彼の人の下

 フェリクスは何があってもエリナードを逃がす気がないらしい。彼の隣にちょこんと腰をおろして何くれとなく話しかけていた。
 微笑ましい、とイメルは思っておくことにする。互いに父と息子と言い合う二人ではあるけれど、こうして並んでいると兄弟のようだ。しかもフェリクスのほうが弟で。もっとも二十歳を過ぎた弟が兄の肩先に頭を寄せて懐いている、というのはどうかと思うが。それを気にしていては星花宮では暮らせない。
「大丈夫なの、エリィ。なんだか疲れた顔してるけど」
「疲れさせてる原因が言わないでください」
「なにそれ。ちょっと酷くない?」
 つん、と顎を上げて拗ねて見せるフェリクスをエリナードが笑う。子供たちが笑って見ているのだから、イメルもまた笑えばいいのか頭を抱えればいいのか。
 そう悩みつつもイメルこそ、気がかりだった。フェリクスのほうがずっと顔色が冴えない。当たり前だと一瞬遅れて気がついた。
 イメル自身、被害者を送り届け終えたばかりだ。その関連の仕事が山のようフェリクスには伸し掛かっていたことだろう。
 なにしろ相手はスクレイド公爵家だ。初代「王家の守護者」を出した名門貴族を事実上、潰すのだ。貴族社会からの反発は相当に激しいものがあっただろうとイメルも思う。その上、エトレがいた。彼はミルテシアの豪商の子息だった。そのおかげで生家が営む商会のラクルーサ支店までが横槍を入れてきた、とイメルは聞く。疲れていて当然だった。
 ようやくイメルも気づく。フェリクスの戯言にエリナードが苦笑しながら付き合っている理由を。師の息抜きの相手になっているつもりらしい。優しい男だなとイメルは微笑む。
「だからね、エリィ――」
 まだまだ戯言は続くらしい。エリナードも大変だな、と思いつつイメルは笑みを浮かべていた。この光景を見て和んでしまうのもまた、星花宮らしいと内心で笑いつつ。そしてフェリクスが何かを言いかけたそのとき、また厄介事がやってきた。もっともフェリクスが現れた時点で来るだろうと予想はしていたのだけれど。
「あぁ、ここにいたんだな。シェイティ」
 彼をその名で呼ぶのはタイラントただ一人。普段ならばフェリクスは傲慢な返答をする。だがいまは。むっと黙ってエリナードの腕に自分のそれを絡めては彼を見上げて蕩けるように微笑んだ。
「……師匠」
 さすがに頭痛を覚えたらしいエリナードの声。タイラントが絶句してはなんとも言い難い表情。イメルはいささかならずはらはらとしていたのだけれど、タイラントの目にあったのは、多少の申し訳なさ。少なくともエリナードに他意はない、と安堵する。
「行こ、エリィ」
 つい、とエリナードの腕を引っ張った。まったく、呟きながらエリナードは立ち上がったフェリクスを見上げる。そしてタイラントを瞥見し、うなずいていた。
「つまり、痴話喧嘩中ってことですよね? 道理で師匠が冴えない顔してるわけだ」
「ちょっとエリィ!」
「だってそうでしょ? いいですよ、タイラント師。師匠の愚痴の相手くらいはしておきます。そのあとでなだめてください。そっちは俺の役目じゃないですし」
「まぁ……やられても困るよな」
「でしょ? ほら、師匠。行きますよ」
「うるさいなぁ……」
「ほんっとに、このダメ親父め。恋愛下手にもほどがあるでしょうが」
「うるさいって言ってるでしょ、可愛いエリィ!」
 へいへいと投げやりな返答をしつつ、エリナードは大皿のほうへと向かっていく。まだ食事中だった彼だけれど、ここで中断せざるを得ないと諦めたのだろう。代わりにフェリクスが好む物と自分の分とを取り分けて皿に盛る。フェリクスに二枚の皿を持たせたのは手を繋がれない用心か。
「甘いよ、エリィ」
 ふふん、と鼻で笑ったフェリクスの声。わざわざ皿を魔法で浮かばせて、しっかりとエリナードと腕を組んで食堂を出て行った。
「よくできた息子だよなぁ」
 呆れて見送るイメルに届いたタイラントの感嘆の声。それでいいのだろうか。思わずタイラントをまじまじと見てしまう。
「うん、俺はいいと思うよ」
「でも……、その。なんと言うか……。あんまりエリナードを妙に思わないでやっていただけると――」
「あぁ、それはない、ない。大丈夫」
 からからとタイラントが笑った。手持無沙汰になったのだろう。小さく呟けば、大皿から切った果物が飛んできて、慌てて飛び退いた子供を仲間が笑う。それを齧りつつタイラントは苦笑していた。
「まぁね、エリナードに焼きもち妬くことはあるよ、俺はそれなりにだめな男だからね。でも、なんて言うのかな……。シェイティと一緒にいて楽しそうで、羨ましいなって思うだけで、エリナードに男としての嫉妬を感じたことはないから」
 肩をすくめられてしまってイメルは少し赤くなる。己の師が一人の男でもある、というのをこんな時にまざまざと知ることになる。エリナードは幼少時にはあれほど奥手であったというのに、今ではずいぶんとさばけている。性格の差だな、とイメルは内心で笑った。
「エリナード、よく見てるよな。俺とは全然喋ってない。シェイティとも関係ないこと話してただけだろ?」
「え、あ。はい」
「それなのに、すぐさま痴話喧嘩って言われたからなぁ。ほんと、できた息子だよ、シェイティの子は」
