イメルはタイラントを見送って、ゆっくりと立ちあがる。いまだ決心はついているとは言い難い。それが自分でもわかっている。けれどいましかない、そんな気もした。 食堂を出て、エリナードが戻ってくるであろう道筋を外す。広い星花宮の迷路のような道はこんなときにありがたかった。 「……いいでしょうか」 そしてひとつの扉を叩いた。見慣れてはいるけれど、頻繁に訪れていると言うわけでもない部屋。さすがにどこにいるかわかったものではない人だ、途中で精神の接触をしておいたけれど、いまだためらっている。 「どうぞ」 少しだけ開けた扉の隙間から覗いてしまえば、朗らかな声。子供のようだ、と笑っているらしい。イメル自身、あまりにも子供じみた態度だ、と気づいては苦笑する。誰かに見られるより先に、と扉の間に滑り込んだ。 「どうしました、珍しいですね」 リオンだった。イメルが会う、と決めたのはリオン・アル=イリオ。タイラントではなく、フェリクスでもなく。それをリオンもまた訝しく思っているのだろう。首をかしげている。 「少し、伺いたいことが、あって」 口にする言葉が震えていた。何かに気づいたのだろうか、リオンの目がわずかに真剣みを増す。その目が怖い、イメルは思う。 星花宮の魔術師として、四魔導師はやはり怖い。皆が皆、厳しい師でもあるのだから。だがタイラントはやはり自分の師であったし、フェリクスはその伴侶。何かと接する機会が多い。逆にリオンとその伴侶カロルは接点が多くはない。 「お答えできることなら何でもどうぞ。これでも師匠筋ですし、私」 くすりと笑って緊張を隠せないイメルにリオンは茶を淹れてくれた。それから一転してにんまりと笑う。 「気にしているようですから言っておきますとね、カロルにはしばらく戻ってこないでほしいと言ってありますよ。ですからお気になさらず」 いつだ、とイメルは顎が落ちそうになる。自分の態度を見て、何か相談事があると悟って、そしてリオンはカロルに精神を触れさせては話を通した、と言っている。それはわかるが。あまりにも。 「自信がなくなりそうです」 「それが相談事ですか? 違うような気がしますけどねぇ」 「いえ、それは! そうなんですけど!」 「だったら短く的確に話すことですよ、イメル。あなた、タイラントの弟子ですねぇ。話が遠いところまでそっくりと言いましょうか。ここまで来たなら今更ためらっても仕方ないでしょうに。それとも帰ります?」 自分はどちらでも構わない。笑って言われてしまってイメルは肩を落とす。言葉面こそ優しい人だけれど、言っていることはたぶん四魔導師の中で一番辛辣なリオンだ。ここに至ってやっとのことで覚悟を決める。 「先日、塔で本を読みました」 「ほうほう。それはいいことですね。研究熱心なのは褒めるべきことですから」 本当か。思ったけれどイメルは言わない。それどころではない、と言った方がたぶん正しい。自分の中で、話を組み立てるのに精いっぱいだった。 「読んだのは――『本質の相似』と『転生に関する覚書』です」 結局真っ直ぐと言うしかなかったイメルだった。が、その瞬間だった。イメルはリオンに切り伏せられたかと錯覚する。ぎょっとして顔を上げれば。笑顔のまま鋭いリオンの眼差し。 「よりによってあなたにそれを読まれましたか」 にこにことした温顔。今すぐ立ち去って、なにもなかったと言い張りたい。それでもイメルは踏ん張った。なんとか必死にうなずく。読んでしまったと。 「それで、あなたは何を言いに来たんです?」 それこそをよしとするようなリオンだった。少し、眼差しが和らぐ。イメルは大きく息を吸い、言葉としてそれを吐きだす。 「エリナードだと、思いました」 「つまりあなたは友達の詮索をする、と? まぁ、魔術師ですからね。気持ちはわからなくはありませんけど、私も。ただ、一つだけ問いましょうか」 「――はい」 「あなたは倫理観と探求心、どちらを選択するんですか、イメル」 「……探求心を。ただ! 事実を知ったあとでこの胸一つに納めておくべき話なら……いえ、リオン師が封印をしてくださっても、かまいません」 「精神に傷を負いかねませんよ? 不用意な精神操作は避けるべきです」 「それでも。知るべきことでないのなら」 「知るべきことではない、とあなたは理解した上で、それでも知りたい、と。封印も辞さずに知りたいと。なるほど……」 顎先に片手を当て、リオンは軽く瞑目する。どうしたものか、と考えているのではきっとない。リオンはすでに決めている。そんな気がイメルはする。案の定、リオンがふっと目を開けたとき、そこに宿るのはいつもの彼の目。 「昔話をしましょうか」 何を言われたのか、イメルにはわからなかった。限界まで引き攣った精神が、ぴんと音を立てて切れたような気すらする。それをリオンが笑ったのも。 イメルは、リオンが著した、定命の生き物の生まれ変わりに関する論文を読んだ。そして、近親者に多く現れる本質の――彼はエイシャの神官だからそう記すけれど、一般的には魂と言われる何か――の相似についての論文も。イメルには、引っかかるものがあった。だからこそ、問いに来た。それなのに昔話とは。 「別にお伽噺をするとは言ってませんよ、私。今から数十年ほど前のことですね。星花宮を実効支配していたメグという女性がいました」 「……はい?」 