘のエルサミアはきらきらと笑う。そのまま赤味がかった銅色の髪に飾りを添えれば如才なく細工師の助手が進み出て彼女に鏡を向けた。
「ほら、そうお思いになりません、イアン様?」
 碧い目は、澄んではいたが多少娘らしいしとやかさに欠けるかもしれない。が、意思の強さがあるぶん、充分に美しい娘だった。
「えぇ、そうですね。あなたには赤い石が似合うでしょう」
 微笑んで答えるのは婚約者のイアン。タイデル子爵位を持つ、ジルクレスト家の若き当主だった。父亡きあと、すぐさまその位を襲ったイアンだったけれど、生憎と堕落した叔父がいた。おかげでいささか手元不如意。もっとも「同じ階級から妻を娶ることが難しい」程度の不如意ではある。その点、資産家のドヴォーグ家はうってつけだった。幸い、と言ってはならないがその叔父もこの春亡くなった。おかげでこれ以上不都合は起こりそうもない。それはドヴォーグ家にとっても幸いだった。
 何よりイアン・ジルクレストは美しい青年だった。丹念に整えられた髪は黒褐色。温かみのある色の髪に囲まれたおかげで色白の怜悧な顔立ちが和らいで見える。萌えるような緑の目もまた、鮮やかな青年。ジルクレスト家から持ち込まれた縁談だったけれど、エルサミアが一も二もなくうなずいたのは彼の美貌のせいかもしれない。
「でしょう? 私、華やかなものが好きですの。色ならばやっぱり赤! 似合いますでしょう?」
 貴族の娘にはない大らかさにイアンは少々苦笑気味。それでも嫌ではなかった。婚約を調え、こうして何度も会ううちに好ましい点も数々見つけている。
「お嬢様にはこちらもお似合いかと……」
 恐れながら、と細工師が薦めたものにまたエルサミアは歓声を上げた。イアンの目には華やかを通り越して見えたのだけれど、彼女はずいぶんと気に入ったらしい。
「それがお気に入りですか?」
 イアンの問いに彼女は迷う様子だった。他にも色々欲しいものはある、けれど、と。イアンは気にしないでよいと首を振る。ならばとばかりまた彼女は細工師の差し出すものに見入りはじめた。
 ドヴォーグ家の居心地のいい居間で、一人イアンは手持無沙汰だ。こんなときやはり男は同席の必要がない、そうも思うのだけれど女性は違うらしい。あれこれと問われるのだから審美眼に自信のないイアンは内心では辟易としている。
 婚約の贈り物、などと言う大層なものではなかった。新しい髪飾りが欲しい、呟いた彼女のためにジルクレスト家出入りの細工師を同道したまでのこと。イアンとしては大仰にするつもりなど微塵もなかった。それでも喜ばれるのはどことなく嬉しくもある。
「あぁ……」
「どうなさいましたの、イアン様」
「いえ……」
 エルサミアの碧い目が閃いた気がしてイアンはそっと肩をすくめる。気丈さは忌むところではなかったけれど、気が強いのもここまで来ると少しは避けたくなる。
「今日はずいぶんと活発でいらっしゃるな、と思っただけですよ」
 何気なく見えるよう心掛けながら肩をすくめた。わずかにエルサミアの表情が強張った。そんな気がしたせいかもしれない。
「活発な女性は、お嫌いですか?」
 にこりと笑うエルサミアにイアンは微笑んで首を振る。たとえ嫌いであったとしてもここでは言えない、そう思っていても口には出さないイアンだ。それが大人のたしなみだとも思っている。
「お逃げになりましたわね、イアン様」
 明るく笑う娘にイアンは答えない。微笑んで肩をすくめるばかりだった。それをエルサミアもまた追及はしなかった。あるいは細工を見るのに忙しくなっただけかもしれない。
 結局エルサミアは二つの髪飾りを求めた。いずれもあれこれと手を入れさせるつもりらしい。イアンも綺麗なものは嫌いではなかったけれど、彼女ほどの情熱は持てない。
「ではまた……そうですね、明後日の午後。そろそろあの花が咲くころだと思います。お誘いしても?」
「あの、花……?」
「お話しませんでしたか? 植物園の花です。美しいとは言えない花ですが、とてもよい香りがするので」
「あぁ、ごめんなさい。すっかり……。えぇ、はい。お供いたします」
「ではお迎えに参りましょう」
 娘と婚約者のやり取りを現れた両親がにこにことしながら聞いていた。いずれも裕福な資産家であることを誇示するような、いささかイアンの趣味からは外れる服装をしている。いずれはこれが縁戚か、と思えば多少は気が重いイアンだった。
「――やっと帰ってくれたわね。ほんと……なに考えてるんだかさっぱりよ、あの男!」
 ふん、と鼻を鳴らしたのはエルサミア。イアンが見ればさすがに愕然とすることだろう。ばさりとドレスの裾をはたいて機嫌も悪そうに肩を揺らす。
「まぁまぁ、そう言ったものではないぞ、ミア。いい人なのに違いはないのだからな」
「いい人でも、手ごたえがなさすぎなのよ」
「でも美男じゃない。それはあなただって好きでしょう?」
「それはそうだけど、でもお母様……」
 両親になだめられている様子ではある。だが、親子揃ってイアン・ジルクレストを馬鹿にしているとも言える。所詮は没落寸前の貴族とでも言うように。
「考えてもみなさい、ミア。奥方に納まってしまえばいいのだよ。そうすれば――」
「あなた、それはいくらなんでも」
「よいだろう? なにしろ貴族社会の通例、と言うやつだ。簡単に離縁はできないし、奥方が少々羽目を外してもなにを言えることもない、と言うわけだ。なぁ、ミア」
 にんまりとする父親に、よく似た表情で娘が応える。母親はたしなめるのかと思いきや、ただただ笑っているばかり。
「結婚をしてしまえ。そうすればお前は貴族の奥方様だ」
「わかってるわよ。でも、本当にあの男、覇気ってものがないのかしら。鬱陶しいにもほどがあるわよ」
「言ってやるな。お前の美しさに圧倒されているのだろうよ」
 言いつつ父は娘を愛おしそうに見つめた。確かにそう誇るだけはある美しい娘ではある。だがいまは。イアンの前で装っていたすべてが剥げ、傲慢さだけが鼻につく。
「それより! あの花ってなによ!? 知らないわよ、そんなの!」
 いかにも腹立たしいとエルサミアは立ち上がる。そして父親に片手を突き出せば、心得たものでその掌に小さな鍵を乗せてやっていた。
「あまり騒ぐものではありませんよ、ミア」
「だってお母様」
「召使の目というものを考えなさい、と言っているんです」
「秘密の地下室じゃない。関係ないわよ!」
 ふん、と鼻を鳴らして去って行く娘に母はそれ以上を言わなかった。召使などどうにでもなる、そう考えているのかもしれない。そして生憎とそうできるだけの財力がドヴォーグ家にはあった。
 かつかつと踵を鳴らして廊下を進む令嬢を召使たちはさっと避けて行く。こうして主人一家が足踏み入れるはずもない場所でお嬢様を見かけることもある召使たちだったが、先達たちより新規召し抱えの者はまず第一に言い含められる。
「なにも見えない、何も聞こえない。使用人とはそう言うものだ」
 つまりどこでエルサミアを見たとしても口外無用、関知無用。そう言うことだった。もっとも、そう言われていなくともここを通りがかる彼女に声をかける者はいないだろう。それほど常に怒気を含んでいた。




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