再びゆっくりと進み出る。フェリクスの前に立てば否応なしにアーディを背後に庇う羽目になった。そればかりは不満だが、エリナードはあえてそうする。アーディがタイラントを前に震えているのが目の端に留まった。 「なに馬鹿なこと言ってるんです? それでもタイラント師は師匠の連れ合いですか。ほんとに師匠のことが大事だったら、そんなこと言えないでしょ」 正気か。エリナードは言い放つ。内心ではひやひやとしていた。いくら傲岸不遜なフェリクスの一番弟子と自他ともに認めるエリナードであったとしても、四魔導師相手に啖呵を切るのだ、それこそ正気ではいられなくなりそうな思いでもいる。そんなエリナードをタイラントは色違いの目でただ黙ってじっと見ているだけだった。 「いまは怒り狂ってる師匠ですけどね、殺しゃ後悔するに決まってる。そう言う人でしょうが。それがわからないタイラント師じゃないでしょう?」 「それは認めるよ。事実だろうね。でもな、エリナード」 フェリクスは伴侶と弟子に挟まれて瞑目していた。何を思うのか、さすがのエリナードにもわからない。それが不安でたまらなかった。 「いまシェイティが我慢する。こらえきれない思いをこらえる。――スクレイド公の捕縛のとき、俺もその場にいたけどね。ノキアス王は、ラクルーサを荒れさせないためにって、公の処刑を思い留まったんだ。シェイティが王の親友だったのは、君には言うまでもないことだよな?」 フェリクスは苦汁を飲んで耐えた王の心すら裏切られ、またも同じ事件を繰り返させることになった。それをどれほど悔い、かつ嘆いていることか。タイラントは淡々と言う。 すぐ側で、ロアンとエトレもそれを聞いていた。何十年も前の話だと言っていたはずの事件。それなのに青年に見える彼が。 「魔術師ってのは、そう言うものらしいな」 「そう……なんだ? 僕は、本当に色んなことを知らない」 ぽつりとエトレが呟いた。励ますよう、イメルがこちらを見やってくれたけれど、彼自身まだ青い顔をしているのだから励まされた気がまるでしないロアンだ。 「ここでアンドレイ・スクレイドを見逃せば、また同じことの繰り返しだ。敏い君にそれがわからないと? まさか」 「見逃せとは言ってませんよ。殺すな、殺させるなって言ってるだけです」 「同じことだ。生かして戻せば、こういう輩は同じことをする」 これが世界の歌い手の言葉か。エリナード以上にイメルが愕然としていた。いつもの師は、醜いものもあるこの世界は、けれど同じほどに美しい、そう言うのに。 ――師匠に引っ張られてるだけだ。お前まで引っ張られてどうするよ! 接触と同時に軽く精神に衝撃を覚えた。エリナードを見つめ、イメルは身震いをする。少年少女たち、ロアンたちは自分が守る。うなずけばエリナードの目が笑った。 「だったら同じことをさせない対策を打てばいい」 「建設的な提案だよ、エリナード。でもこの人の気持ちは? あの子たちが、他にもたくさん。どんな目にあわされてるか。君には想像がついているはずだ。この人が、どんな風に感じてるかも。息子の君にわからないはずはないだろう」 「わかってますよ」 「だったら、エリナード――」 「それでも俺は師匠を止めますよ。それがとりあえずここまで育った息子の役目ってものでしょうが。体張ってでも止めますよ、師匠」 にこりとエリナードが笑う。いまだ目を閉じたままだったフェリクスが不意にエリナードを見つめた。それにも笑顔を返す。何も変わらない、いつもの光景がここにあるとばかりに。 「だから、俺が体張ったあとはタイラント師の役目ですからね。息子が止めるんだから、なだめ役は連れ合いがやってくださいよ」 わざとらしく片目をつぶって見せた。イメルが感嘆しているのをエリナードは接触してもいないのに感じていた。よくぞここまで度胸が定まっているものだと思っているらしい。誤解だった。いまも少し気を抜くだけで膝頭ががくがくとしそうだ。 たぶんきっとそのせいだ。タイラントは気づいていたはず。フェリクスは言うにや及ぶ。他の誰も気づかないうちに走り込んできた男。 「坊ちゃま、逃げてください!」 トリフィックトフィーの団長だった。血相を変え、慣れない剣を片手に躍り込む。いまのフェリクスは断じてよけないだろう。自分が傷を負えば、大事になるとわかっている人だ。かつて似たようなことがあった。事件を大きくするために、意図的に傷を負ったフェリクスの姿がエリナードの脳裏をよぎる。 「師匠!」 瞬時に現した水の剣。先ほど放り出したはずのエリナードの魔剣だった。一撃でフェリクスを庇い、返す刀で団長を切り伏せる。 「サム! 馬鹿野郎、なんてことを……!」 はじめてアーディが取り乱した。ロアンはこれでも彼に人の心があったのだと一瞬は安堵する、エトレのために。だがしかし。 「お前が来たりしなかったら適当に言い逃れができたんだぞ! 馬鹿!」 エトレが息を吸っていた。吐きだしたとき、それは涙をも伴う。自分が心を寄せた相手がこんな人間だったとは、思いたくもないだろう。その間にエリナードは切り伏せた男の眼前、剣を突き付けていた。 「サム団長? 事の次第をお話し願いましょうかね。アンドレイ・スクレイドだって? 庶子だろうが貴族の坊ちゃんだろうが。人身売買の伝手はあっても現場なんざぁ知らないだろ。立ち合ってたのは、あんただと踏んでるんだがな」 一撃で肩から胸まで切り下げられていた。無論、浅手で死に至るようなものではない。