彼の人の下

 トリフィックトフィーの拘束は一月にも及んだ。屋敷に滞在、と言いはしても実際は拘束だと誰もがわかっている。団員にとっては苛立たしいことだっただろう。
「でもね、ちょっとだけ思うの」
 言ったのはネリだった。エリナードとイメルは日に一度訪れては様子を見て行く。ずっと詰めているわけではなかったから団員たちは天幕で暮らしていた時のよう、また自炊生活に戻っていた。少年少女たちはすでに別の場所に移されたのかここにはいない。
「アーディが来てから、すっごく楽になったじゃない? 彼の歌のおかげ、彼がお客さんを集めてくれるおかげって思ってたけど……ほんとはね、気がついてた」
「ネリ?」
「エトレさんはほら、魔法の影響?とかあったじゃない? でもあたしたちは、なんとなくやっちゃだめなことをしてるって、気がついてた」
 だからこそ、裕福だった団の懐事情。ネリは見ぬふりをしていただけだと語る。そのほうがずっと楽だったから、と。生活も、なにもかも。
 エトレは話を聞いて何かを考え込む様子だった。この一月でずいぶんとそんな顔をするようになった。ロアンは乞われたわけでもないのに、傍らにいる。が、席を外せばエトレは探しに来るとももうわかっていた。
 十日ほど前から、ようやく外出の許可が出た。さすがに天幕を張っての興行は遠慮してほしいと言われたけれど、多少ならばかまわない、とのことで団員たちは歓声を上げて外に出て行く。大通りで大道芸を見せるつもりらしい。軽業を主体に手品も交えたそれは、エトレも見せてもらったけれど何より楽しかった。
「天幕でやってたのより、楽しいかも」
 ぺろりと舌を出してエトレは笑った。けれどそれではロアンの仕事がなくなっちゃうね、とも。実のところそうでもないロアンだった。
「けっこうあるぞ。大掛かりじゃないだけで、仕掛けは色々あるからな」
 そうなんだ、と驚くエトレにロアンは微笑む。こうして、少しずつ近づいて行く。けれど、それ以上には寄れない。危うさに、ロアンはどうしていいかわからない。見守っていたいだけだったものが、どうしてと戸惑うばかり。
 今日もまた、団員たちは大道芸に出て行った。エトレは残る、と言う。ならばロアンも暇つぶしの相手だとばかり共に屋敷で過ごしていた。
「何をしてるんだ?」
 エトレが紙に向かっていた。身を乗り出して、背をかがめて一生懸命に何かを書きつけている。その様子が子供のようで少し、可愛い。
「え、あ! やだ、ロアン! 見ないでよ!」
 ぱっと赤くなったエトレだった。見てはまずいもの、ではなく見られると恥ずかしいもの、だったらしい。ロアンは笑って視線を外した。
「……別にいいけど。色々ね、あったでしょ。だから、ちょっと書き留めておこうかなって思ったら、お芝居みたいになっちゃった」
「それは……そうだろうな。芝居みたいなことだったからな」
 あまりにも劇的で。事件の性質を考えればそのようなことを言ってはならないのだろうけれど、エトレはそうやって自分の身に起きたことを乗り越えて行こうとしているのだろう。
「お芝居には大団円が必要だよね」
 突然の声に二人して硬直する。見やれば、小柄な青年が一人。その後ろでエリナードが顔を覆って申し訳ない、と苦笑していた。
「あのときはちょっと顔見ただけだったでしょう? 改めて、俺の師匠でカロリナ・フェリクス師です」
「フェリクスでいいよ」
 言いつつ彼は二人が座っていた長椅子の正面に腰を下ろす。ここは星花宮が所有する屋敷だと言っていたから、彼にとっては自分の屋敷のようなものなのだろう。エリナードが仕方ない人だな、と言いたげな顔をして茶菓の支度をしていた。
「エリナードさんの、お師匠様だよね?」
 エトレの不思議そうな声だった。エリナードが父と呼ぶせいだろう。とてもそのような年齢に見えないどころではない、エリナードのほうが年上にも見える。
「そうですよ、うちの親父です」
 座っているフェリクスがちらりと背後のエリナードを振り仰ぐ。口許が笑っている気がした。ロアンは何となく、いい親子だなと思う。
「なんか、お父さんって風に見えなくって。ごめんなさい」
「そりゃそうですよ。師匠も俺も魔術師ですから。――師匠なんていま幾つでしたっけ?」
「どうだったかな。九十歳前後ってところだと思うんだけど。一々数えてないよ、面倒くさい」
「ですよね。ちなみに俺は三十四歳ですけどね」
 笑うエリナードにエトレとロアン、呆然としてから顔を見合わせた。何を言っているのか、理解が遅れたのはロアン。まったく意味がわからなかったのはエトレだった。
「エトレさん、ミルテシア人だな、その反応は?」
 にやりと笑ったエリナードにエトレは思わずうなずいている。少しばかり厳しい眼差しでエリナードを見やったロアンだったけれど、すでに無駄を悟ってもいた。そもそも、守ってくれたのは彼らだった。