「ここ、侍女やら料理人やら、居つかないでしょう? メグは常人の、当時すでに老境にある女性だったのですが、星花宮で働きはじめるなりすべての召使を配下に置きまして」 見事なものだった、とリオンは笑う。それほどあっという間の手際のよさ。腰が痛い、足が痛いと言いながら、日々楽しそうに働いていた老女。 「その人は……?」 「元はラクルーサにいたらしいんですがね。長い間ミルテシアで暮らしていました」 珍しいことだな、とイメルは思う。吟遊詩人である自分はあちらこちらと平気で国境さえも越えて旅をする。けれど他はそうではない。まして常人の、しかも老女とあればミルテシアで人生を終えるのが一般的、否、そもそもミルテシアに移住したことそのものが不思議ではないだろうか。首をかしげたイメルにリオンが微笑んでいた。 「フェリクスですよ」 「……え? フェリクス師が、メグさんを、見つけて連れてきたとか、そう言う?」 「ま、あながち間違いでもないですね。要はフェリクスとタイラントの大喧嘩を仲裁した立役者の一人、ということなんですが」 それはなんと偉大な老女だろうか。イメルは感嘆する。一人前の若い魔術師である自分であってもあの二人の仲裁など断固として御免こうむる。か弱い老女の身とあっては、どれほどの勇気だろう。 「当時のフェリクスは、今とは別人のようでしたよ。全身棘だらけで。ほら、あの……なんと言いましたっけ、針鼠。あれのようでしたよ。もう誰が触っても怪我をします」 肩をすくめたから、おそらくはそんなものでは済まなかったのだろうとイメルは思う。それが、不思議だった。フェリクスは、表現形式が大多数的ではないだけで、優しい男だとイメルは思っている。全身で他人を拒絶する針鼠、と評されるのは意外だった。 「タイラントがいなかったからですよ。まだ、二人はいまのよう互いを理解しあってはいなかったんです。フェリクスもタイラントも、その本質に大きく欠けたものを持ったままだった、ということですね」 今はそれを互いの存在で埋めている。リオンの言葉にイメルはほんのりと頬を赤らめた。それほど完璧な一対。羨ましいより、概念として憧れる。 「その針鼠だった彼が、メグだけは初対面で信用したんです。なぜだと思います?」 「それが、あの論文の……」 「ま、そう言うことです。無論、フェリクス本人は知りませんよ、たぶんね。あなたもフェリクスとカロルの昔の話は知っているでしょう?」 幼少期に、二人ともが王都の劣悪な環境でその身を売らされていたと聞く。まだ少年だったカロルも。幼児と大差なかったフェリクスも。強張りつつうなずくイメルにリオンは笑みを浮かべたままうなずいた。 「メグは、カロルの同僚だったそうです。その当時の青薔薇楼でね。少女時代に客の一人に落籍されて、そしてその客は夫となったそうです。ご主人がミルテシアの人だったので、そちらに移住したらしいですね」 「あ……」 「フェリクスは、話をしている間に元娼婦だ、と気がついたと言っていましたよ。しかも少年時代のカロルを知っている形跡すらある、と呆れていましたが。同じ境遇を抱いていた二人ですからね、それで共感した、信用した、フェリクス自身はそう言っています」 けれど違うのだ、とリオンは言う。あの、論文がある。イメルは、それを読んでしまった。ならばそのメグと言う老女は。そのぶん、少し安堵した。エリナードではなかったと。それにリオンの目がきらりと光った。 「エイシャの神官ですし、私。それこそ見た途端にメグとフェリクスの関係性――と言うと語弊がありますが、本質における関係性は、飲み込んだつもりです」 「そのメグさんと、フェリクス師が」 「そうですね。いつかどこかで親子だったのでしょうね。それほど重なる部分の多い本質でした。もっともメグはカロルが彼を評したような氷の部分はまるで持ち合わせていない、甘く優しい夏の花のような女性でしたけどね」 タイラントが愛称として呼ぶシェイティの呼称。イメルもいつか聞いたことがある、それはカロルの悪口だったのだと。もっとも冗談半分なのだろう。だからこそ、フェリクスはタイラントにそう呼ばれたがっているのだから。少年時代のカロルとの思い出、というあたりだとイメルは思っている。シェイティとは真言葉を通常言語風に発音したもの、という。意味は「小さな氷」らしい。あまりにもフェリクスにぴったりだった。 「こればかりはあなたがエイシャの神官でない限り、言葉で表現しようのないものなので勘弁していただきたいのですが、二人はまったく別の人格として、まったく別の本質を持っていましたよ。それでいて――」 「たとえば。根っこの部分で似ていた、とかですか?」 「うーん、それも違うんですよねぇ。表層であり、根幹であり。まぁ、簡単に言えばあれです。普通、親子って見れば似ていたりするものですよね? でも、見間違えるほど似てはいませんし、似ていても別人でしょう? それに近い、と言いましょうか。いや、たとえ話をするとよけいにわからなくなりますね、これは」 困りました、言いつつリオンは笑っていた。あるいはだから、論文はリオンが衝動に駆られて書き上げたものなのだろう。それを発展研究させる気は彼にはないのだろう。イメルはそのときにはそれを理解していた。 |