 くすくすと笑うタイラントにイメルは言葉がない。普段だったならば、何かを言うのだろうか、自分は。いまはどうしていいのかわからない。考えた末、尋ねた。
「師匠、突然ですけど。その、フェリクス師はエリナードを息子って仰るじゃないですか。師匠にとって、エリナードはなんなんです?」
「なんだよ、ほんとに突然だな? そうだな、うん。恋敵?」
「師匠!?」
「君な、冗談だってわかるだろうが」
 呆れられてもイメルは笑えない。どうあっても笑えない冗談だろう、いまのは。さすがにタイラントも気づいたらしく、小さく肩をすくめていた。
「ある意味では事実だよ。そうだな、たとえ話だけど。連れ合いが子供ばっかりかまってて俺のことなんか全然ほったらかしで寂しいなぁって感じかな」
 その言い分はどうなのだ、と思ったイメルだった。が、生憎と的を射すぎている表現だとも思う。溜息まじりのイメルをタイラントが笑っていた。
「君は俺にとってエリナードがどんな存在かって聞いたよな? だからわかるだろ? 俺にとっては連れ合いの息子。義理の息子、かな。生さぬ仲ってやつか」
 もちろん星花宮の弟子だと思う気持ちが一番強いのだけれど、タイラントはそう言い足した。そこがイメルとしては不思議だった。首をかしげるイメルをタイラントは微笑んで促す。
「いえ……。エリナードはお二人の息子なのかな、と」
「それはね、よく言われるんだけどさ。やっぱりエリナードはシェイティの息子だよ。俺は俺で君とおんなじようにエリナードが可愛いけどね。俺の息子って言う気はしないかな」
「そう……ですか」
「だいたいエリナードのほうだって望まないんじゃないか、それは。あいつはシェイティを父親だと思ってるし、俺は大好きな父親の連れ合いだろ?」
 エリナードを息子とは呼ばないよう、彼のほうもまた自分を父とは思わないだろう。タイラントは笑って何気なくそう言った。タイラントの中では、それで決着がついている問題らしい。
「うん、気にしたことがなかったな。改めて言われて、はじめてそんな感じだなって思う。ちょっと恥ずかしい言い分だけどな、イメル」
 照れて目許をほんのりと染めたタイラント。そう言う顔はフェリクスに見せればいいのに。思ったイメルだったけれど、エリナードが同時刻に同じことを考えていたとは知らない。
「この星花宮には、カロル様がいて、リオン様がいて。シェイティがいて。君をはじめとした子供たちがいっぱいいて。俺やシェイティにとって星花宮はな、家族みたいなもんなんだよ」
 イメルをじっと見つめてタイラントは言った。言葉もなく見つめてくるその弟子を、師はどんな思いで見ているのか。
 イメルは胸に迫るものを抑えきれなかった。タイラントからひときわ愛され慈しまれてここまで来たイメルだ。その師の過去を知らないではない。そしてフェリクスの過去を仄聞してもいる。だからこそ、家族という単語が胸に迫って仕方ない。
「俺たちは、この大家族が幸せであれるように、頑張ってるつもりだよ。君たちに小さな子供たちができたとき、またこの幸せが続いて行くようにね」
 生まれた家のことは忘れたつもりのイメルだった。それでも心の奥に染みついて消えない傷。いま、薄れた気がした。
「俺は――」
「いいよ、イメル。無理して言うことはない。君は言葉になんかしなくても、ちゃんと理解してる。わかってるから、いいんだ。無理をして、無茶する弟子を歓迎する師はいないよ、ここにはね」
 ぱちりと片目をつぶって見せたその表情。イメルは悟る。茶目っ気のある顔ではあったけれど、どこか照れたタイラントの顔。要するにいまのはフェリクスの受け売りなのだな、と察する弟子を師は生意気だと笑っていた。
「フェリクス師と、何があったんです?」
 だからつい、尋ねてしまった。くつろいだ気分になっていて。タイラントがこうも微妙な顔をするとは思ってもいなかった。
「エリナードが言ってただろ、痴話喧嘩だよ痴話喧嘩。――俺とシェイティはな、二人で一人みたいなものだから。相手が何を言ってるのか、わかるようでわからないことがよくある」
 自分自身を完全に理解できないように、とタイラントは言った。深遠な話題のような気がするが、単なる惚気のような気もする。
「たとえばな、ここに円錐があるだろ。切り口は縦に切れば三角形だ。横に切ったら円だよな? でも結局、円錐は円錐。だろ? お互いに同じものを見て、ちょっと違うことを言ってたりする。でも根本は同じことをな」
 だからエリナードの介入はありがたかった、タイラントは苦笑する。自分たちだけで話していれば行き詰まってしまうこともあるからと。
「まさに……いえ、なんでもないです」
「言えよ、そこまで言ったら」
「いや、その。子は鎹だなぁと思ったんですが、思った途端になんとも言えない気分になって」
「……同感だ。事実だけど、同感だ」
 うなずくタイラントがすらりと立ち上がる。イメルも感知していた。エリナードがタイラントを呼んでいる。待ちかねていたのだろう素早さで去って行くタイラントは思い出したよう振り返ってイメルに手を振った。




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