彼の人の下

 今日のところはとにかく帰れ、と言われたエトレはぽつりぽつりと曲馬団への道をたどっている。隣には無言のロアンが。陽も暮れて、灯の入った花街の喧騒。華やかで綺麗だったけれど、今になって少しエトレは怖くなる。薄物をまとった女性たち。着飾った青年たち。彼らの眼差しが場違いな自分に向いているかのよう。だからだったのか、ほんのかすかにロアンがいてくれることが嬉しい、そんな風にも思う。
「……たいしたものだな」
 居心地が悪かったのか、ロアンはぼそりとそんなことを言った。確かに彼に花街は似合わない。ふとエトレは笑いたくなる。
「なにがさ」
 おかげで普段の調子を取り戻せた。それをロアンが安堵しているかのような。わずかに緩んだ隣の気配。
「エリナードさんの腕輪だ。親父さんに差し上げるってことは、習作だったんだろうが……。細工師だったんだな」
 いままでエリナードの生業を聞いた覚えがなかった。もっとも曲馬団と客だ。アーディのせいでイメルと勝負事をする羽目になったけれど、所詮は深い関係ではない。知らないのも無理はなかった。
「細工師? そうなのかな」
「違うのか? 自分で作ったんなら、細工師だろうさ」
「でも、お父さんは花街の監査役だって言ってた」
 それにロアンはほう、とうなずく。エトレは意味がわからないらしかった。そんな自分に気づいたのだろう、不機嫌そうに黙り込む。
「わからないんだったら聞け。俺が知ってることだったら、教えるから」
「偉そうだよ、ロアンのくせに!」
「あんたは知らないんだからしょうがないだろうが」
 あっさりと言われてしまってエトレは唇を噛む。だがロアンの言うとおりだった。彼がいまなにに納得したのか、エトレには見当もつかない。
「じゃあ、教えてよ」
 言い方こそぞんざいだったけれど、エトレは素直にロアンにそう言う。そのあたりの真っ直ぐさが彼の美点か、とロアンは苦笑していた。
「職人ってのは重んじられてるもんなんだ。監査役みたいな重要なお役につくのも珍しいことじゃない」
「へぇ……そう、なんだ」
「こんな大きな街だと違うだろうがな、そこそこの町だと、町長に、職人頭、商業主に農場主、そう言うのが町のまとめ役になってることが多い」
「なんでロアンはそんなこと知ってるの」
「曲馬団で生まれ育ってるからだ。あっちこっち周ってれば誰がどんな役目でどこに頭を下げればいいのか、知らないじゃ済まない」
 エトレは想像したこともなかったらしい。曲馬団とは華やかでただただ芸をしていればいい、そんな風にも思っていたのだろう。
「天幕張るんでも頭下げて金払って許可を取るんだ」
「そうなの!?」
「そりゃそうだ。世の中金だぜ」
 唇を歪めるロアンにはじめてエトレは出会った、不意にそんなことを思った自分に驚く。いままでいてもいなくても変わらない裏方、としか思っていなかった。
「それにしてもエリナードさんの腕はすごいな。いい腕だ。――わかってるのか、エトレさん」
「なにがさ」
「あんたがアーディに買ってやれるようなもんじゃないぞ、それ」
 いまは隠しにしまわれているエリナードの腕輪。言われてエトレは驚く。正直に言って、またもなにを言われているのかわからない。
「見れば、いいものなのは、わかるだろう?」
「……わかんない。だって、お金払ってないし」
「見て、どう言うものかはわからないか?」
 馬鹿にされたのかと一瞬は思う。が、ロアンは言い諭してくれているらしい。ならばちゃんと応えなくてはならない。そう思う自分が不思議で、改めて確かめようと隠しに手を入れれば無言でその手を掴まれた。
「なにするのさ」
「こんな往来で、あんたこそなにするつもりだ。危ないだろうが」
「あ……。ごめん」
「あとでゆっくり見たらいい。あんたがいままで買ってやったどんなもんよりたぶん、高価だから、それ」
 それで目を養え、そんな風に言われたらしい。突如として父の昔の言葉が蘇ってエトレは瞬く。良いものを見て目を養うんだ、商売の勘所はそういうところからだから。そんなことを言っていた気がする。いままで忘れていた父の言葉だった。
「よかったのかな、もらっちゃって。悪いよね、だったら」
 返さなきゃならない。悩むエトレはやはり真っ直ぐだとロアンは思う。真っ直ぐなエトレを騙して歪ませているのはアーディだとも。
「働いて返せるような額じゃないと思う。とりあえずエリナードさんの好意だと思って、ありがたくいただいとけばいいだろう」
 ロアンの言葉にエトレはこくりとうなずいた。けれど言っているロアン自身が信じられない。好意にしては度が過ぎる。エリナードの意図を窺ってしまうのは、エトレが不安だから。アーディがエリナードに変わるだけならば意味がない。
「ねぇ、聞いてもいい?」
 花街を過ぎ、辺りが暗くなりはじめていた。まだまだ王都の中心部なのだけれど、花街に比べれば明かりの数もぐっと少ない。そのせいか、エトレはロアンに少し身を寄せた。たぶん、怖いのだろう。ミルテシア有数の豪商の子として生まれ育ったエトレだ。暗くなってから自分の足で出歩くなどしたことはないのかもしれない。
