彼の人の下

 秋の陽の落ちるのは早く、辺りはすっかり真っ暗だった。時折聞こえる物音にエトレが立ちすくみそうになっては慌てて足を速める。その繰り返し。
「どうした」
 何度目かの後、ロアンは首をかしげる。その顔ももしかしたらエトレには見えていないのかと不意に気づく。夜になっても舞台装置作りをすることがあるロアンにとってはまだ物も見えないと言うほど暗くはない。
「だって……」
 きゅっと唇を噛んだエトレの姿。良家の子息としてはこんな遅くに歩いていたことはなく、真の闇にあるかのよう錯覚しているのかもしれない。
「怖いか?」
 からかったはずなのにエトレはこくんとうなずいた。そしてそれでは見えないと思ったのだろう、怖いよ、と怒った様子で繰り返す。
「なにがだ? 別に怖いようなものはないと思うんだが」
「だって……熊とか」
「ここはまだ町中だぞ」
「狼だって」
「だから町ん中だって。獣はいないだろうが」
「いるかもしれないじゃん! こんなに真っ暗なんだよ!」
 どうやら本当に怖いらしい。ロアンはひっそり微笑んで黙って腕を差し出した。突然伸びてきた腕にエトレは驚いたのだろう。一瞬は立ちすくむ。けれど。
「……怖いだけだから。別にそんなんじゃないからね!」
 腕に縋って、顔を埋めるようにしてエトレは大きく声を荒らげる。それで恐怖を払おうとするかのように。ロアンは肩を震わせて笑っていた。
「笑うなよ! ロアンだって怖いもの、あるだろ!」
「わかったわかった。慣れてないだけだ、あんたは別に怖がりじゃないさ」
「そうだよ!」
 ふん、と鼻で笑って、それでも少しだけエトレは楽しそうだった。恐怖が薄らぐのならばそれでいい。そんな風にロアンは思う。
 天幕にたどりつこうとするころにはもうすっかり辺りは闇の中。さすがに明かりがついていなかったらロアンでも足下が危ないほど。エトレなどもう何も見えていないのではないだろうか。縋られた腕だけが重たい。
 このまま夜がずっと続けばいいのに。少年のようなことを考えた自分をロアンは内心で笑う。真っ暗な道をどこまでも。
 無論そんな夢など叶うことはなく、曲馬団の天幕が見えてきた。団員たちが寝起きしているのは裏手に停められた何台もの箱馬車の中だ。数人が一つの馬車を使っていることもあれば、ロアンのよう一人で使っていることもある。その馬車まであと少し、というところになって人影が見えた。
「あれ……?」
 ロアンの気配に気づいたのだろうエトレが顔を上げ、松明に気づいては腕を離す。ほっとした吐息が聞こえて、ロアンは言うに言われぬ思いを抱いた。きっと帰りついた安堵だろうに。
「あ、よかった! 帰ってきた!」
 綱渡りの少女だった。頭の上でいっぱいに手を振っては満面の笑み。ロアンに首をかしげれば、彼の方もまた驚いているらしい。
「ネリ? どうした、なんかあったのか」
 あの少女はネリと言うのか。エトレは驚いた顔をしていた。聞いた覚えはあるのかもしれない。名乗っていたような気もしなくはない。けれどまったく記憶になかった。今になってそんな自分が少し、恥ずかしい。
「なんかじゃないでしょ! エトレさん、あんまり帰りが遅いから心配してたんじゃない」
「え……。僕?」
「そう、エトレさん。だって、いいとこのお坊ちゃまだから。危ないじゃない?」
 何もなくてよかった、ほっと胸を撫で下ろして見せる彼女にエトレは何を言っていいのかわからなかった。
「心配かけて……ごめんね。ありがとう、ネリ」
 だからただそれだけを。その言葉にこそ、ネリは驚いた顔をする。思わず、と言った調子でまじまじとロアンを見ていた。
「なんだよ?」
「いつあたしの名前教えたのかと思って」
「自分で名乗ってただろうが」
「だってエトレさん、あたしの名前なんてずっと憶えなかったよ? なんで急にって、ちょっと気になって」
「そりゃ俺がいま呼んだからだろ?」
 わざわざ無視するような彼ではないだろう、言ってロアンは肩をすくめる。そうだね、とネリは微笑んで嬉しそう。名を覚えてもらった、それだけを彼女はこんなにも。よけいに申し訳なくなった。
 もしかしたらエリナードとの会話が響いていたのかもしれない。何か、胸に染み込んでくるものがあった、そう言うことだろう。ロアンとしてはそう思っている。曲馬団の人間より一層遠いエリナードにたしなめられてエトレは素直に聞いた。その素直さこそが彼の美点。このまま良い方向に脱していけば、願うロアンだったけれど。
「あ、アーディ!」
 ネリもロアンも忘れた顔をしてエトレが顔を輝かせる。二人顔を見合わせてはそっと肩をすくめあった。
「やあ、エトレ。どこかに出かけてたの。遊んできたんだね。楽しかった?」
 以前ならばネリと同じように案じてくれたのだとエトレは嬉しく思っただろう。が、違う。いまのは絶対に違う。どこがどうとは言えなかったけれど、それでも。
「うん……。あのね」
 そんな思いを振り切ってエトレは隠しに手を入れる。硬いエリナードの腕輪に指が触れ、本当に渡していいのかいまになって迷った。
