彼の人の下

 うなずきはしたものの、ロアンはやはり不安そうだった。当然だろうとエリナードは思う。そしてエトレも。当然、と言うよりは嬉しいと思う。ロアンが、自分のことを真剣に案じてくれる。こんな風に案じられた覚えがなくて、だからこそ嬉しいのかとも思う。
「喩えでいい。俺にわかるように説明してもらえるか」
 エリナードを真っ直ぐに見て言うロアンに、エトレは知らず唇を尖らす。気づいたエリナードにそっと微笑まれてはばつが悪くなった。
「そうですね……たとえば、か。ん、魅了の呪文って言うのは、要するに呪文がかかった相手を思い通りにする魔法なわけですよ。ある程度、ですけどね。喩えで言うなら、俺がロアンさんにかけるとしますよ?」
 言ってエリナードはどこからともなく細い縄を取りだした。目を瞬くエトレにエリナードはうなずいて見せる、心配はないと。そして一方を持ったままくるりとロアンの手首に縄を巻きつけた。
「ほら、これでロアンさんの手は俺の思い通りだ。あっちこっち引っ張れるでしょ」
「そう言う魔法か?」
「そうそう。普通なら、ですけどね。アンドレイのは、こうやってただ巻き付けりゃいいものを、ぐるぐるめちゃくちゃになってるわけで」
 言葉どおり、めったやたらに巻きつけてエリナードは顔を顰める。これを怪我もさせずに解くのは難儀だ。だが難儀なだけで問題はないと。心配させてしまったことを悔いているのだろう。そして手を離したとき、ぱっと縄は消えていた。
「エトレさんのは何重にもかけられてるせいですね、あっちの子たちよりぐるぐる巻きなんで、とりあえずあっちを解いて、それから時間かけて……かけて? 師匠!」
「なに、エリィ」
「アンドレイの魔力、枯らしていいですか」
「うん、それが一番手っ取り早いよね。いつ気がつくかと思ってたよ」
 だったらさっさと言いやがれクソジジイ。ぼそりと呟いたエリナードの声にエトレが呆然とした目をした。知り合って時間が経っているわけではないけれど、こんな暴言を吐く男だとは思っていなかったらしい。
「あぁ、すいませんね。つい地が出ちまった」
 苦笑するエリナードの頭をぽかりとイメルが叩く。仕方ないやつでしょ、と笑って。初対面の時にイメルはエリナードの恋人だと言っていた気がするけれど、違うのだろうといまのロアンは悟っている。エトレもそんな気がするのか、小さく笑って二人を見ていた。
「んじゃ、イメル。やれよ」
「って俺かよ!? なんで! お前がやればいいだろ!」
「俺は弟子の身分だっつーの」
「お前みたいな弟子がどこにいるんだよ! 術式だって知ってるだろ!?」
「知ってるけどな、一応はスクレイド公の庶子だし。弟子が知ってるはずのない呪文で魔力を摘んだりしたら師匠の仕事が増えるだけだろ」
 そのとおり、とフェリクスが向こうで笑っていた。少しロアンは恐ろしくなる。笑うフェリクスは片足でアーディを踏みつけていたのだから。ちなみに団長はタイラントに襟首を掴まれている。
「だったら、フェリクス師!」
「師匠はいまでも怒り狂ってるぞ? 廃人にしてからうっかり手が滑ったって言ってのけられたらどうしてくれる」
「僕をなんだと思ってるわけ、エリィ? 否定できないけど」
 だろう、と胸を張る弟子にフェリクスが苦笑する。エトレは少し師弟の在り方が羨ましかった。話の成り行きとして、エリナードが父と呼んでいたのはこのフェリクスなのだろう。自分と父の関係を思えば羨望しか感じなかった。
「なら、師匠!」
「やってもいいけど。俺だって怒ってるからね?」
「タイラント師は師匠のためにアンドレイを廃人にしかねないからなぁ。たまには手違いだって起こるとか、言いそうで……」
「あ、それいいな。その言い訳は効果がありそう。だったらその線で行くか?」
「……いいです! わかりました俺がやります、わかりましたから!」
 エトレがイメルの悲鳴に小さくではあったが吹き出した。非常に物騒な話題を嬉々として話している魔術師たち。そこには確かな信頼があるのだろう。彼らは断じて倫理に反することはしない。それが四人の間の共通理解となっている。それが明るさを生む。ロアンにはそう見えていた。
 渋々と進み出たイメルがアンドレイをフェリクスの足元から解放する。文句も言わず抵抗もせず静かだとロアンたちは今になって気づいては不思議そうだったけれど、イメルにもエリナードにもわかっている。すでに彼はフェリクスの支配下だ。いまのアンドレイはせいぜい身じろぐ程度しかできなかった。その頭をイメルは掴む。
「我、星花宮の魔導師。イメル・アイフェイオンが告ぐ。アンドレイ・スクレイドなる者の魔力を枯渇せしめん。この者魔力持つこと能わじ」
 宣告に聞こえた。魔力のない二人には、ただそれだけに。けれど魔術師たちには視覚情報としてはっきりと見えていた。アンドレイが仰け反る。その瞬間、彼の中にあった魔力のすべてが枯らされたことを。以後二度と芽も出ないほど完膚なきまでに。ほう、とイメルが息を吐いた。
「まあまあかな。手際は悪くなかったね。はじめてにしては合格だ」
「こんなこと何度もやりたくないです」
「って言ってもね、だめなことは多々あるからな」
