エトレの怯えが酷くなっていた。自分で自分がわからない、呟くことが何度もあった。けれどロアンはどうしてやることもできず、ただ気晴らしの手伝いをするばかり。 「……怖いんだよ、ロアン」 エトレのことは気にかかっていても、興行中だ。舞台装置は日々修繕が必要で、ロアンの手も中々空かない。ふと思いついて大工道具を渡してみたら、案外と楽しそうにいじっていた。 それでロアンには思いついたことがあった。木端を削って遊ばせるのもいいだろうけれど、目が離せない。何しろ刃物など食事のナイフくらいしか使ったことのなかったエトレだ、危なくてかなわない。そこで母から習ってかろうじて作れる小さな袋を縫い上げる。中には重たい豆をたっぷりと詰めた。 「こんなもので遊んでみるか?」 怖いと言ったエトレの声を聞こえなかったふりをした。繰り返し呟く自分が嫌だ、そう言ったこともあったエトレだったから。それにほっとした顔をする。安堵の表情が、一瞬でまた曇ってしまうのがロアンにはたまらない。何もかもアーディのせいだ、そう思いたい。エトレの不安の原因などわからないというのに。こんなに怯えているそもそもの原因はやはり、アーディなのだけれど。いまもエトレはアーディの顔を見るだけで飛んでいく。そして楽しそうに言葉を交わし、彼が去った途端に愕然と座り込みそうになる。毎日がその繰り返しだ。 「なに、これ?」 ロアンの手から袋を取り上げ、エトレは手の中で弄ぶ。ちょうどいい重さなのだろう。右に左にと動かしているだけでも少し、楽しそうだ。 「ネリ!」 装置の修繕中だったロアンだ、いまは天幕の中にいた。そして練習中のネリもまた。なに、と首をかしげて彼女は小走りに寄ってくる。 「こんなもん、作ったんだ。どうだ?」 目でエトレの手の中を示せばネリがうふふ、と笑った。それに訝しい顔をして、ついにはエトレが不機嫌そうに。意味がわからずロアンは慌てる。なにか理解したのだろうネリが仕方ないな、と言わんばかりの目でこちらを見ていた。 「使いかた、教えてあげる! それね、こんな風にするの。いい、見てて?」 言ってネリは自分の道具を放り投げた。綱渡りの演技中、綱の中央で彼女はナイフや玉、造花の花束。そんなものを幾つ幾つも投げ上げては受け止める。見たことがあるエトレは自分にもできるなどとても思えなかったのだろう。 「あたしもね、最初はそんなお手玉で練習したの。できなくっても楽しいよ、エトレさん。やってみてやってみて!」 「え、と。どうするの……?」 「まずね、右のを投げて、そうそう上手! それで落ちてくるまでに左手のを右手に。ほら! できてるできてる!」 ネリは教え方がうまいな、とロアンは小さく笑う。目でネリに頼むと言いおけば任せろ、と笑い返してきた。夢中になって遊んでいるエトレは気づかず楽しそう。少しでも気晴らしにはなったらしい。 ほっとしてロアンは別の仕事に取りかかる。外に大道具がまだ残っていた。組み立て式のそれは、天幕の中では仕事のしようがない。外して外に持ってきておいたものがまだ手付かずだった。 「しょうがねぇ……」 できれば今のエトレから目を離したくはないけれど、手抜きをして芸人に怪我をさせるなど断じてならない。そればかりは裏方の誇りにかけてできない。黙々と仕事に励むロアンの耳にしばらくして楽しげに聞こえる笑い声。思わず顔を顰めた。 「あの野郎」 ぼそりと小声で罵る。エトレがあんな様子だというのに、アーディはまるで気に留めていなかった。エトレは完全に手中にしたのだからとでも言い放つよう。そのとおりだ、とロアンとしては苦々しい。あれほど怯えていても、アーディのところに飛んで行くエトレなのだから。 「やあ、エリナードさん、ようこそ!」 明日は勝負の日。今日もまたエリナードは律儀に曲馬団を訪れている。腕輪のことなどなかったかのよう、エトレに彼は何も言わなかった。放置されているのかと思いきや、眼差しだけはいつも優しい。不思議な男だとロアンは思う。 エリナードはロアンに軽く目礼だけをして天幕の中へと。またアーディの歌を聞かされているのだろう。何度聞かされてもエリナードはイメルのほうがよい、と言っている。ロアンはその場に居合わせることもあったし、あとから聞くこともある。 「エトレさん、移動してるといいんだが」 気のまわるネリのことだ、アーディの声を聞きつけるなりエトレをどこかに引っ張っていっただろう。エトレよりよほど彼女は耳がいい。その点は心配していなかった。 仕事を片付けながらロアンは何度も天幕を確かめている。エトレが飛び出してくることはなかったから、ネリが仕事をしたのだろう。ほっと安堵しつつ、自分が不甲斐ない。あの異常なエトレの不安をなんとかしてやりたいとは思っていても。 「異常……?」 自分で思って訝しい。確かに異常だ。いままでそれに思い至らなかったとは、それもまた異常だとも思う。 「なんだ、これは?」 呟いてみても解決策などあるはずもなく、ロアンは頭を抱えるばかり。手が止まっているのに気づいて舌打ちをしては仕事を再開する。 「どうしたんです?」 そこにひょい、とエリナードが顔を出した。