エルサリスは確かに女性にしか見えなかった。長く美しい髪をした男はいる。優しい顔立ちの男もいる。だが声を聞いてすらエルサリスは女性だ。立ち居振る舞いも女のそれ。少し困った微笑みさえ柔らかだった。 「私は娘として育てられましたから。いまでも男として生きるのが少し、苦手なのです」 エリナードは内心でわずかな驚きを感じた。それを彼が口にできるようになっている。そう古い知り合いと言うわけではないけれど、ほんの少し前までのエルサリスは何事にも怯えがちであったものを。 「そうだったんだ……。ごめんなさい」 「いいえ、お気になさらず。――エリナード、厨房の火が気になります。見てきますね」 「おう、頼む。お前も疲れただろ。こっちは気にしないでいいぜ。勝手にやってる」 はい、と微笑んでエルサリスは席を立った。軽く目礼する姿のその優しさ。エトレは思わず見惚れそうになり、慌てて首を振る。 「エリナードさん」 「ん?」 「あとで、エルサリスさんに謝っておいてください。やっぱり、申し訳なくって」 「あんまり気にされるとかえって気になるもんだ。いいって言ってたでしょうが。それでおしまいにしましょう」 言われてエトレは戸惑う。それでいいはずはないとも思った。何やら事情がありそうなことは、理解できる。知らずロアンを見上げれば、彼は彼で肩をすくめていた。 「あの……。ここだけの話にするから。その……」 「エルサリスのことが気になる?」 こくんとうなずくエトレにイメルが不快を覚えたのをエリナードは感じる。仕方ないやつだな、と精神に軽く触れてたしなめた。 「ま、ここだけの話なら。ただし、あいつの生家がどこでどう言う育ちをしたのかってことなら、俺は話しませんよ」 「それはそうだよね。わかってる。――僕は、どうして女の子として育てられたのかなって。それが聞いてみたくって。何か、信仰上の理由とかかなって。でもそれだったら、あんなに困らないよね」 意外だな、とイメルが目を見開いていた。信仰上の理由を持ち出してくるとは思ってもいなかった。それほどエトレは幼く心許ない。 ただロアンは納得していた。二人の魔術師は知らないことながら、エトレの生家はミルテシア有数の豪商だ。教育に欠けるものがあったとは思えない。それをエトレが覚えていた、と言うほうがロアンにとっては驚きだったが。 「まぁ……親とのいざこざ、ですね。平たく言えば」 「え……」 「色々あって、それで娘として育てられた。あいつはそう言う意味で、親の愛ってものを知らない」 あなたはどうなんだ、エリナードに問われた気がした。エトレは、ずっと愛されていると思っていた。こんなに愛されている子供はいないと思っていた。いまは、わからない。 「子供ってのは、頼りないもんですからね。親に庇ってもらって愛されて、やっとのことで育って行く。それをあいつは知らないんですよ」 「そっか……僕は……どうなんだろう……よく、わからなくて」 困惑するエトレを止めようかロアンは迷う。が、真剣に戸惑っているエトレだった。いま彼は考えるということをはじめたのかもしれない。ここに来てようやく。それでも歩きはじめるに遅いと言うことはきっとない。 「エリナードさんは大事にされたって感じだよね。お師匠様がお父さんってどんな感じなのかな。僕のお父さんは、商人なんだけど、僕……習ったことないんだ」 教えてほしかったのかもしれない、商売の色々を。父の手で、一つずつ仕込んでほしかったような気がしなくもない。そんなエトレにエリナードは苦笑する。 「エトレさんに悪気がないのはわかってますけどね。――魔術師に向かって親のことを聞いちゃいけません」 「え、あ。ごめんなさい」 「ほとんどの魔術師は、生みの親から捨てられてるもんなんですよ。ラクルーサは魔術の華開く国って言っても、そういうもんです。まぁ、俺はあんまり気にしないほうなんでいいですけどね」 「俺は、気になる。生みの親のことって言うか、生まれた家のことは、思い出したくない」 ぽつりとしたイメルの言葉。何も言わずにエリナードがその背をぽん、と叩いていた。それに顔を上げては照れ笑いをするイメル。とんでもないことを尋ねてしまったのだとエトレは青くなる。 「いまのでわかったと思いますけどね、師匠とは血は繋がってませんよ。それでも、やっぱり親父ですけど」 屈託なく笑うエリナードがいた。ロアンは少し、眩しくなる。客観的に見て、エトレの問いは不躾で惨いものだったとロアンでも思う。それを笑っていなして、たしなめて。それでいて、そこから先へと進ませてくれるエリナード。魔術師だからなのか、彼の資質なのか。すごいものだとロアンは思う。 「俺が生まれたのはミルテシアの北のほうの村だと思うんですけどね。ちょっとわからない」 首をかしげて、二度と戻っていないからだとエリナードは言う。イメルはそんな彼を心配そうに見やっていた。 「魔力が発現したのが切っ掛けだったんだと思うんですよ。人にわからないことを言い出すようになりましてね」 「んと。どんな?」 「天気の急変を告げたりしたらしいですね。