彼の人の下

 星花宮が持っている屋敷、と言うのは立派なものだった。まるで貴族の館だ。あながち間違いでもないらしい。時にはここで夜会を開くこともある、とエリナードは笑った。
 魅了の魔法に囚われていた少年少女だけでも十数人。そして曲馬団の全員。犯罪にはかかわりがない、ある意味では被害者でもある彼らが逗留することになったのがこの屋敷だった。
「ネリさん、悪いけど手伝ってもらえるか」
 まずは温かいものでも食べたいだろう、エリナードは言う。もうとっくに夕食の時間を過ぎている。なにしろ曲馬団員に事情を説明するだけでも一苦労だった。とはいえ、台所事情があまりにも潤っていたせいか、ほとんどの団員が最初の驚愕を乗り越えたあとはすんなりと納得したものだったが。
「いいですよ、台所でちゃんとお料理するのなんて久しぶり!」
 綱渡りの少女は嬉しそうにエリナードの後ろについて行く。イメルは数人ずつ部屋へと案内していた。何人かで一部屋とはいえ、こんなお屋敷の部屋に寝泊まりできるのかと驚く彼らにイメルは自分の家だと思ってくつろぐといいよ、と微笑む。
「できないと思う……」
 曲馬団で生まれ育ったロアンとしてはできれば厩か何かに案内してほしいくらいだ。そちらのほうが腰の据わりがずっといい。が、エトレは違うだろう。案の定示された部屋にほっと息をついていた。
「ね、ロアン。エリナードさんの手伝い、僕もしてみたい」
「わかった。行こうか。――いや、その前に。いいのか、俺と一緒で」
「なんで? ロアンは嫌なの?」
 嫌ではないと首を振って笑ってみせつつ、ロアンは身の置き所を探す羽目になる。イメルはわざとだろうか。二人を同じ部屋にした、それも二人部屋に。
 とにかく今は意味を考えず、エトレの好きなようにさせようかと思う。そうしていないと頭がおかしくなりそうだった。
 ロアン一人だったらおそらくは迷っただろう屋敷内も、エトレが一緒では迷わない。彼は富豪の息子なのだと改めて思う。最後の、厨房への曲がり角だけは、エトレが迷う。こちらはロアンがすぐにわかった。そんなところも生まれの違いを感じる。けれどロアンは微笑ましいな、とだけ思うことにした。
「へぇ」
 思わず感嘆の声を上げてしまう。広い厨房では曲馬団の何人かがすでに立ち働いている。中でもネリはエリナードについて忙しく手を動かしていた。
「ネリ、いつの間に?」
 エトレが驚いていた。天幕で共に遊んでいたはずのネリが、こんなにもエリナードと親しいとは思ってもいなかった。
「いろいろお話聞かせてもらって、あたしもとっても楽しかったの! 曲馬団暮らしだから町の人よりずっと色んな事知ってるわって思ってたけど、エリナードさん、もっとずっと色んな事知ってるんだもん。楽しいよ?」
「そうなんだ?」
「でもずっとエリナードさん、あたしのことネリさんって呼ぶの。変だからよしてって言ってるのに」
 くつくつと笑いつつネリは手を止めない。曲馬団では食事の支度も団員の大事な仕事だ。金があるものは町では料理屋に食べに行ってしまったりもするけれど、基本的にはみなで煮炊きをする。それをわいわいと囲んでいた景色がふと懐かしくなってロアンは訝しい。
「あぁ……そうか」
「そうそう。最近じゃあんまりなかったからね。楽しいよね、みんなでごはん」
 団長が代わってからというもの、団員全員で食事をすることが減っていたのだとロアンは気づく。いままで気がつきたくなかったのかもしれない。
「ネリさん、これ切っといてくれるか」
「いいよー。そのネリさんっての、やめてほしいんだけどなぁ」
 エリナードが野菜の盛られた籠を手渡し、困ったよう天井を見上げる。何をそんなに困ることがあるのだろうとロアンは不思議だ。エトレも同じ思いだったのだろう。ネリに手伝えるかな、などと呟きつつもエリナードを見ていた。
「そいつね、実はものすごい人見知りなんだよ。だから、ネリちゃん相手でも緊張してるんだ。悪いね」
 からからと、笑いながら入って来たのはイメル。唖然とするような理由だった。真実だとわかったのは、エリナードが赤くなって怒ったせい。
「言うなよ、イメル! この年で人見知りは立派な恥だ!」
「大丈夫大丈夫。俺だってまだ直ってないし」
「だよな。お前だって人見知りだもんな」
 そうそう、とうなずきながらイメルは手を洗い、さっさと包丁を取る。エリナードが何をしているか、見なくとも彼にはわかっていたのだろう。いい関係だな、とロアンは思い、ついエトレを見てしまえば彼は彼で微笑んでいた。
「エリナードさん、人見知りなんだ? うちにもそう言う人、けっこういるんだよ。芸事すると直るってね、信じてる人も結構いたりして」
「わかるなぁ。俺も師匠に吟遊詩人の技を仕込まれてからはだいぶましになった」
「詩人の腕のほうはお粗末だけどな」
「師匠と比べるな!」
 わいわい言いながら次々と仕事が片付いて行く。見事なものだった。エトレはネリにやらせてもらった芋の皮むき一つ、うまくできないでいる。
「すぐにできるようになるもんじゃないぞ。ネリだって最初は芋より皮が多いくらいだった。食うとこなかったからな、あれは」
 暴露をするな、とネリが笑う。エトレがほっとする。そんなものをずっと見ていられればいいな、ロアンは思う。叶わないだろうけれど。アーディの呪縛から解かれたエトレはきっとミルテシアに戻るだろうから。
