丹念に、丹念に魔法をかけていた。そのアーディの口許は欲望に歪んでいる。 「女子供が大好きなトフィーだ。今度もたっぷり役に立てよ?」 にんまりと笑って更に魔法を強化した。思い通りになるように。逆らえないように。どんな要望にも従うように。アーディがいる、人の近づかない大きな箱馬車の中、彼の背後には十数人にも及ぶ少年少女の虚ろな顔があった。 「やあ、エリナードさん! 楽しみにしていたよ。よく来てくれました」 にこやかなアーディだった。イメルとの勝負の当日。興行が終わったあと、アーディが選んだ観客の前で演奏をする、と言う話だった。ロアンは怯えるエトレの頼みに一も二もなくうなずき、彼と共にいる。だからその大仰さに驚くことになった。なんと興行に使っている大天幕を使う、とアーディは言う。 「こっちの方が、楽しいでしょ?」 イメルに告げる口調は意地が悪い。敵うわけはないのだから尻尾を巻いて逃げろと言わんばかり。イメルは侮られているのを気にも留めずただ肩をすくめるばかり。 「じゃあはじめましょうか!」 意気揚々とアーディが天幕へと。ついて行ったエリナードの表情にロアンは息を飲む。驚くほど厳しい顔をしていた。そのロアンの眼差しに気づいたのだろう、目の惑いのよう、ほんのりと彼は微笑んでうなずく。 「エトレさん、元気がないですね」 もう少しの辛抱だから。エトレにはわからなくともロアンにはきっと通じる。エリナードの言葉にロアンが渋々とうなずいた。 「そうなんですよ、エリナードさん。優しい人だなぁ。エトレ、最近はちょっと沈みがちで。こんなときは美味しいお菓子だよね」 にっこり笑ってアーディは舞台に立つ前、用意してあったトフィーを手に取った。トリフィックトフィーが観客に配っている例の菓子だ。エリナードはちらりとイメルを見やり、イメルは何気なくうなずく。何かがあったな、ロアンは感づいたものの、エトレの怯えが酷くなっていた。ぎゅっと縋りついてくる腕の重み。アーディはエトレの変化を意に介しもしない。 「はい、みんなも食べて!」 そしてアーディは菓子を配った。彼が用意したと言う観客たちに。まだ年若い少年少女たち。いずれも見目麗しく、熱狂的にアーディを見ていた。 「あの中に……」 ぽつん、とエトレが呟いた。ほんの少し前までの自分はあのようだったと。その中に入れない自分を嘆くのか、それとも抜けた己を思うのか。ロアンにただ縋り、体の震えを止めようとする努力が儚い。 「はい、エトレ。あなたも食べてほしいな」 にこにことしたアーディが手ずからエトレに菓子を渡す。ロアンなど目に入ってもいないらしい。それをロアン自身は喜んでいた。が、怯えたエトレの眼差しが自分を向いたときだけ、不快そうにアーディがこちらを見たのを感じる。気づかないふりをして体でエトレを庇った。客席では黄色い声を上げてアーディを呼ぶ少年少女。不意に背筋に恐怖を感じた。 「あ……うん、ありがとう、アーディ!」 ぱっと華やいだエトレの顔。それなのに目だけはいまにも泣きそうな。自分の意志ではないことを口にしてでもいるかのようなエトレ。ロアンは黙って彼の側にいることしかできなかった。 「……いいの、側にいて。それだけで、ほんとに大丈夫。ありがと、ロアン」 アーディが背を向けるなり震えはじめたエトレだった。与えられた菓子を、涙の浮かんだ目のまま食べている。 「無理して食べなくてもいいんだぞ」 「わかってる。それでも、食べたくないのに……食べさせられてる感じ。怖いよ、ロアン。怖いんだよ」 「もう少しの辛抱だ。もうちょっとだから」 なにがだ。自分で問いたい。けれどエトレは無言でうなずいた。慰めでもいい、そう言ってくれたことが救いになると言うように。 「さ、エリナードさんも食べて。おいしいよ!」 「これ、お客に配ってる菓子でしたね。一度食べたけど」 「おいしかったでしょ? ほら、いっぱいあるから。一つと言わず、もっともっと食べてほしいな。これ、僕も手伝ってるんだ、作るの」 一つ、エリナードの唇に菓子が触れる。そのままゆっくりと食んだ。もう一つ。更に一つ。アーディは内心で歓喜に震えている。もう少しだ、もう少しで。 「イメル?」 違和感を覚えた。魔法がかかったならば最初に呼ぶ名は自分のもののはず。だがエリナードは。すっかり放置されたイメルは呆れたよう肩をすくめていた。 「所感は」 「真っ黒」 なんの話だ、とアーディは首をかしげていた。己の勝利を微塵も疑っていない。ちらりと客席を見やれば熱に浮かされた少年少女の目。少し離れたところでロアンに庇われているエトレもまた、熱い目をしていた。怯えているのに潤んだ眼差し。アーディはぞくぞくとする。 「エリナードさん? どうしたのかな」 「いや。別に」 「そう? ほら、気分がよくなってきたでしょう。もっとお菓子が欲しくないかな。とっても気持ちのいいこと、僕としたくなってるでしょ。アーディって呼んでよ。