けれどサムもアンドレイも青い顔をしていた。何気なく進み出てきたタイラントにアンドレイはその腕を掴まれる。はっと見やったときにはすぐそこで微笑む世界の歌い手。 「……まともな騎士にも魔術師にも出会ってこなかったってわけだね、その顔は」 ゆるゆると吐き出されたフェリクスの言葉。エリナードは視線を外さずフェリクスの気配だけを窺う。少しは落ち着いたらしい。その背景で少年少女たちがまだ黄色い声を上げていた。 「息子にここまで啖呵を切られたんじゃ、かっかしてるほうが馬鹿みたいじゃない。わかったよ、エリィ。殺さないし、殺すより酷い目ってのも考え直す。だから怒らないで」 「怒ってはいません。心配はしてます」 「……わかったって言ってるじゃない。もう」 視線だけをフェリクスに向ければ、文句を言いつつ強張っていたフェリクスの口許が少しだけほころぶ。逆にタイラントは嫌な顔をしたが。 「そこで妬くのはやめてくださいね、タイラント師」 「そんなことしてないだろ!?」 してましたよ、言いつつエリナードは安堵する。これでもう万事問題はない。タイラントがいつもどおりならば、フェリクスは元に戻っている。イメルもまた息をついて胸をなでおろしていた。 「あなたはアンドレイの何? 小さなころから面倒見てたお側役? ――答えないなら、怪我が増えると思うんだけど」 言いつつフェリクスは思わせぶりにエリナードを見やる。心得たものでよく光る刃をサムの目の前で振って見せる彼だった。怯えたよう、タイラントに拘束されたアンドレイを見やり、しかし軽く剣に耳を撫でられるなり喚きまじりに話し出す。 「ほんと、あの師弟を敵にまわすと相手のほうが哀れになってくるよな」 ぼそりとしたイメルの言葉。エトレがそっと笑っていた。まだなにもわかっていないだろう。それでも危険はある程度は去ったから大丈夫、励ましてくれるイメルの心は受け取ったらしい。 「なるほどね、把握した。だったらそうだね、王に進言してからのことだけど。僕の私見としては――スクレイド公爵家そのものをもう潰した方がいいと思う。当時の情勢ではあれが最善だったけど、隠したからこうなったんだ」 「今度も隠せば、第二第三の人身売買が起こり得る、と?」 「だいたいこれがもう二度目なわけだしね。あのね、エリィ。こんな大規模犯罪、こんな若造が一朝一夕にできるはずないでしょ。だったら祖父の時代の伝手がまだ残ってたってことだ」 甘かった、フェリクスが顔を顰める。エリナードは祈る、フェリクスのために。どうぞその伝手とやらを使いはじめたのは最近でありますように、と。数十年にわたってずっと少年少女が売られ続けていたわけではないことを、彼のために祈る。 「闇エルフの子が……勝手をほざくな! 僕の父は――」 「スクレイド公爵だってのはわかってるって言ってるじゃない。闇エルフの子だからなに? 僕はこれでもれっきとしたラクルーサ国王の臣下なんだけど?」 「陛下の前でそれを言ってみたらいいんじゃないですかね、アンドレイ・スクレイド。綺麗さっぱり首がおさらばしますよ」 「陛下は――」 「星花宮は陛下の剣にして楯。星花宮を侮辱するものは陛下の剣に刃向かい楯に唾吐くも同じこと」 エリナードに言い放たれ、アンドレイではなくサムが怯む。それにフェリクスは確信した。タイラントも。現場に立っていたのはサムだとしても、主犯は間違いなくアンドレイだと。二人、内心で溜息をつきあう。数十年が無駄に踏みにじられた気分だった。 「えーと、師匠がた。そろそろいいでしょうか。これ、魅了の呪文がかかってるんで、解呪を」 「あぁ、そうだった。師匠、アンドレイは魔術師のなりそこないです」 「そう、なの? 見た感じ、魔力はほとんどないし、技術のほうは?」 ようやくフェリクスの眼差しが少年少女に向いた。精神を操られているのはフェリクスのこと、見ればわかったが、それをしたのがアンドレイだとは思ってもみなかったらしい。それほど微弱な魔力だった。 「正直、どんな師に導かれたのか知りたいです。俺は教えを乞いたい」 「ふうん?」 にやにやとするフェリクスだった。もう、いつもどおりの彼。そう見えて、やはり思うところは色々とあるのだとエリナードにはわかる。それを指摘するほど子供でもなかったけれど。 「ほんっと、めちゃくちゃですから! こんな阿呆なやり方をどうやったら教えられるのか、とことん俺は聞きたいです」 「文句垂れてないでエリナード、解呪やるぞ。手伝えよ、お前も」 からりと笑ったフェリクスと、案じるタイラント。彼らに犯罪者二人のほうは任せ、やりかけの仕事にとエリナードは戻る。とはいえ、顔を顰めた。 「めちゃくちゃすぎて危ないんだよな……これ」 「エリナードさん、どう言う意味だ」 「あ、いや……」 あまりにも難儀な仕事でついロアンが聞いているのを失念していた。エトレはロアンに寄り添ったまま不安そう。時折まだアーディに目が向く。そんな自分を激しく嫌悪しながら。 「気が抜けないなって意味ですよ、大丈夫。任せてください。絶対に無事に終わらせてみせるから」 「保証は」 切りつけるロアンの声。エトレは嬉しそうにそんな彼を見上げた。おや、とエリナードは内心で首をかしげる。 「腕のほうは僕らが保証するよ、心配ない。子供たち、仕事をはじめたら?」 話に聞く四魔導師の保証とあってはロアンも納得せざるを得なかった。渋々うなずくロアンにエリナードは微笑む。 |