「そっちの大きい人は飲み込みがいいね」
 言われてエリナードは紹介もしていなかった、と肩をすくめてエトレとロアンを師に紹介してくれた。が、ロアンは訝しい思いでいた。本当はもう知っている気がしてならない。
「そうだね、ロアンの考えた通りだと思うよ。僕はあなたがたの報告は受けてる。でも顔見たのははじめてだからね」
 天幕では頭に血が上っていてろくに顔も見ていなかった。呟いたフェリクスにエリナードが溜息をつく。
「そろそろ決着がつく、と言うか。決着がついたって発表されるからね。一足先に知らせてあげようと思って来たんだよ」
 そんなエリナードを無視したフェリクスだったけれど、エトレはなぜか羨ましいと思った。無視をしたのに、フェリクスの中にはエリナードがきちんといる、そう感じたせいかもしれない。
「いいん、ですか?」
 警戒するロアンにフェリクスは黙って肩をすくめただけ。エリナードがかまわない、と代わりに答えてくれた。
「エトレのおかげで話がややこしくなったからね。多少は僕の愚痴でもある」
「師匠? どうしたんです。なんかありましたかね」
「あったよ。思いっきりあったよ。――その子、ミケーネ商会の末っ子じゃない。ラクルーサの支店を通してやいのやいの言ってきて、ほんとに面倒だったんだから」
「あ……」
 エトレがぽかんとした。確かに父はトリフィックトフィーと同行していると知っている。だが、店の者まで知っているとは思いもしなかった。
「ごめんなさい……隠していたみたいで。その、お父さん、じゃなくって……父は、何か言ってきていましたか」
「残念ながら、言ってきてないみたいだね。文句を垂れてるのは店の人たち」
「……ですよね。だろうと思ったんです」
 小さく笑ったエトレの肩先、ロアンの手。彼を見上げてエトレは笑う。もしこの事件を父が知ることになったとしても、父は気にかけないだろうとエトレが想像していたとおりだったと。
「うちの子からちょっと聞いたけどね。あなたのお父さんは放任が過ぎるかな。まぁ、その辺は親子の問題だから、自分たちで解決してほしいけど。できれば顔を見せに帰るなり手紙を書くなりしておいてくれると助かる」
「手紙を書きます」
 断言したエトレだった。ロアンはそれでいいのか、と彼の顔を覗き込む。きっぱりとうなずくエトレだった。問題はそのあとだ、とロアンは思う。エトレはこのあと、どうするのだろうと。だがそれを問う前にフェリクスが話を続けた。
「一応、決着のほうだけどね。スクレイド公爵家は取り潰しも同然になるかな。現公爵は家督を傍系に譲って隠居することになった」
「え、でも」
「やったのは庶子のアンドレイだって思った? 違うでしょ、アンドレイをあんな風に育てちゃったのは、親の責任でしょ」
「と言うより、貴族社会の慣例ですけどね。一族の不始末は当主の責任ですから」
「エリィはそう言うけど。これは親の責任だと僕は思う。好き勝手をさせるばっかりが優しさってわけじゃないからね」
 アンドレイもまたそうやって好き放題を許されてきたのだとフェリクスは語った。身に覚えがあるのはエトレだ。ふと呟く。
「僕とアーディ。似てたのかな。僕も、もしかしたらあんな風になってたのかも」
 ほんの少しの道の差で。エトレは顔を曇らせるけれどロアンはそうは思わない。最後のところで踏みとどまれるかどうか。それは親の責任でもなんでもない。本人の資質ではないかと。エトレは決してその道には進まないとなぜかロアンは思う。
「元スクレイド公もアンドレイを星花宮に預けてくれればよかったんですけどね。少なくとも、まともな倫理観だけはきっちり仕込んでくれたはずなんですが」
 ちらりとエリナードはフェリクスを見やった。眼差しにある敬愛に、フェリクスが照れたのだろう。そっぽを向いては茶を飲んだ。
「僕はそうは思わないけどね。だいたい、倫理観を仕込もうと思ったなら息子をあんな風には育てないでしょ」
「そりゃそうだ」
 エトレは彼らの言葉を食い入るように聞いていた。あるいはそれは父から与えられなかったものを、ここから吸収しようとするかのように。
「……エトレさん。ちょっとね、偉そうに聞こえるとは思うんですがね。俺も生みの親とは決別してる。それは言いましたよね? でもね、今ここに師匠がいてくれる。エトレさんも、どこかで自分が目指せる人を見つけたらいいと思いますよ。もう子供じゃないんだから。可愛い可愛いって大事にされなくっても、自分で自分を育てることはできるでしょ?」
「……そうしてみる。ありがとう」
「僕は大きくなったエリィでも可愛いけどね」
「だから師匠!? どうしてここでそういうことを言うんですか!」
「息子が一人前のことほざいてるんだもの。なんか照れくさいじゃない。からかいたくなるのはだから、しょうがないんだよ」
「開き直るな!」