そうしたら、いいことたくさんしてあげるから」 伸ばされた指がエリナードの頬に触れる直前。彼は唇だけで笑った。かかったのだとアーディは思い込む。 「あの子たちは?」 けれどエリナードはそんなことを言う。少女たち、少年たち。嫉妬かな、思ってアーディはにこりと笑う。 「気にしないでいいんだ、エリナードさん。あの子たちは特別なお客様に差し上げるんだよ。もちろん対価はいただくけどね。あなたは花街にゆかりがあるんだって? だったら僕と組もうか。そうしたら、気持ちいいことも楽しいことも、いっぱいさせてあげられる」 そして飽きたら売り飛ばしてあげる。笑顔でアーディは呟き、エリナードをじっと見つめる。聞こえたのだろうエトレが震えていた。ロアンが怒りに顔を赤くし、けれどエトレを案じるのだろう。飛び出しては来ない。好都合だった。 顔を青ざめさせたのは、イメル。アーディは見てもいなかったが、エリナードにはよく見えた。あの日の勘に根拠が生まれる。 「もしかして、最近、行方不明事件が増えてるのって……」 「へぇ、どんくさい吟遊詩人のわりに耳が早いね。そうさ、僕らだよ。馬鹿だよね、こいつら。ちょっといい顔して見せれば平気でついてくる。可愛い子だけ、売るんだよ。いい稼ぎになるんだ、これが」 「あんたには、人の心ってものがないのか! なんてことを……!」 イメルの眼差しが痛ましそうに少年少女に向けられた。エトレにも。そっと身を震わせるロアンにより強く伝わってくるエトレの震え。 「アーディ……。僕も……?」 「当たり前じゃないか。あなたは金づるになったからね、待ってたけど。でもそろそろ飽きたし。ちょうど買い手もつきそうだしね。潮時ってものだよ」 魔法がかかっていると確信しているアーディだった。こんな話を聞かされてなお穏やかなエリナードの目。間違いなくかかっている。イメルとロアンは後で始末すれば済むこと。力仕事は団長にやらせればいいだけだとアーディは何ら案じていなかった。 「ね、エリナード」 両手で頬を包んだその瞬間、アーディは驚かされた。思い切り逆手で払われた自分の手。まさかと思った。拒まれるなど、千に一つも想像していなかった。 「親父にもらった大事な名前だ、気安く呼ぶんじゃねぇ」 花のような唇から漏れた罵声。アーディはそれどころではなかった。少しばかり驚いたのはロアンのほう。客たちが意志も失くした目のままきゃあきゃあと騒ぐ。 「いい思いをさせてやるだ? ふざけるな!」 「僕と一緒にくれば――」 「この俺の血も肉も魂すらも、全部師匠からもらったもんだ。てめぇにくれてやるほど安くねぇんだよ」 イメルが向こうで呆れている。菓子にかけられていた魅了の魔法を精神力ひとつで無効化してみせたエリナードに。口の悪さはいまにはじまったことでもなかった。鼻で笑うエリナードが一歩跳び退る。 「イメル、結界張れ。さっさと片付けるぜ」 示唆された内容にぞっとしたイメルが首を振っていた。確かに、と納得したのだろう。ぽかんとするアーディの前、さっと客席が遮断される、目には見えない結界で。 「な! お前は!」 「驚くようなこと? 世界に魔術師は自分一人だとでも?」 珍しく怒りをあらわにしたイメルだった。エリナードはまずは客席の少年少女たちの魔法を解除にかかる。万が一にもアーディに操られてこちらに飛びかかられでもしたら怪我をさせない自信がない。 「エリナードさん、なにが起こってるんだ!?」 正気の人間がもう一人いた、とエリナードは苦笑する。いささか頭に血が上っているらしいと呼吸を深くしてはロアンを見つめた。 「アーディ、魔術師のなりそこないだってのは、わかってますね? あいつが魅了の魔法をかけてるんですよ、この子たちも、エトレさんも」 魅了の魔法というのが何かはロアンにはわからなかった。が、察するものはある。ぞっとして青くなるロアンをエトレが見上げた。 「ロアン……。僕なら、大丈夫」 「大丈夫なはずないだろうが! エリナードさん、エトレさんは!」 「心配させたくないんですがね、この子たちよりちょっと面倒なことになってるみたいだから、少し待っててください。ちゃんと解呪はできるから。そうしたら、自分の意にそぐわないことをいやいやさせられてる感覚も、綺麗さっぱり消えるから」 エリナードは気づいていたのか、とエトレは目を丸くする。泣き笑いのよう、うなずいた。安堵と、不安と。ない交ぜになったそれをロアンにわかってほしくて、またも腕に縋りつく。きつく肩を抱き直してくれたロアンの腕。ほっと息をついた。 エリナードは二人を確かめ、イメルが牽制している間に、と仕事をしはじめる。が、舌打ちをした。 「なんだこれ、下手くそすぎてどうなってんのかわかんねぇよ」 魔法には様式がある。一定の方法が確立されていて、多少の癖はあってもそこは誰を師としても大差はないはず。それなのにアーディの魅了の魔法はとんでもなかった。よくぞこれでかかったものだと。師の名を問うまでもない、放逐されたに間違いなかった。 |