彼の人の下



 後味の悪い事件だった。ラクルーサのみならず大陸各地から誘拐されてきた少年少女たち。救出できた者もいれば、できなかった者もいた。いまでもラクルーサ王室は内密に売られた人々を探している。
 救出はされても、故郷に戻ることを望まない者も多くいた。知り人の顔を見たくはない。そう言った人たちに王室は新しい名と生活を与えた。が、戻りたいと言うものには。
「……さすがに、こたえたな」
 星花宮の吟遊詩人の出番だった。吟遊詩人特権のある彼らは、ミルテシアとの折衝を待たず国境を越えることができる。それを利用しての旅だった。
「まだアンドレイの魔法の影響が残ってるからね。さほど酷いことにはならないと思うよ」
 フェリクスの示唆に吟遊詩人であり、腕のいい魔術師でもある彼らは転移魔法を行使する。連れて帰る人々は常人ではあるけれど、魔法の影響が残っているおかげで転移魔法の後遺症は軽減ができる。
 少々の吐き気と時間の短縮、どちらがいいかと選ばせれば全員が早く帰りたい、と泣いた。だからイメルは各地へと跳んでまわる。
 あれから二月。ようやくイメルの担当すべてが終わった。すぐに星花宮に戻ってもいいのだけれど、いまは少し、息抜きがしたい。
「まだ、ちょっとな……」
 エリナードと顔を合わせたくない、と言うのが正直なところ。彼と会えば、否応なしに事件の話題になる。まだ、精神的につらすぎる。
 イメルは事件の被害者ではない。が、彼らと二月もの間近々と接したせいで、ずいぶんと感情の影響を受けていた。その自覚がある彼だ。ここは息抜きをしても怒られない、ではなく息抜きをして心身を整えておくべきだった。なにしろ戻ればすぐにでも何かが起こるに決まっている。
 そしてイメルが訪れたのはリィ・サイファの塔。一人前の魔導師であったとしても一概に塔への出入りが許されるわけではない。イメルは早々と許された一人だった。
「ちょっとエリナードに悪いよな。でも、あいつも一人前になればいいんだ」
 技量にも倫理観にも劣るところなど微塵もない彼だ。まだ弟子の身分でいるのはフェリクスのせいだろう。側近く、手の届くところで弟子を導き続けたいと言う彼の。
 そんなことを思ってイメルは笑う。アイフェイオンの名を許されれば間違いなくエリナードは塔への訪問をも許されることになるのだから。いまはまだフェリクスと共に訪れる彼だった。
「ほんとはそっちの方がよかったりして、あいつも」
 くくく、と喉の奥でイメルは笑う。塔の中は静謐で、いまは誰もいないのだろう、人気のなさが寂しさではなく、穏やかな空気を生んでいるかのよう。
 居間には水盤があった。リィ・サイファその人が使っていたと言う魔法の水盤だ。イメルはそっと水に指先で触れてみる。
「冷たい」
 けれど、それだけ。タイラントは、ただの水らしいと言っていた。フェリクスから聞いたのだと言って笑っていた。それなのにこれは、水盤からあふれても、床に届く前にどこへともなく消えてしまう。一人前の魔術師であるイメルにとっても不思議な魔法具だった。
「ん、……どうしよっかな。やっぱり、やめよっかな」
 この水盤には、魔術師たちの姿が浮かび上がる。魔術師の始祖リィ・ウォーロックであり、リィ・サイファであり。イメルは話に聞いているだけだ。
「なに、やってみたくないの、君?」
 以前タイラントに連れてこられた時、見せてやると言った師をイメルは止めた。本当は、わくわくとしている。だからこそ、止めた。
「ははぁ、なるほどな」
 そんなイメルの表情にタイラントは小さく笑う。どこかくすぐったそうで、フェリクスと共にある時にはあまり見せない、男の顔だとも思う。
「君は、吟遊詩人だな。俺の弟子って言っておくか、うん」
「師匠?」
「だってそうだろ? 今ここで自分の目で見ることより、君は想像の中で遊ぶことを選んだ。どんな人だろう。どんな魔法だろう。そうやって考えることを選んだ。それって、吟遊詩人だろ?」
 タイラントの言葉にイメルは赤くなる。少し、怖かった。魔術師としてならば、一瞬でも早く魔法を見たがるものだと言われた気がした。
「違うからな?」
「え、師匠!?」
「別に心は読んでない。と言うか、俺は一々そこまでするほどまめじゃない。シェイティじゃあるまいし」
「フェリクス師は――」
「うん、エリナード相手にはよくやってるよ。あいつ、大したものだと思うよ。シェイティに読まれても一向に気にしてないからな。大器だよ、大器」
 呆れた、と言わんばかりのタイラントにイメルは力なく笑ったものだった。実際イメルも同感だ。いくら師であろうとも、心を探られるのはあまり気分のいいものではない。だからこそ、精神の接触は相手の同意を求めるものでもある。同意があって、はじめて接触する。いずれ一瞬のことではあるのだけれど。
「その一瞬の手間が惜しいってわけでもないんだよな、シェイティは」
「エリナードも、だと思います」
「だよなぁ? ほんと、あの親子は。なんと言うか……言葉がないよな」
 肩をすくめてタイラントはどこかを見やる。イメルは何も見なかったことにした。タイラントが少しばかり不快そうな顔をしたせい。エリナードを不愉快に思ったのではたぶんない。これは、嫉妬だ。ただの。
