彼の人の下

 魔術の師が弟子を放逐する際には必ず行うことがある。魔力の覆滅。弟子であった者が二度と再び魔法を手にすることがないようそれだけは揺るがせにしない。倫理観を持ちあわせている師ならば。だがいまだアーディの手には魔法がある。それも、様式に沿っていない、自己流にもほどがある魅了の魔法。なにがどうなっているのか、たぶん本人にもわかっていないのではないだろうか。それに思い至ったエリナードがぞっとする。これでは、少年少女もエトレも解呪ができない。再び舌打ちをするエリナードがイメルを見やった。
「エリナード!」
 自失から立ち直ったアーディの前イメルが立ちはだかる。その間に早く解呪を、そのつもりだろう。けれど。
「とりあえずぶん殴っとけ。こっち手伝えよ。師匠が感づく前に片付けるぜ」
「どう言うこと!?」
「あの人に気づかれると大惨事確定の予感だ」
 売られるはずの少年少女。このほかにも大勢売られてしまったものがいたに違いない。それを知ればフェリクスがどれほど。思うエリナードが青くなった。
「――舐めるな、エリナード。僕をなんだと思ってるの」
 不意に現れたその姿。小柄な青年の姿をした、おそらくは魔術師。そして、闇エルフの子。イメルが咄嗟に片膝をつく。
「フェリクス師」
 ゆったりと歩を進めるフェリクスの後ろ姿にエリナードは顔を顰めていた。師が自分の名を正しく呼ぶのはよほどのことだと、彼の弟子はよくよく知り抜いていた。
「とはいえ……よくやった、子供たち。僕の腕はそれなりに長いけどね、まさか堂々と王都で商売してるとは思わなかったよ。ご苦労様、イメル。……エリィ」
 激情を抑えようと言うのだろう、平然を装ってフェリクスが微笑んで普段と同じく名を呼ぶ。エリナードはまだ顔を顰めたままだった。何気なく少年少女の前に移動する。イメルもまた、フェリクスのあおりを食らったかのよう、アーディの前を去り、エリナードの元へと小走りにやってきた。そんな二人をちらりとも見ずにフェリクスはアーディを見据え。
「ずいぶんと舐めた真似をしてくれたものだね、アンドレイ・スクレイド」
 闇エルフの子に目を奪われ舌なめずりをしていたアーディだった。己が師をそのような目で見られて不快極まりないエリナードだったが、アーディのぎょっとした顔に強く首を振る。そのような場合ではなかった。
「なんだ、お前は――! どうして僕の……!」
「知らないとでも思ったの。あぁ、あなたは知らないのか。もう五十年近く前になるかな。あなたの祖父に当たる当時のスクレイド公爵が大規模な人身売買で国王に捕縛されたのは」
 す、とエリナードの顔から表情が消える。それをロアンは見ていた。彼は事件を知っていたのだとそれで気づく。エトレは怯えながらも闇エルフの子を見ていた。
「あの事件を解決したのは、僕ら星花宮だ」
 知らずまじまじとロアンは闇エルフの子を見ていた。ついでエリナードを。どことなく苦笑した彼が片目をつぶる。
「俺の師匠で、カロリナ・フェリクス師です。星花宮の四魔導師、知ってます? その一人」
 各地を旅してまわる曲馬団だ。噂話は並みの吟遊詩人よりよく知っている。数々の逸話にあふれる星花宮。正式にはラクルーサの宮廷魔導師団。中でも屈指の四魔導師の一人にして、氷帝の異名を取る魔術師、フェリクス。
「闇エルフの子……だったのか……」
「いいとこですよ、星花宮。種族関係なしですからね」
「あ、いや。すまん」
 にこりと笑ってエリナードはロアンの軽い失言を聞き流してくれた。その笑みが緊張を孕んでいないなどロアンは思えない。だからこそ、笑って見せてくれているのだと。
「いまのスクレイド公は、あなたの父親だったね。庶子アンドレイ。知らないと本気で思ってたなら、本当に甘く見られたものだよ。あれだけの大罪を犯した一族から僕ら星花宮が目を離すなんて思われてたとはね」
「フェリクス師……」
「そう、イメルから通報があったね。若い子の行方不明が増えてるって。僕らだって気にかけてた。まさかと思ってスクレイド一族を当たってもいた。これが大当たりで、しかも僕らの足元でこんな真似をされてるなんてね。信じられないよね。エリィ?」
 口許だけで笑うフェリクス。目が澄みすぎるほど澄んでいてエリナードは顔を顰めるのみ。怒りに震えもせず怒り狂うフェリクスなど見たくもない。
 ――エリナード、うちの師匠呼んだ方がよくないか。
 ――やめろ、二人揃って大暴れされたら災害だろうが。
 イメルの接触にエリナードは淡々と答える。一瞬でも精神が揺らげばいまのフェリクスには「盗み聞き」されかねない。イメルも想像できたのだろう、無表情のまま接触を打ち切った。
「エリナードさん」
 ぼそりとしたエトレの声。怖いのだろうとようやく思い至る。こんな場面に出くわすなど、常人の彼にはとても思えなかったことだろうとも。
「師匠が片つけるまで、待っててください。たぶんすぐだから。そうしたら綺麗にしてあげられますから。心配しないで」
「片って、どんな?」
「そうだね、自分の体で払ってもらおうかな。それが一番だと思わない、エリィ?」
 聞こえていたか、とエリナードはむつりと唇を引き締める。精神力ならば随一を誇るフェリクスだ。そう簡単に暴走などしないだろうけれど、暴走寸前の怒りをこらえていることは見なくともわかる。
