彼の人の下

 ロアンだった、現れたのは。それにエトレは少しがっかりとする。もしかしたらアーディかもしれない。扉が開いた瞬間になぜかそう思ってしまった。そしてそう思ったことで気づく。探してほしかった、迎えに来てほしかったのだと。わずかに吐息が漏れたそのとき、頬が鳴った。
「な……なにするんだよ!」
 思わず頬を押さえた。真っ赤に熱した鉄でも当てられたのかと思うほど、熱い。思い切り叩かれた頬。信じがたかった。それこそ鉄のように赤くなって唇を引き結んでいるロアンが、わからない。
「いい加減に目を覚ませ!」
 もう一度叩かれそうになった手は、さすがにエリナードが阻んでくれた。けれど気づきもせずエトレはロアンを睨み返す。
「意味がわかんないんだけど! 目を覚ませって……どう言う意味さ! だいたい、そっちの方が意味わかんないじゃないか。急に叩かれるってどう言うことなの!」
「それがわからないから叩かれてるんだ!」
「信じらんない、この無礼者!」
「無礼結構。所詮は曲馬団の裏方だ。そんな俺でもあんたの目を覚まさせられるんだったら本望ってもんだね」
 はん、と鼻を鳴らしてロアンは肩で息をしていた。ここまで走って来たのかもしれない。あるいは怒りのためなのかもしれない。エトレには、いずれともわからない。ロアンが真っ赤になって怒っている意味もなにもかも。
「ロアンのくせに――」
「はい、そこまで。ちょっと落ち着いてくださいよ。とりあえずエトレさんは無事だったんだから。イザベラ様、なんか冷たいもんでも……あぁ、あれは抜きでお願いしますよ」
「わたくしをなんだと思っているのかしら、可愛らしい方? 時を選ぶくらいはいたしますよ」
 小さく笑ってイザベラは手を叩く。現れたのは美しい女性だった。薄物を身につけていて、エトレにもここで奉仕をしている神官――あるいは聖娼――とわかる。ぽ、と頬が熱くなった。今度は叩かれたのではない。その姿に。ここで、彼女と同じことをしようとしていた自分。怖くて、恥ずかしくて。
「……悪い」
 ぽつん、としたロアンの声だった。驚いてそちらを見ればもう常の表情。うつむいて唇を噛むロアンがいた。
「痛かったんだからね」
「殴られるようなことをしたんだってのは、理解してると思うんだが」
 せいぜい平手で叩いたのをありがたく思え。そんなロアンにエトレの眼差しがきつくなる。溜息まじりのエリナードが再び手を叩いた。
「だから、そう喧嘩腰にならずに。ロアンさんはあなたを心配してここまで駆けつけたんですよ、その辺、わかってます?」
「……心配される意味がわかんないんだけど」
「それでも心配はされた。意味はとりあえずどうでもいい。心配されたのは、わかってます?」
 子供に言い聞かせるような言葉にロアンは少し驚いた。この美貌の青年がこんな優しげに噛み砕いた表現をするとは思っていなかったせい。
 そこに運ばれてきた冷たい飲み物。イザベラが笑顔で勧めてくれた。口をつければ仄かに甘い。贅沢な飲み物だった。
「エリナードさん。さっきあれは抜きでと言っていたが」
「あぁ、ここ。娼館なんで。たいていここで出されるものには催淫剤が仕込んでありましてね」
「仕込んである、とは人聞きの悪い。ここは双子神の神殿でもあるのですよ、エリナード。我々の信仰によるものです」
「とはいえ、いま催淫剤は困るわけでして。抜いてほしいとお願いしたのはそういうわけです」
 にこりとなんでもないことのように語られてしまった。さすがにロアンも困惑する。それ以上にエトレが。
 催淫剤、というものの存在は知っていた。どんな効果があるのかも、どのように使うのかも、使われる場所も。聞いてはいた。
「……ここで、もしかしたら。僕も」
 呟いてしまってから、慌ててエリナードを見やれば、にっこりと笑っていた。目だけが、鋭い。そのとおり、とうなずいている。
「ここは神殿ですからね、あなたがどうしてもって言うんだったら奉仕はさせてもらえますよ。ただ、あなたは本当に自分の愛と欲望を双子神に捧げたかったんですか? 違うでしょ。あなたは手っ取り早く金が欲しかった。それだけだ」
 言った途端、またもロアンの顔が憤怒に染まる。素早くエリナードがその腕を掴まなければ、また叩かれていたかもしれない。エトレは身を震わせた。
「どんな経緯で曲馬団にいるのか知りませんけどね、ものすっごく甘やかされて育ったお人でしょうが、エトレさんは。物を知らないにもほどがあるけど、それだってエトレさん本人の責任とは言い難いような気がしますよ」
「どう言う意味か、俺にはわからない」
「わかりたくないの間違いでしょ、ロアンさん。――ほとんど知りもしないも同然で言っていいことじゃない気がしますけどね。エトレさん、甘やかされ方が、間違ってる。親御がちゃんと教えるべきことを教えてないから、こんなことになってる。違いますか」
 真っ直ぐなエリナードの藍色の目。エトレは答えない。正直に言ってエリナードが何を言っているのかが、わからなかった。ロアンは思うところがあるのだろう。口をつぐむ。
「こちらのエリナードは、お父君にそれはそれは溺愛されて育ちましたのよ。本当に、エリナードには甘い方ですもの、あの方は」
「だったら、僕のお父さんだって」