「正直に言って、師匠もどうかと思います」
「え!? どこが? 俺はまともだって主張するつもりはないけど、どうかと思うって言われるほど変でもないぞ!」
「どこがですか? エリナード相手に焼きもち妬くって言うか、いまだに熱々で誰が相手でも焼きもち妬くって、すごいと思います」
「それ、褒めてるのか?」
「全然」
 にっこり笑ったイメルをタイラントは戯れに打つ。少しも痛くなくて、タイラントとイメルの遊びのようなもの。こうやって過ごしてきた師弟だな、とイメルは思う。
「っと。話がそれちゃってたな。君が考えたことは違うよって話だったか。君が魔術師として相応しくないことを考えたなんて俺は思ってないよ。吟遊詩人のほうが向いてる、とも思ってない」
 突然に話題が戻るのも魔術師ならではだった。それてそれて明後日の方角へと飛んで行った話題が急旋回して戻ってくるなどよくあることだ。イメルもまた、あっさりと真剣な表情へと戻っていた。
「俺は、それはそれで君らしいな、と思ってた」
「でも……。たとえばエリナードだったら早く見たいって言うと思うんです」
「だろうな。でも君はエリナードじゃないだろ? 君は君で、君の魔道を歩いて行く。エリナードもまたあいつなりの魔道を歩いて行く。だろ?」
 弟子であるエリナードなのにタイラントは彼をまるで一人前の魔術師のよう扱った。それをイメルは驚かない。やはり四魔導師はエリナードをそう言う風に見ていたのだな、と思えば嬉しいばかり。小さく笑って身をよじる。
「それ、前にエリナードに言われました。いつだったかな……。まだけっこう子供のころに」
「ほんっとに、シェイティの息子ってばさ! ませたガキだよな。……と言うか、君が成長なさすぎるのか?」
「それは酷いです、師匠!?」
 いまイメルはリィ・サイファの水盤を前に、あのときの会話を思い出してはそっと笑っていた。結局、術式だけを教えてもらい、いまだイメルは試していない。今日もやはり、やめてしまった。
 フェリクス師弟と共にあるとタイラントは悲鳴ばかりを上げているけれど、イメルと二人でいるとそのようなこともない。それが楽しかったり、物足りなかったり。
「いやいや、俺はフェリクス師じゃないし!」
 タイラントの悲鳴を甘美に聞く、などと言う変わった性癖はない、はずだ。慌てて首を振った拍子に体が揺れたか、水盤の水がわずかにあふれる。それもまた、空に消えた。
 ほっと息をつき、イメルの足は書庫へと。息抜き、と言って思いつくのが書庫というのは魔術師らしい休暇の過ごし方と言える。
 リィ・サイファの塔の書庫をかつてエリナードはこう評した。住みたいと。できることならば五年十年、籠りきりになってただただ本を読んで過ごしたいと。
「わかるなぁ……」
 広大な書庫を前にイメルは笑ってしまう。魔法空間で構築されているこの書庫は、真実、果てが見えない。どこまでも、どこまでも書棚が伸びている。そして上は高い天井まで、びっしりと本が埋まっている。手あたり次第に手にとっても楽しめることは請け合いの本の宝庫だった。
「さて、と」
 イメルの目当ては楽譜だった。魔術師の書庫になぜ楽譜が、と首をかしげる魔術師が星花宮の中にもいると言う。
「しょうがないじゃん、あるんだし」
 イメルはあっさりそれだけで済ませた。最初の楽譜はたぶん、偶々だ。前世代の魔術師であるサリム・メロール。彼と伴侶のアルディアは殊の外音楽を好んだと言う。半エルフだった彼らはその優美な手で楽器を弾いては楽しんだともイメルは聞いている。
 その楽譜が、塔には収められていた。そして現代になってからは、タイラントがいる。呪歌の開発者である彼の、魔法としての楽譜。世界の歌い手としての、純粋な音楽の楽譜。様々な楽譜が塔には増えた。
「これにしよっかな」
 ふふん、と鼻歌まじりに手に取ったのはタイラントの音楽のほう。これでイメルは一流の吟遊詩人でもある。わざわざ楽器で弾かなくとも、頭の中で音楽を鳴らすことが可能だ。楽譜を読むだけで、音楽鑑賞になるとは便利なことだとエリナードは笑うけれど。
「んー、これだったら……」
 自分ならば、この音楽をどう演奏するだろう。少し音を変えてみようか。装飾音を足して、引いて。結局元に戻って。
「やっぱ師匠だなぁ。変えたりしちゃ、だめなんだ。これ」
 そしてタイラントに感嘆していく。今の自分の技術では、変化はつけられない。けれどいつかは。そんな思いも抱く。魔法と同じよう、イメルにとっては吟遊詩人の技もまた、鍛えるべきもの。タイラントに一歩でも近づきたくて。
「エリナードじゃあるまいし」
 思った自分に笑ってしまってイメルはひとしきり呼吸が苦しくなる。本人はそのようなことは断じてしていないと主張するけれど、エリナードがしているのはフェリクスの真似そのものだ。まだまだ遥か遠い師の背中。ならば今はその模倣をすることで一歩でも近くに。
「わかるな……」
 呟くイメルが気分転換に別の本を手に取り。そしてぱらりとめくるうちに顔が厳しくなっていく。次第にイメルの表情が精悍になっていった。




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