 肩をすくめるタイラント。どうにもならない魔力の持ち主はどこにでもいる。そのとおりだった。
 そしてアンドレイの魔力が枯れた瞬間、別のことも起こっていた。今のいままでアーディに向かって甘い声を上げていた少年少女たちが一斉に膝をつく。次々と正気を取り戻し、彼らのほとんどが泣き出しはじめていた。
「大丈夫、大丈夫。ちゃんと家に帰れるようにしてあげるから。心配しないで」
 イメルが微笑んで彼らに向かって歌い出す。こんなときに何を、とロアンはエトレを支えつつ苛立つ。が、それは呪歌だった。魔法の乗った歌が彼らの嘆きを静めて行く。一人、二人と涙が止まる。
「エトレさん、どうです?」
 呪歌の流れる中、エリナードがこちらに向かってきていた。少年少女が正気になったのと時を同じゅうしてエトレもまたがくりと体の力を失った。咄嗟にロアンが彼を抱きかかえ、その顔を覗き込む。
「大丈夫、だと思う」
 エリナードにではなくロアンに彼は答えた。それにほっとしつつロアンは今になって気恥ずかしくなってきた。不安におびえるエトレを支えるためにこそこうして傍らにいた自分。いまは、どうしていいものか。戸惑うロアンなど気づきもせずエトレはロアンの腕の中に守られたままだった。
「なんだか、ずっと胸の中をぎゅって押されてたみたいな感じだったんだ。でも、今は綺麗になった感じ。変なのがなくなって……」
「アーディのことはどう思います?」
「最初はやっぱり素敵で大好きだったと思うよ。でも、なんだろう……どっかで変だって思う前に、きっと僕は何かされてたんだね。それが、いまはなんとなくだけど、わかる感じなんだ」
「なんでわかると思います?」
 それはアーディの魔法から解放されたからだろう。ロアンは訝しげにエリナードを見やった。ちらりと彼は笑い、エトレの答えを聞けとばかり顎をしゃくる。
「ずっとロアンが本当に僕を心配してくれたからだと思う」
 きっぱりと言ったエトレにロアンは泡を食う。何を言っているのかと、今更ながらおろおろとしたロアンをエトレは満足そうに見上げていた。
「エリィ。僕は星花宮に戻って事後処理に入るから」
「だったらこっちはイメルと二人で預かります。新市街の屋敷、使っていいですか」
「いいよ、頼むね」
 なにがなんだかわからないうちに魔術師たちが話を決めて行く。目を瞬いたとき、フェリクスもタイラントも、そしてアーディとサムもそこにはいなかった。
「転移魔法って言うんだ。一瞬で目的地に到着するから、魔術師はよく使うんだ。楽だし」
 イメルが笑いながら歩み寄ってきた。十数人の少年少女も一緒だ。まだ不安そうな顔をしてはいたけれど、はじめの恐怖は去ったらしい。
「話を聞いててわかったと思いますけど、アーディことアンドレイ・スクレイドとサム団長は人身売買をやってたわけで。一応は曲馬団の身柄も預からせていただきます」
「……当然だな。どこに出頭すればいい」
「いいです、いいです。もう調べはついてるんだろうから」
「はい?」
「師匠、なんにも言ってなかったでしょ? だったら調べて他は白ってわかってるんだと思いますよ」
 エリナードが苦笑していた。彼にもいつそうしたのか見当もつかない、そう言うことなのだろう。ロアンの脳裏に四魔導師の逸話が巡る。さもありなん、と納得した。
「とは言っても。団長は犯罪者だし、資産は大方持ってかれるかな」
「売られた人たちを何としても見つけて買い戻さなきゃならないだろうからな」
 ロアンは不安を覚えた自分が恥ずかしい。アーディとサムによってこの世の汚濁を味わわされている人たちを救わねばならないというのに、明日の暮らしが不安になるとは。
「ロアンさん」
「なんだ」
「いい人にならないことです。いい人は、早死にしますからね。救う手立てやなんかはあなたがたが心配しなくていいんです。こう言うときのために国ってものがあるんです」
 星花宮をはじめとする関係機関が決着を付けるから心配しないでいい。言うエリナードを偉そうだとイメルが笑う。エトレがほっと息をついて、ロアンはやはり恥ずかしくなった。
「だから、まず星花宮で持ってる屋敷があるんで、そっちに落ち着きましょう。そこで今後のことを決めると思ってるくらいでいいです。この子たちのことも、なんとかしないといけないしね。俺とイメルとじゃ賄いするんでも大変だから、手を貸してくださいよ」
 エリナードの言葉にロアンは息をつく思いでいながら、気づけば笑っていた。手を貸せと言ってくれることがこんなにもありがたいとは。拘束する、そう言ってもよかったはずなのに。
「エリナードの料理は食えなくはないけど別にうまくはない、くらいだからなぁ。曲馬団の人たちって食事も自分たちでしょ? だったら手伝ってくれるとすごく嬉しいな」
「お前が料理に凝り過ぎなんだっつの。食えりゃいいだろうが食えりゃ」
「ほらね? こう言うやつだから上達しない」
 両手を広げて嘆かわしげなイメル。ふとエトレは尋ねてみたくなる。
「僕にも、手伝えるかな」
 もちろん。魔術師たちは笑ってうなずいてくれた。驚くロアンをよそにして。




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