 胸を張ったフェリクスにエリナードが食ってかかる。羨ましいとエトレは思う。父とこんな風に過ごしたことが覚えている限り一度もない。食ってかかったことはある。けれど父はそんなとき、笑ったり困ったりしながら金をくれるだけだった。けれど、羨むばかりでいたくない。得られないものではないとも思った。いつか自分も。そんな風にいまは思う。
 魔術師たちは慌ただしく帰っていった。近くトリフィックトフィーはまた興行を許され、旅立つことができると言いおいて。こっそりとエリナードは言った。
「俺とイメルからの餞別って形で、多少は資金の融通をしますから。その辺も心配しないでください」
 ちらりとフェリクスを見て言ったから、きっとそれはフェリクスの差配なのだろうとロアンは思う。ありがたくうなずいたけれど、実はそれどころではなかったロアンだった。
「そっかー。ロアンが新しい団長か。うん、いいと思うよ。ロアンだったらみんな安心だしねー」
 けらけらとネリが笑っていた。暫定的に星花宮との交渉相手としての団長をロアンに指名する、とフェリクスは最後に言っていった。それだけでも荷が重いと思っていたのに、なぜか。
「待て、ネリ!?」
「裏方だからって気にしてるの? ロアンらしくもない」
「そうだそうだ。あんたがいなかったら俺の芸は完成しない。あんたに団は任せるよ」
「ロアンはずっとみんなのことを心配していたからね。相応しいよ」
 団員総出で恒久的な団長に推す、と表明されてしまった。自分は所詮は裏方で、表に出るべき人間ではない。うろたえるロアンにエトレは微笑む。
「裏方は大事って言ったの、ロアンだったよ。だから、所詮って言うの、やめた方がいいと思うんだ」
 偉そうだったね、とエトレは舌を出す。ロアンだけではなかった。団員たちがみなして驚く。ほんの一月。だがしかし、成長することのなかったエトレが見る見ると伸びた一月。
「……それでもまだ、不安だ」
 結局は押し切られてロアンは承けた。自分に務まらなかったら、誰かが文句を言ってくれるだろう。そのときには任せよう。そんな淡い期待を抱いて。
「大丈夫。ロアンだったら大丈夫」
 あれからずっとエトレと同じ部屋で寝起きしていた。目が覚めると時折エトレが自分を見ていたりする。そんな光景にも少し、慣れた。
「そう、かな」
「うん。きっと。――ねぇ、ロアン。ちょっと話があるんだ。いいかな」
「なん、だ?」
 エトレがようやく覚えた茶を淹れてくれた。覚束ない手つきだったのが、いまはもうだいぶ良くなっている。茶を手渡したエトレは、黙ってロアンの横に座った。
「あのね、僕は色々あったでしょ。だからね、これから、ちゃんと色々、考えたい」
「そうだな。あんたは、たいしたもんだよ」
「そう? だからね、これからもトリフィックトフィーと一緒にいたいんだ。いいかな、団長さん?」
 少しばかりはしゃいだ風を装ったエトレの言葉。ロアンは驚きとともに受け止める。エトレとすごせる日々が少し、伸びた。ただ、それだけを。
「それからね、もう一つ。――ロアン、大好きだ」
「はい?」
「それって酷くない? 僕が突然過ぎたのかな?」
「突然にもほどがある。なんの話だ、急に」
 弾んでしまった胸を悟られたくなくてロアンは茶を飲む。エトレがほんの少し目を細めて彼を見ているのに気づかずに。
「ずっとね、ロアン。僕を見守っててくれた。本当に、僕を気にしてくれてたのは、やっぱりロアンだけだったんだと思う」
 生家の父も、追いかけてきたアーディも。団員だとていままではお客さん扱いだった。当然だ、エトレ自身、馴染もうとはしてこなかったのだから。
「だからってわけじゃない。いつからかな。大事にしてくれるロアンだから、僕もロアンを大事にしたいって思うんだ、いまは」
 そっとうつむいたエトレにロアンは言葉がない。誤解はしたくなかったけれど、しかしいまのは。
「でも、まだどうしたらいいのか、よくわからないんだ」
 アーディにしていたような贈り物攻めにはしたくない。裕福なミルテシア人として、寝室の遊戯にさほど抵抗はなかったけれどロアンとはそういう遊びの付き合いはしたくない。理解してくれたのかどうか、ロアンは黙ってうなずく。
「少しずつ、一緒に色々、覚えて行っても、いいかな?」
 ほんのりとしたエトレの眼差し。間違えようもないその色。ロアンはうなずくことしかできなかった。それでエトレもまた、幸せそうに笑った。



 数年後、エリナードは嬉しい知らせを聞くことになる。大陸各地を興行するトリフィックトフィー曲馬団は最近、芝居仕立ての曲芸が受けている、と言う。座付の脚本家をエトレと言う。団長との仲は初々しく、連れ合いと呼ぶようになるのも遠いことではないだろうと、そんな噂話だった。




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