「俺に答えられることなら」
「別に大したことじゃないけどさ。――ロアンのお父さんとかお母さんって、なにしてた人?」
 エリナードに親子の在り方を聞いて急に知りたくなったらしい。自分とは違う在り方があるのならば、ロアンもまた違うのかもしれない。想像するエトレがロアンは微笑ましい。
 エトレは父に甘やかされ、そこにアーディがつけ込んだ、ただそれだけだとロアンは思っている。まだまだ若いエトレだったし、何より気性自体は子供のようなもの。今からでも充分正道に立ち返れる、そう思う。その助けができれば、これに勝ることはない。内心で小さく呟いて、それ以上をロアンは考えなかった。
「曲馬団育ちだって言っただろうが。親父もおふくろもトリフィックトフィーの裏方だったよ。親父は大道具を、おふくろは芸人の衣装を手がけてた。もっとも――いまの団長とは違う人が団をまとめてたけどな」
「え、そうなの? じゃあ団長さんは二代目とか、そう言うこと?」
「いや、無関係だろう。前の団長は……噂話じゃ誰かに嵌められたかなんか……借金抱えて首が回らなくなったらしい。それでいまの団長が曲馬団を買ったんだって話だ」
「自分がいる曲馬団でしょ? なんで知らないの」
「知るか、そんなもん。俺は所詮は裏方の下っ端だ。団の運営任されてるわけじゃねぇよ」
 ふん、と鼻で笑うロアンはいまの団長より前の人のほうが好きだったのだろうとエトレでも察することができた。黙々と仕事をしていたロアン。前の団長なら、彼の仕事を褒めたのだろうか。いまの団長が褒めているのを見た覚えがエトレはなかった。
「どんなご両親だったの」
「別に、普通、かな。――あんたには普通じゃないか。そうだな……。おふくろも一応は自分の仕事を俺に仕込んじゃくれたけど、まぁさほど細かい仕事が得意な方でもない。裁縫より大工仕事のほうが性に合ってた。親父はだから自分の仕事をきっちり仕込んでくれた」
 おかげでこうしていま食っていられる。ロアンは笑う。エトレには夢にも思わない世界だった、それは。父から仕事を習うとは、どんなことなのだろうと。
「大変だとか、思わなかったの。もっと華やかなことのほうが楽しいとか。僕だったらやるなら芸人の方がいいけど」
「あれはあれで大変だぞ。あんたは表側しか見てないだけだ。それこそ血の滲むような訓練をあいつらはしてるんだ」
「あんなに楽しそうなのに!? 見えないよ!」
「客に努力を見せてどうするんだ。お金を頂戴して楽しい時間を売るのが商売だ。陰で血反吐を吐いてたって笑ってみせるさ」
 肩をすくめたロアンにエトレは立ち止まりそうになる。楽しく一緒に旅をしてきた仲間、と思っていた芸人たち。何も見ていなかったのだといまにしてわかった。
「俺も親父も、その芸を陰で支えてるのは自分だと思ってる。それが誇りでもある」
「……ごめん」
「なんだ急に」
「だって……。いてもいなくても一緒だと思ってた。どうせ裏方でしょって思ってたし、アーディの歌は舞台装置なんかなくてもいいのにって思ってた」
 アーディに関してはいまでもそう思うけど。エトレは言い添えて小さく笑う。そればかりは納得しがたいがロアンは軽く肩をすくめるに留めた。
「裏方は目立たないのが身上だ。芸人の芸を引き立てて実力を存分に出させてやれるような舞台を整えるのがこっちの仕事。いなくても一緒だと思われるのがたぶん正しい。でも、いなくなってみりゃ青くなる。そういうもんだ」
「……違うよ。僕は、そんなちゃんとしたこと、考えてたわけじゃないもん。裏方だって、馬鹿にしてただけだから」
 うつむいたエトレの言葉にロアンは何も言わない。ただ黙っていた。訝しくなったのだろうエトレが見上げてきて、はじめて苦笑する。
「なんか、言ってよ」
「いや、なに言っても偉そうになるなと思って」
「もう充分偉そうじゃん。今更?」
 ふ、とエトレは笑った。くつろいだ笑みで、ロアンは瞬きをする。いまだかつて見たことがないエトレだった。もしかしたら父の下で何不自由なく暮らしていたエトレ、あるいはアーディに出会う前のエトレはこんな顔をしたのかもしれない。エトレ自身はそんな自分に気づかなかったのだろう、ぷっと何かに吹き出していた。
「どうした?」
 笑われる覚えがなくて首をかしげれば、いかにも楽しくてたまらないと言った表情の彼だった。嘲笑されるのは御免こうむるけれど、こんな風に笑われるのはいいものだと思う。
「だって、ロアン。こんなによく喋ると思わなくって。意外だなって」
 言われたロアンが驚いていた。その顔を見てとったエトレが夜空に響けとばかり大きく笑った。
「けっこう楽しい。ありがとう、ロアン」
 それだけで、どれほど嬉しいかエトレは知らない。知らなくていい、ロアンは思う。




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