「けれど、それはエリナードに幸福になって欲しいがゆえのことなのよ。だから、あの方は厳しくあなたを仕込んだ。そうでしょう、エリナード」
「えぇ、ちょっと死ぬかってことが何度もありましたね。倒れると、枕元で看病してくれながら滾々と説教されてね。――それでも、親父のほうがつらい思いをしたでしょうね。大事な息子が将来酷い目にあったりしないようにって仕込みながら、でも今つらい思いをしてる。させてるのは自分。それに耐えて、ちゃんと一人前になれるように仕込んでくれてる」
 ありがたいことだとエリナードは笑った。本当に幸せそうに笑っていた。ロアンはそんな彼を眩しそうに見ている。あるいは父と息子の関係に目を細めているのかもしれない。エトレ一人、わからなかった。
「だって、可愛がってるんだったら、そんな酷いことしなきゃいいじゃない、そうでしょ。お父さんが色々全部やってあげるからって。そう言うものじゃないの」
「だったら、エトレさん。親父さんが亡くなったあと、あなたはどうするんですか。順番で行けば親父さんのほうが先でしょ。その時あなたは一人でどうするんですか」
「え……」
「そのときのことも考えて、ちゃんと仕込んでくれるのが親の愛ってもんですよ」
 だからエトレがいまのようであるのはエトレ本人の責任だけではない、エリナードは繰り返す。けれど、と再び口を開いた。
「いま、あなたは俺に言われて、こういう親子もいるんだってことを知って、親父さんが亡くなったあとはどうすればいいのかって考えることも知った。だったらあとは、親父さんだけの責任じゃない。あなたが、自分で、どうするか、ですよ」
 からからと笑うのは少しばかり照れたせいだろうか。イザベラがそんな彼を微笑ましげに見ている。少し、羨ましい気がした。イザベラは彼の母ではないのだろうけれど、まるで母親のような眼差しだとエトレは思う。そんな目で自分を見てくれた人はいなかった。そう思えばこそ。
「まずは、どう言うつもりだったのかが聞きたい」
 低いロアンの声だった。生き方などの高尚な問題よりまずエトレが身を売ろうとしたことだと。ぎゅっと握られた拳が震えていて、また叩かれるのかとエトレは思った。ふと気づく。何かが違う。けれど、わからない。
「ロアンさんはね、怒ってるんですよ。あなたに対して怒ってるのもある。気安く体なんか売ろうとしたことを怒ってる。自分を大事にしないにもほどがあるってね。でも――」
「一番は、アーディだ。いや、エトレさんでもある」
「どう言うことさ! アーディは!」
「悪いに決まってるだろう。あんた、いい加減に目を覚ませ。さっきも言ったがな。最近アーディが冷たいってこぼしてたのは誰だ。俺は聞いたぞ」
「だからそれは! 僕が好きなもの買ってあげられなくって、それでアーディは拗ねてるんだよ。それだけだよ!」
「ちなみにいまアーディさんは何してるんですかね。差し障りがない程度でいいですよ、イメルとの勝負前だし」
 つい、と割り込んできた笑顔のエリナード。ここまで来てもまだイメルとの勝負などいう彼が好ましかった。律儀で、真っ直ぐで。ふとロアンの口許がほころび、なぜかエトレは不愉快になる。
「お気に入りの聴衆を集めてるよ。これだったら絶対イメルさんに勝てるってのをせっせと集めてる」
「そんなことしなくったってアーディのほうがずっと素敵なのに」
 ぼそりと言ったエトレの言葉にロアンは肩をすくめるだけ。またも目を覚ませ、言われた気がした。思わず唇を噛みしめる。
「まぁ、吟遊詩人の勝負ですか。勝てる聴衆を集めなくてはならないとは、少し残念ですね」
 イザベラまでそんなことを言う。だから、そんなことをしなくてもアーディの勝ちだとエトレは思うのに。誰も信じてくれない。それが悔しい。そんなエトレの様子を目に留めたイザベラがエリナードに目くばせをし、けれど彼は黙って首を振る。気づいたロアンだったけれどあからさまな笑顔で問いを封じられた。
「アーディは、拗ねてるだけだもん。僕が好きなもの買ってあげたら、また機嫌直してくれる」
「そうかな? あんた、最近実家からの仕送りが遅れがちだろ。だからアーディは愛想を尽かしてる。俺はそう見える」
「酷いよ、そんなの言いがかりだよ!」
「だったらなんでいままで大事だ大事だ言ってたのに、好きなもん買ってもらえなかったくらいで腹立てる。だいたい本当に大事にしてるんだったら散財なんかさせるか?」
 自分だったらそんなことはしない。言いそうだったロアンが口をつぐんだ。エリナードは天を仰ぐ。なぜかここ最近、こういう関係に首を突っ込む事態が多発している気がしてならない。
「じゃあ、とりあえずエトレさんが目を覚ますかどうか。ちょっと試してみましょうか」
 すい、とエリナードが自分の腕を撫でた、と思ったときには彼の手に腕輪が握られている。腕の上の方に隠してつけていたのだろうそれは見事なものだった。
「中々悪くないでしょ? 親父にやろうかと思って作ったんですがね、あなたに差し上げますよ。花街で稼いでこれを買ったんだってアーディさんに贈ったらいい」
 それで彼がどんな反応をするか確かめろ。エリナードはそんなことを言う。渋々と受け取ったエトレと違い、ロアンは目を瞬いていた。あまりにも見事な腕輪だった。




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