「エリナード……?」
 まるで涼やかな水のような優しい声だった。戸口から現れたのは赤味がかった銅色の髪を解き流したままの美しい人。二十歳すぎだろうか。魔術師の館にいるような女性にはとても思えず、ロアンは驚く。どうやら曲馬団の芸人たちはみな同じ思いだったらしい。ぽかんと口を開けて眺めているものもいる始末だ。
「おぉ、エルサリスか。こっちにいたとは思わなかったぜ。手が空いてるんだったら手伝えよ」
「えぇ、そう思って」
 にこりと微笑んでエルサリスは厨房に入ってくる。波が割れるよう道ができるのが面白い。解いたままだった髪を手早く結び、慣れた様子で包丁を取った。
「お芋のスープですか、エリナード?」
「おうよ。手っ取り早くあったまって腹にたまるからな」
「でしたら、せっかくですからこれも」
 微笑んでエルサリスは人参を刻んでいく。色合いが美しくなるし味もよくなるから、と。イメルがそのとおり、エリナードは大雑把だと大袈裟に嘆く。
「エリナードさん、その人とは平気なんだ?」
 人見知り、と言っていたわりにエルサリス相手にはぞんざいだった、彼は。比べてみれば確かにネリには緊張していると言うのがエトレにもわかる。
「こいつ、うちの若いのですからね」
「うちの若いの?」
「星花宮で訓練してる子供って意味ですよ。こいつは訓練の開始が遅かったから、ガキどもに混じるのは気疲れするしね。たまにここで息抜きしてるんですよ」
「あなたも、魔術師に?」
 エトレの驚きの表情。エルサリスは困ったようエリナードを見上げる。それに彼は微笑んで好きに言えよ、とばかり。
「私は魔法を志すつもりはないのです。訓練が終わったら、市井に戻る予定でいますから」
「魔力がある子供は、危ないんでね。自分の力がちゃんと制御できるように訓練をする。それも星花宮の役割の一つなんですよ」
「俺たちもそうやって星花宮に来たからな」
 イメルが話題を締め、ロアンはエトレに芋の続きに戻るよう促した。その話題を続けてほしくはなさそうだった、三人ともが。イメルが心遣いに気づいたと見えて何気なく片目をつぶった。
「エルサリス、悪い。そっちの籠取ってくれ」
「はい、どうぞ。――エリナード、いつも言っていると思うのですが、私のことはどうぞサリス、と」
 困り顔ながらどことなく微笑んでいるようなエルサリスにロアンは吹き出す。ネリまでも。いままでその話題をしていたのだから当然かもしれない。エルサリスにまで彼は言われているのかと。
「愛称で呼ぶってのが性に合わねぇんだよ。俺はお前にエリィって呼ばせてやる気は更々ねぇぞ?」
「そう呼んでいいのは大好きな大好きなフェリクス師だけー」
「イメル、頭から水ぶっかけられてぇか?」
「厨房でやめろよ!?」
「だからいいんじゃねぇか。床掃除がはかどるだろうが」
「お二人とも、その辺で。お鍋がいい具合になってきていますよ」
 くすりと笑いエルサリスが鍋を示す。それに自然と二人が従うのがおかしかった。エトレが見惚れるよう、そんな景色を眺めている。
「いいな、楽しそう。兄弟が一緒に遊んでたりするのってこういうのなのかな」
「……かもな。俺は一人っ子だから、わからん」
「でもあたしたちは団員全員が家族みたいなものだしね。親戚一同勢揃いって感じ。でしょ?」
 にこりと微笑むネリにエトレが羨ましそうだった。生家での暮らしと曲馬団での暮らし、比べてみているのかもしれない。何不自由なくとも、生家での暮らしは楽しくはなかったか。
 食事は豪勢なものではなかった。それでも全員にたっぷりと行きわたるだけの量はあったし、なによりイメルとエルサリスのおかげか、大変な美味だった。ほんのひと手間、が違うのだとネリは感心している。
 温かい食事とはこんなにも力を与えるものなのか。屋敷についたばかりにはまだまだ不安そうだった少年少女たちが安らいだ表情を浮かべている。
「部屋に持って行ってゆっくり楽しむといいよー。眠くなったら寝ちゃってもいいしね」
 イメルが一人ずつに温かい茶と焼きたての菓子を渡す。それにも顔をほころばせる彼ら。まだまだ幼さの残る彼らがどんな目に合いそうだったのか。想像するだけで吐き気がしそうなロアンだ。
「……ちょっと、一息。かな?」
 居間の長椅子に残っているのはもうイメルとエリナード、それにエルサリス。そしてエトレとロアンだけ。ネリは大騒ぎをした反動か、眠くなったと笑ってふかふかの寝台を楽しみに部屋に戻った。
「大変なことがあったみたいですね。お尋ねはしませんが」
「そうしてくれ。お前に聞かせられるような話じゃねぇよ」
「エルサリスさん綺麗だし。なんか話せないって、わかるかも。こんな清楚な女の人に聞かせていい話じゃないもんね」
 エトレが言った途端だった、エルサリスがひくりとする。エリナードはぬかったとばかり天井を仰ぐ。
「いやこいつ、野郎だから」
 なにをどう言っても手遅れだと諦めたエリナードだった。先に言っておかなかった自分が悪い。エルサリスに目顔で詫びれば力ない笑み。反対に驚愕が過ぎたか声もなく目を丸くする二人だった。




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