驚くロアンに独り言を言っていた、と彼は微笑んだ。 「いや……まぁ」 「愚痴の相手くらいならしますよ。――エトレさん、大丈夫でしたか」 「大丈夫だと本気で思ってるのか、あんたは」 自分でもぎょっとするほど厳しい口ぶりだったのにエリナードは思っていたら問わない、と飄々と受け流した。そのせいだったのか、どうか。 「……怖がってるんだ、エトレさんは。アーディなんかもう嫌だ、それなのに顔を見ると飛んで行きたくなる。それが怖い。そうこぼしてた」 知らず大工道具を握りしめ、つられて眼差しを伏せていた。おかげでエリナードの表情を彼は見落とした。息を飲むほど険しい顔をしていたものを。 「なんだかな、まるで魔法だよ。こんなわけのわからんこと、そう言いたくなる」 肩をすくめてロアンは息をつく。他人相手に口にしたせいだろうか、少しは気が楽になった気がした。エリナードが少し困ったような顔でそんな彼を見ている。 「ロアンさん、どこの出身です? いや、魔法とか、平気で口にするから。ミルテシアのお人は魔法は嫌いでしょ」 「出身と言うなら、アルハイド大陸、としか答えようがない生まれだぜ? 根っからの曲馬団育ちだ」 「なるほどねぇ。じゃあ魔法が嫌だったりとかはしないわけだ」 「だいたいアーディだって魔法使ってるだろうが。嫌がってたら商売にならない」 顔を顰めるのはアーディの名のせい。口にするだけで身の穢れと言わんばかりのそれにエリナードは目を細める。 「何はともあれ、エトレさんが心配でならないんだよ、俺は」 エリナードに何を言っているのだろうとロアンは思う。けれどエリナードくらいしか言いようもない話だった。赤の他人へ愚痴は言いやすい、それだけのことだ。 「イメルとの勝負、明日でしょ。――だから、明日まで、待っててくれませんか。悪いようには、しないから」 「あんた、何を知ってて何をしようとしてる!」 「ロアンさんとエトレさんには、絶対に悪いようにはならない。それだけは信じて」 掴みかかってくるロアンをいなし、エリナードは真っ直ぐと彼を見ていた。笑顔でも、温和でもない、たぶんエリナードの素の表情。ロアンは込み上げてくる罵声をぐっと飲み下す。 「あんたは、何もんだ」 「花街の監査役の息子ですよ」 「細工師だと思ってたんだがな、親子共々。あんたの手。――細工師の手じゃない。こんな綺麗な手をした職人なんぞいない」 逃げる間もなく手を掴まれてエリナードは苦笑する。答えられなかった、いまはまだ。エリナードが警戒しているのはロアンではない。アーディだ。それでも無防備なロアンから何が漏れるかわからない。再び舌打ちをして彼はエリナードの手を離した。 「なにが聞きたい?」 仕事道具を手に持って、ロアンは自分の仕事を片付けるふりをする。人目があるぞ、と言うような態度にエリナードは浮かんだ微笑みが隠せなかった。 「なんでそんな風に思うんです?」 「毎日通ってくる理由がない。あんたは何か調べものをしてるんだろうさ」 「さて」 「正直な、叩けば埃が出るなんていうもんじゃないぞ、曲馬団なんざ。殊に、うちは怪しいと俺でも思う。先代のころはよかったんだけどな」 長い溜息。先代の団長のままであったのならばエトレが曲馬団に同行するようなことはなかったかもしれない。それでもその方がエトレにはどれほどよいことだったか。 「いまの団長になってから、変わった?」 「正確に言えばアーディが来てから、だな。団長が拾ってきた男なんだが……昔から知り合いなんだろ。二人ともそんなこと言やしないが、そういうのは顔に出るしな」 「なるほどね……。そうそう、あっちの箱馬車、ずいぶん大きいですよね。近づいたら怒られちゃいましたよ」 にこにこと笑うエリナードにロアンは白々しいと言いたくなった。とっくに何かを知っているのではないだろうか、彼は。 「中身は俺も知らんよ。団員も近づくなって言われてるからな。団長と、アーディが密談するのに使ってるんだろ。あの二人だけしか入ってないらしい」 ネリなど気になって仕方ない様子だった。が、近くにいたと言うだけで団長に打擲されてからは慎んでいる。そんなことをぽつぽつ話せば、エリナードは微笑みながら雑談だとばかりうなずいていた。その目だけが、厳しい。 「……あんたを、信じていいのか」 ロアンは彼の目に賭けた。自分にはわからない何かが起きている。そしてエトレを救えるのは自分ではない。ならば。 「ロアンさん、エトレさんが好きでしょ?」 「な! ちょっと待て、どうしてそんな……!」 「あー、見てればわかるんで。話が面倒になるより先に解決したいんですよ。で、ロアンさんはだから、人を愛するってことが、理解できると思う。でしょ?」 何を突然に言い出すのかこの男は。思いつつロアンはうなずいていて、そんな自分に笑いたくなっては気が楽になる。 「だったら、俺にも大事な人がいます。世界で一番大事な人です。その人への敬愛にかけて、俺はあなたを裏切らない」 それが誰であろうとこちらにとっては見ず知らずの他人だ。ロアンはけれどそう言わなかった。エリナードの真剣な藍色の目。真っ直ぐとロアンは信じた。エトレのために。 |