彼の人の下

 苛立ちと戸惑いと。エトレは今までにない何かに困惑していた。生家にいたころにこんな思いをしたことはなく、こうして曲馬団と共にいるようになってからも覚えがない。
 あの日、エリナードは言った。そちらの都合のいい場所、時間、聴衆で腕比べをしたらいいと。突然のことでイメルが驚いた顔。それに勝ち誇ったアーディの表情。エトレも思いはする。アーディが本気になってあのようなイメル贔屓ではない聞き手の前で披露すれば負けるはずはないと。それでも。
「……だって」
 自分でも何を呟いたのかよくわからなかった。アーディは十日後に興行が終わったあとの天幕で、とイメルに言った。彼は快く了承し、そして二人は帰っていったが。
 エリナードの後ろ姿をじっと見ていたアーディのその眼差し。思い出してエトレは唇を噛む。あれほど真剣に見つめられているのに、エリナードは鼻もかけていない。それが悔しくはある。だがそれ以上に。
「どうして」
 自分ではなく、エリナードを。恋人だと思っていた。アーディも大事なエトレ、そう言ってくれていた。そして思い出す。二人の前で彼は自分をお客さん、と紹介したと。
 わっと天幕の中が沸いた。昼の興行はすでに終わり、夕方の舞台がはじまる前。芸人たちが稽古をしたりくつろいだり。それを見ているのがエトレは大好きだった。
 いまはどうだろうと思う。そこにはエリナードがいた。アーディのあの日の言葉に従って。
「勝負は承けますよ。だから、あなたはこれから毎日僕の舞台を見に来てくれなくては」
 そう。忙しいから舞台そのものを毎日見るのは不可能。言い切ったエリナードにならばと顔を輝かせたアーディ。
「天幕に顔を見せてくれるだけでもいいんですよ。ね、それならいいでしょ?」
 飛び切りの笑顔は自分に向いていた。ミルテシアで興行を打ったトリフィックトフィー。確かにはじめてアーディがそうやって笑いかけてくれた日のことをエトレは忘れていない。
 結局そうしてエリナードは毎日ここに通ってきている。と言ってもアーディの演奏を聞く気はないらしい。
「だったら来なきゃいいのに」
 ぽつりと呟いても誰にも聞こえなかった。いままでだったら誰彼なく側にいたものを。エリナードは芸人たちの受けもよかった。楽しげに話を聞いて笑顔でうなずいている。
 あろうことかロアンまで。あの鬱陶しいロアンがいなくなればすっきりするかと思った。それなのにロアンがエリナードと楽しそうに話しているのを見るとどうしてか、苛立ってならない。
「あの人は職人仕事ってものを本当にわかってるな。こっちの手が空くまで、ちゃんと待っててくれる、話しかけていい時と場合ってのを飲み込んでる。珍しいお人だよ」
 口数が多くないロアンとしては絶賛だった、それは。きらきらとその目まで輝いている気がして、エトレは急に独りぼっちになった気分だった。
 思わずぷい、と天幕を出て行く。いままでだったら誰かが追いかけてきてくれたものを。エリナードと話す声ばかりが背中に跳ね返った。
「……きっと」
 あの輪の中に、アーディもいた。エトレはその顔を思い出す。きっと、拗ねて見せているだけ、と。きゅっと唇をつぐんで意を決する。
 ちょうどあの日のことだった。持ち合わせが少なくて、アーディに思うものを買ってあげられなかった。
「きっとそれで、ちょっと拗ねて見せてるだけだよね、アーディ?」
 好きなものを贈ればまたこちらを向いてくれる。そんな気がした。エトレの足は、王都の中心部へ。ミルテシアならば必ずあるものを探していた。
「神殿?」
 最初に尋ねた人には怪訝な顔をされた。その後数人にも。しばらくして、エトレにも理解ができる。まるで知られていないのだと。
 衝撃的だった。ここは、外国なのだとはじめて理解した気がした。途端に心細くなってしまう。心の中で、けれど呟く。名を呼ぶ。アーディ。彼に好きなものを買ってあげる。
「あぁ、それだったら、この通りじゃない。あっちだ、目印は――」
 ようやくのことで、一人の男が教えてくれた神殿の場所。エトレは嬉々として走り出す。エトレにとって幸いだったのは、その男が真実を語っていたことか。ほどなく目印に、と教えられた角灯が見えてきた。
「青い、薔薇だ。ここだね」
 角灯の中に慎ましく咲く青い薔薇。見上げた建物は大きく、艶めかしい。エトレは立ちすくみそうになった己を叱咤して、そこに入っていった。
「どうなさいました、お若い方」
 初老だろうか、女性が優しく微笑んで出迎えた。穏やかな妖艶さと言う相反するものでありながらしっくりとしたその立ち姿。エトレは息を飲み、顎を上げた。
「ご奉仕を、させていただきたいのです」
 それに女性は驚いた顔をした。そちらにこそ、エトレは驚く。珍しいことではないはずなのに、と。ここは、双子神の神殿なのだから。
「意味をご理解なさっているのかしら、お若い方」
「もちろんです。だってここは、双子神の神殿でしょう?」
「神殿ですよ。ですが、あなたが何を双子神に捧げようとなさっているのか、わかっていますか」
「もちろん!」