「あぁ、ごめん。忙しいんだ。後にしてくれる?」
 そっけないアーディの言葉。顔は笑っている。笑っているだけ。エトレが咄嗟に腕輪を渡したのはそのせいに違いない。
「……すごい!」
「あのね、僕がね、花街で。その」
 エリナードに言われた通りに口にしようとした。その言葉がうまく出てこなかった。アーディは聞いていないのか、腕輪に見入っていた。
「ちょっと――」
 聞こえていたのはネリのほう。断片的な言葉であっても意味するところが彼女には理解できたらしい。ならばアーディにわからないはずもないだろうに。彼は頓着せずただ腕輪だけを見ている。怒っているのはネリだった。
「いいから」
 ぼそりとロアンがネリに言っている。納得できない、とネリがロアンを睨みつけ、ロアンは悪くないんだ、エトレは言いかけた言葉が出てこない。自分には興味を失くしたようなアーディだけがただ、そこに。その彼がにこりと笑って顔を上げた。
「素敵だ、エトレ。あなたが自分で稼いだの? すごいじゃないか! あなただったら、絶対に売れっ子になれると思うんだ、僕は。知らなかったよ、エトレ」
「え、何を……?」
「こういうことに興味があるんだったら僕に一言、言ってくれればよかったのに。そっちに伝手もあるんだ。次は絶対に僕に言ってほしいな。いいお客さんを紹介するからさ! じゃあ、忙しいんだ、あとでね!」
 ぱたん、と何かが落ちた音がしてエトレは首をかしげる。なんだろうとぼんやり思う。その腕が取られていた。
「エトレさん。冷えるから」
 ロアンに腕を取られていた。ずいぶん彼が高い位置にいて、落ちたのは自分の体かとエトレは気づく。知らずうちに地面に座り込んでいた自分だった。
「あれ、ネリ、は……?」
 辺りを見回しても誰もいなかった。アーディが去って行った方向ばかりを見ていた。ふと見れば、地面には争ったよう乱れたあと。苦笑したロアンが立ち上がらせてくれた。
「アーディを殴らせろ、我慢できないって喚くからな。軽く事情を話して、黙ってろって約束させて、馬車に帰した」
 ほろりとした、エトレは。そんなに自分のことを案じてくれたなど。信じられなかった。名前も覚えていなかったのに。
「ネリはあんたが大好きだよ。変わったお坊ちゃまだけど、一緒にいて楽しいって言ってる。だから心配してる。わかるか」
「……わからないよ。なんで、僕を、そんなに。僕はネリって名前だって」
「関係ないのかもな。ネリにとってはあんたはお客人だけど、団の仲間みたいなもんだと思ってるんだろ」
 客と、またも言われた。団の仲間ではないと突き付けられた。言われてみなくとも、そのとおりだといまにしてエトレは気づく。
 ロアンに抱えられるようにしてエトレは馬車まで連れて行かれた。温かい飲み物を手渡されてはじめて馬車の中と気づく始末。
「ここ、どこ。僕の馬車じゃない」
 なにに使うのかわからない様々なものが棚に収めてあった。見慣れないものばかりだけど、整頓されていて居心地は悪くなさそうな馬車の中。
「俺の馬車だ。あんたのところじゃ何がどこにあるのかわからない」
「ロアンの? ネリたちは借りてるって言ってたけど。あぁ、ロアンが使わせてもらってるって意味?」
 彼女が言っていたことでも覚えていることがあった。それがこんなにも慰めになっている。気づいているのかいないのか、エトレは強張ったまま笑っていた。
「いや、これは俺の持ち物だ。親の遺産、かな」
 曲馬団の馬車のほとんどは団のもの。芸人たちはそれを借りて寝起きしているだけ。けれどこれはロアンの両親が息子に残したものだった。不意に、これにエトレを乗せてどこまでも行かれる。そんなことを思った自分にロアンは動揺する。できるはずもなかった。
「……馬鹿だよね」
 自分の空想を笑われたはずはなくともロアンはぎょっとする。気づく様子もなくエトレはくすくすと笑っていた。
「アーディは喜んでくれるって言ってたじゃないか。すっごく喜んでくれたでしょ。だから、僕だって嬉しいはずなのに。……全然、嬉しくない」
「そりゃそうだろ。あれで喜んだら屑だってエリナードさんだって言ってただろうが」
「そう、なのかな。やっぱり、そんなことするなって怒ってほしかったのかな」
 渡された飲み物に口もつけずエトレはうつむいていた。泣くこともできないらしい、この子供のように素直な彼が。
「それなのにね、ロアン。なんでだろう。アーディがやっぱり素敵に見えるんだ。なんで? すごくがっかりして、もう嫌だって思って。それなのにアーディ!って言いたいの。なんで? 胸のどこかをぎゅっと押されてるみたいなんだ。なんで?」
 不安におののくエトレにロアンは何をしてやることもできなかった。ただ飲み物を勧めるだけ。ほどなく酔ったエトレが眠り込む。肩まで毛布にくるんでやりながらロアンこそ、不安だった。




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