いま完璧に晴れてるのに、雨が降るって言ったら降ったり」 それは、怖いかもしれない。ミルテシア人であるエトレは思ってしまった。彼にとって魔法は身近なものでは断じてない。魔法という恐ろしいものがある、と知っている。その程度だ。アーディが舞台で使う魔法は綺麗だと思ったものだったけれど。 「それで……地下貯蔵庫ってわかります?」 うなずくエトレに反してロアンはすでに青ざめていた。話がわかってしまったらしい。ロアンの想像通り、エリナードは幼くしてそこに閉じ込められたと話してくれた。想像を絶したのは数年にも及んだと言うこと。 「よく……生きて」 思わず呟いてしまう。それにエリナードが和やかな目をした。その意味がロアンにはわからない。気づいたのだろうイメルは肩をすくめていた。 「魔力のある子供ってのは頑丈なもんなんです、一定の線まではね。それで俺も生き延びたんですが。魔力があってよかったですよ」 「そんな酷い目に合って? お父さんにもお母さんにも、酷いこと言われて、されて?」 ただ生きられたからよかったと微笑むエリナードがエトレにはわからなかった。その勘違いにエリナードは笑う。 「違いますよ。魔力があったから、俺は師匠に会えた。師匠の弟子になれた。この世に産んでくれたのは、生みの親なんでしょうがね、俺は師匠の息子だと思ってますよ。少なくとも、俺を俺たらしめている魂を形作ってくれたのは、師匠です。もしかしたら、ずっと昔、どっかの時代で俺と師匠は親子だったのかもしれない、なんてね」 照れて笑いつつそっとエリナードは胸に手を当てていた。そこにフェリクスがいるとでも言うように。あるいはそこには彼とすごした幼い日の思い出が眠っているのかもしれない。 「まぁ、エリナードのは極端だけど。魔術師はこう言うものかな。生みの親との縁は切れても、師匠と弟子ってのは親子みたいなものだし」 「そのわりにイメルはタイラント師と親子って言われると二人揃って微妙な顔するんですけどね」 「いやいや、親子みたいなもの、であって親子、ではないだろ!? お前とフェリクス師がちょっとおかしいんだって!」 「それ、師匠に報告しておくな、イメル?」 「やめろよ!? どうしてそういうところばっかりフェリクス師に似るんだよ!」 「そりゃ親子だし」 からからと笑うエリナードと必死になって嘆願するイメル。淀んでいた空気がぱっと晴れやかになった、そんな気がしてエトレは驚く。 「血こそ繋がってませんけどね、うちの親父様はそりゃ厳しいですよ。俺に何かがあったら困るから、徹底して魔法を仕込む。学問を仕込む、剣の腕も、頭の使い方も」 「傍で見てるとフェリクス師はちょっとだけ……口うるさい母親みたいって思うことがあったりなかったりしますけどね。それもこれもエリナードが可愛くて仕方ないからなんだと思うな」 「だな。俺に万が一のことがないように、ちゃんと生きて行かれるように、自分の手で満足いくまで仕込む。態度こそうるっさい母親みたいなときもありますけどね、やっぱり親父のすることかな、そう言うのは」 だねぇ、とイメルが笑っていた。エトレは戸惑ってロアンを見上げる。父親と息子の在り方が、エトレにはわからない。 「俺の親父も、そうだったかな」 「そっか……。僕のお父さんは、僕をどうしたかったのかな……」 「ただね、エトレさん」 不意に真剣になったエリナードの声。思わず背筋を伸ばしてしまうような声をしていて、イメルが緊張するなと笑ってくれた。 「ロアンさんの親父さんがどんな人だったのか、俺は知らないです。うちの師匠はあんな男で、ああいう親父です。でもね、それが正解じゃないんですよ」 「そう……なの?」 「たぶん、正解ってものはないんですよ。だって、俺とエトレさんは違うでしょ? 俺は魔術師で、エトレさんは商人の子って言うだけじゃなくて、性格だって違う。考え方も違う。物の見方、感じ方。色々違うでしょ」 子供それぞれが違うのならば親の接し方も違って当たり前だとエリナードは言った。正解と呼べるものはない、とはそう言う意味だと。 「俺は生みの親に放置された、いや、なお悪いかな。存在そのものを否定された。でも、そんなの関係ないって言えるくらい師匠に可愛がられてます。イメルも、エルサリスもね」 じっとエリナードはエトレを見ていた。イメルは察するものがあったのだろう。少しだけ厳しい目をしている。ロアンこそが、不安だった。まるですべてを見抜いているかのような魔術師の目。 「僕は……どうなんだろ。お父さんに閉じ込められたり、酷いこと言われたりは、してなかった。すっごく可愛がられてた……んだと思ってた」 でも、本当はどうだったのだろうか。アーディを追いかけて曲馬団と同行する、そう告げたとき父は笑って金を持たせてくれた。 「ねぇ、エリナードさんのお師匠様だったらそんなとき、どうすると思う?」 「問答無用でぶん殴られますね。なに考えてるんだって」 即答された。きっとフェリクスはエリナードを案じるから、そうするのだろう。ならば父は、どうだったのだろう。わからないエトレはロアンを見上げる。ロアンはその揺れる眼差しを受け止めかねていた。 |