「闇エルフの子が何を! 闇エルフの子ならそれらしく、足広げて泣きわめけ!」
 アーディ改めアンドレイ・スクレイドの暴言だった。エリナードは咄嗟に魔法を放てなかったことを悔いる。エトレがなんということを、呟く声も聞こえない。
「師匠!」
 暴言を切っ掛けとして、と言うよりはそれを好機としてフェリクスは己の愛剣を出現させる。一瞬でアンドレイまで間合いを詰めた。あちらもそれが狙いだったのだろう、舞台に隠してあった短剣を抜き放ちフェリクスに切りかかる。
「何やってんですか、師匠!」
 遊んでいた、フェリクスは。アンドレイごとき、彼の剣の腕ならば息をする間もなく切り伏せられるはず。それなのに何合となく剣を合わせる。
「ぶちのめす。止めるな、エリィ。こいつだけは我慢ならない。あのとき僕にスクレイド公爵は誓ったんだ。今後二度と再び同じことを繰り返しはしないと。それを誓いとしてスクレイド公爵家は存続を許された。誓いを受け入れた先代国王に対する、これは侮辱だ。大逆罪と言っていい。そう思うでしょう、エリィ?」
「詭弁って言葉、知ってるんですか!」
「知ってるよ?」
 だからなんだとばかりフェリクスが微笑む。非常に不本意ながらエリナードはアンドレイを庇うよう師と剣をかわす羽目になった。
「エリナード、ありがとう。やっぱりあなたは僕を」
「ざけんじゃねぇぞ! てめぇに呼ばれるだけで虫唾が走るわ! 師匠にもらった大事な名前。てめぇみたいな屑が口にしていいはずねぇだろうが! 俺は師匠に人殺しをさせたくねぇだけだわ!」
「可愛いね、エリィ。でも大丈夫。殺しはしないから。殺しはね」
「殺すより惨いことってのもなしです。それを約束してくれるなら引きますよ」
「それはちょっと約束できないな」
 ロアンとエトレ、二人して師弟のやり取りを見ていた。ロアンとしてはフェリクスに同調したい。アーディなど、死ねばいいのに。殺したい、罰だと言うのならばそれでいいではないかと。
「エリナードはね、フェリクス師の心を知ってるから。本当は師は殺したくなんかないんだ。どんな罪人であっても。いまはちょっと頭に血が上ってるだけ。だから、後悔しないで済むよう、エリナードが頑張って止めてるんだ」
「死んだ方がいい罪人は、いるだろう」
「でも、殺したら二度と人は生き返らないって思ってた方がいいからね。命を左右するのは、どんな賢者であっても決断の難しい問題だと俺は思うよ」
 イメルにたしなめられたのだとロアンは思う。それでも、受け入れたくなかった。エトレがこんなにも苦しめられた。あちらにいる少年少女たちも。見えない結界とやらに両手を打ち付け、アーディを救おうと熱狂している彼ら。他にもきっとたくさん。
「ここで殺すのは簡単だよ。それでもエリナードが止めるのは、フェリクス師のためってのが一番だけどね。アーディを殺すことで、あなたがたの中に恨みが淀むのが嫌なんだと思う。殺して済む話じゃないでしょ。償えない罪だから。生きて償えとは軽々しくは言わないけど、死んでおしまいってのもどうかと思う」
 穏やかな口調でイメルは惨いことを口にしていた。ロアンは淡々と語られたことの重みにこそ戦慄する。エトレは黙って首を振っていた。まだなにもわからないと。
「殺すの殺さないのってな。できもしないくせに!」
 はっとした、イメルは。エリナードが真っ青になっている。彼の背後から、その背で庇ったはずのアーディが。
「てめぇ!」
 己の短剣をフェリクスに投げつけていた。常の彼ならばよける手間すらかけず魔法で叩き落としたことだろう。だがいまは。笑って体で受けた。
「イメル、結界張れ! だめだ、間に合わねぇか!?」
 フェリクスの前から飛び退いたエリナードだった。そのまま少年少女の元へ。手にした剣すら放り投げ、一呼吸すらもおかず彼らを守護する結界を厚くする。そのときにはイメルもまたエトレとロアンを守る結界を発動させていた。すぐさま天幕の魔法的封鎖にかかろうとするも。
「うん、残念。間に合わなかったね。エリナード」
 また、人影が増えた。光の中に出てきたのは長い銀髪をなびかせた美しい男性。エトレが息を飲む。左右色違いの目をしていた。
「なに……!」
 だが驚いたのはエトレだけではなかった。アンドレイ・スクレイドも。彼に似せた、と誇る脱色した自分の髪にちらりと目を走らせては引き攣った笑いを漏らす。
「タイラント・カルミナムンディ師。俺の師匠で、フェリクス師の――」
「そう。連れ合い。さすがにね、俺のシェイティが怪我させられたら、ちょっと黙ってられないからね。俺の弟子を騙るくらいだったら好きにすればいいけど。これは、許せない」
 にこにことした普段の優しい顔が嘘のよう。イメルですらも紙のような顔色になっていた。それでかえってエリナードは覚悟が定まったようなもの。
「シェイティが殺したいって言ってるんでしょ? 殺すより酷い目にあわすって言ってるんでしょ? だったらそれでいいだろ、エリナード。とどめなら俺が刺してもいい」
 だからそのときにはエリナードはきっとタイラントがそう言うだろうとすでに予測ができていた。




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