 勢いよくうなずいてエトレはなんでもない顔をした。こんなことはしばしばしていて、気にするようなものではないと。
「気にするべきものですよ、あなた」
「でも、ここは!」
「大切な行為だからこそ、双子神へのご奉仕になり得ます。どうでもよい肉の交わりではありません」
 切って捨てられたようだった。鷹揚な女性の唇から出たとは思えない、厳しい言葉。エトレはしばらくしてから怒られたのだ、と気づく。
「怒られる、意味がわからないんですけど。僕は、ご奉仕がしたいって言ってるんです。それって、拒むようなことじゃ――」
「いい加減な気持ちでのご奉仕は双子神への侮辱となります。それがわかっていないのね、お若い方だわ、本当に、もう……」
 しげしげと見つめられエトレは拗ねて尖っていた唇に気づいて必死になって大人びた顔を作る。少しだけ、無駄なような気がした。
「よろしいわ、こちらにおいでなさい」
 長い溜息。これで、金が作れると思った。双子神への奉仕にこの身を売り、その金でアーディに好きなものを。この体にどれほどの値がつくのか、エトレは知らない。そもそも、故郷では双子神の神殿は珍しくはなかったけれど、しかし「奉仕」をしたことは一度もない。だから本当はどうなっているのかも、知らない。
 待てと言われてエトレは待っていた。客なのか信者なのか、相手を待つのだろう。風呂くらい使わせてもらえるのか、そんなことをぼんやりと思う。少し、体が震えた。
「馬鹿だな、たいしたことじゃないよ、こんなの」
 震えていた手をぎゅっと握ってアーディの笑顔を思う。それだけで落ち着く気がした。アーディとしていたことと、することは同じだ。大したことはない。ただそれだけだ。何度も心に呟く。突然、扉が開いた。
「本当によろしいのね。怖いみたいですよ、あなた」
 先ほどの女性だった。確かめられてエトレは黙って首をうなずかせる。本当は、怖くなってきていた。口を開けば帰る、そう言ってしまいそう。けれどそうしたら、アーディに好きなものを買ってあげられない。エトレの様子に彼女が嘆かわしげな溜息をついた。
 何かの合図があったのだろう。再び扉が開く。エトレの目が丸くなった。そして彼女をしげしげと見つめる。なんの冗談だとばかりに。
「イザベラ様、お手柄です。いや、偉そうですが」
「あら、お知り合いでしたの、エリナード」
「ま、色々と」
 苦笑する、それはエリナードだった。少し、印象が違う。あまりにも緊張しすぎたせいか、エトレは敏感にそんなことに気づく自分が少しおかしい。
「待って、どうして! だって僕はご奉仕に来たのに、なんで!」
「ん、客が私じゃあ不満ですか」
 にやりとされた。その笑みだろうか。体が、本当に震えてきた。自分が今から何をするか、今になって理解した。わかっていて、来たはずなのに。それにイザベラがほっと息をついた。
「やはり、訳ありでしたわね。あなたにお知らせしてよかったわ、エリナード」
「訳ありも訳あり、大ありです。もう、どうしてこう、次から次へと厄介事が……。あぁ、もう!」
 がしがしと頭をかきむしるエリナードにエトレはぽかんとした。あの日の印象ががらがらと崩れて行く。
「生憎こっちが地なんですよ、すいませんね」
「この方は――」
「この花街の監査役の息子ですよ、それだけです。だからイザベラ様はお知らせくださった。ですよね?」
 なにか、隠し事をされたのだとさすがにエトレにもわかった。一瞬イザベラが目を丸くし、ついでころころと笑い出す。
「えぇ、そうでしたわね。あの方のご子息ですもの、あなた」
「親父のおかげで厄介事がいやってほど押し寄せてきてますけどね。この春からの話、聞きます?」
「それはまた今度に。こちらの方、どうしてもご奉仕がしたいと言って聞きませんの。あなた、事情をご存じかしら」
「ご存じになれるほど関係が深くないんですよ。で、どういうわけで?」
 ぽんぽんと交わされる会話にエトレはどうしていいかわからない。けれど恐怖は薄れていた。それを狙ってのことだったイザベラとエリナード、まずはほっと息をつきあう。
「だって……お金がいるから」
「はい?」
「お金がなきゃ、アーディに好きなもの買ってあげられないから。だから!」
「あー、それでご奉仕? ちなみに体売るんじゃないんですからね、金はもらえませんよ? ここは神殿であって、売春宿じゃないんだから」
 イザベラがあからさまな言いようにだろうか、顔を覆う。少しばかり真実でもないことをエリナードは言っている。嘘ではないが、本当でもないと言うあたりか。けれどイザベラはそれを咎めない。この若い男性を止めるために必要なこと、とわかっていた。
「え……そんな……だったら……」
「だいたいね、体売って作った金で贈り物されて喜ぶ男なんて屑ですよ。その辺、わかってんですか、あなたは」
 言い返そうとした、エトレは。どんなものでも物は物だし、買ってあげられない自分が悪いのだと。だがしかし、そこにもう一人の人物が現れる。




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