一行はイメル馴染みの居酒屋に移動していた。いま席についているのは三人だけ。吟遊詩人たちはもう店の中央で歌っている。 それを聞くふりをしつつロアンはエリナードと名乗った青年を見やっていた。不思議な男だと思う。一見は裕福な放蕩息子のようだけれど、言葉の端々、挙措の一つ一つに端正さが窺える。断じて遊び歩いている様子ではない。それなのにそんなふりをしている、と言うのがまず不可解。 何より不思議だと思うのがこの親身さだった。生憎と見慣れてしまっていたけれど、エリナードはアーディには一切の感銘を受けていないらしい。彼がアーディに興味を示さないことではじめてロアンはそれに気づいた。おかげでエトレがどことなく不快そうだ。アーディは騒がれると決まっているもの、エトレは思い込んでいるのだろう。 アーディに興味を示さずこの自分になどというのは更におかしい。ロアンは己の分を弁えている。だからこそ、職人仕事がどうのだなど、戯言だとしか思えない。からかわれているのかとも思うが、それにしてはやけに親切。わけがわからないロアンの隣、エトレが苛々と卓を叩いていた。 「なんか変だよ、この店。そうだろ、ロアン?」 小さく爪を噛む仕種が彼の苛立ちを語る。どうにも放っておけない幼さで、こんなときロアンは彼の両親とやらを思ってしまう。 なぜ、こんな息子を外に出したりした。教えるべきことを教えもせず金だけ与えて遊び歩かせるなど親のすることか。そんな風に思う。好き勝手をしているエトレが可哀想でならない、そう思ったのはいつだったか。ロアンは内心で苦笑していた。 「なにがだ」 むつりと答えつつ、すでにロアンは勘づいてはいる。何気なくエリナードを見やれば笑っているような、そうではないような。 「だって、いつものアーディの歌じゃないよ。こんなの」 「俺にはいつもどおりに聞こえる」 「ロアンは耳がおかしいんだ。いつもアーディを貶してばかりいて。そんなに彼が羨ましいの」 食ってかかるエトレをなぜかわからない、エリナードが笑った。腹を立てたのだろうエトレが口を開くより先、エリナードは再び微笑む。 「もしかしてロアンさんは絶対音感があるのかな?」 その言葉にロアンは驚いた。いままで誰に気づかれたこともなかったというのに。隠すようなものでもないが、あって役に立つものでもない。ロアンは楽器の腕はないし歌を歌いたいとも思わないのだから。 「なにそれ」 ぼそりと拗ねたエトレの声。エリナードはちらりとも見ずにロアンを見ていた。それにまた苛立ったのだろう、ぐいと酒を煽ればエトレがむせる。背中を叩いてやればうるさそうに払われた。 「あなたは良いお人だな、ロアンさん」 「――そんなことはない。だが」 「あぁ、なぜ絶対音感があるかと思ったか? 決まってる。アーディさんの歌を聞くのが苦痛そうだったからな」 「ちょっとそれ、どう言う意味なんだよ!」 立ち上がりそうになるエトレをロアンは渋々抑える。悪気はないのだとエリナードに目顔で言えばどういうわけか通じそうな気がして、現に通じたらしい。 「そのままの意味、かな。彼はずいぶんいい加減に弦を押さえてるな。音が私の耳にも曖昧に聞こえる」 派手な技巧を誇っているように見えるし、実際に華やかな旋律を奏でてはいる。だが相当に曖昧な音程だった。技巧でそれを隠しているとしかエリナードには聞こえない。 「そんなことない! あなたの耳がおかしいんだ!」 言いながらエトレは不安だった。普段のアーディとは違う、今になって認めずにはいられなかった。聞いている客たちもイメルと言う吟遊詩人の時には熱心に耳を傾けているというのに、アーディがはじめるなり喋り出す。おかしかった。曲馬団ではこんなことはないというのに。 「だいたい、あんな地味な吟遊詩人なんておかしいよ。アーディはね、あの世界の歌い手の弟子なんだよ? あなたなんか知らないと思うけど。すごく立派な素敵な歌を歌う人だって聞いてる。その人の弟子が下手なわけないじゃないか」 「エトレさんはその世界の歌い手に会ったことは?」 「え……、あるわけないでしょ、そんなの」 「だったらアーディさんの嘘かも知れないね」 にこりと笑うエリナードにエトレは言葉もなかった。考えたこともない、疑うなどしたこともない。それはどうやらロアンも同じだったらしい。愕然とした顔をしていた。 ――かなりまずいな。 エリナードは心の内側で呟く。演奏中のイメルからも同意が返ってきた。アーディの魅了の呪文の影響だろう。呪文の範囲を限定せずに使っているらしい。あるいは限定することすら、彼は知らないか。辺り一面かまわず魔法を振りまく魔術師のなりそこないなど、危なくてとても放置できない。今はアーディに気づかれることを恐れて非常に弱い対抗呪文で影響を緩和している。エトレは何かが違う、と敏感に感づいているらしい。ならば魅了の影響にも気づいてほしいものだと内心で小さく溜息をついた。 「だって、アーディは、すごく複雑なことだってできるし。イメルって人は全然そんなんじゃないじゃないか」 「……でも、あっちのほうがずっと難しい曲を弾いてる」 「ロアン?」 目を丸くしたエトレの表情。ロアンに音楽を判断する耳があるなど、知りもしなかったのだろう。ロアン自身、言ったこともない。すぐさまエトレは口先ばかりだと呟いてそっぽを向いた。 「イメル、頼んでもいいかな?」 ちょうど曲が切れたところだった。アーディに代わろうとしたイメルに客たちが残念そう。そこにかかったエリナードの声。イメルより先に客が喜ぶ。 「ん、いいよ。何?」 さてどんな無理難題が。イメルは戦々恐々だ。いまでこそエリナードは物静かを装っているけれど、あれの中身がどんな風なのか知らないはずもないイメルだ。少しばかり引き攣り加減のイメルにエリナードは微笑む。 「熊蜂の狂騒を」 微笑んだまま首をかしげエリナードは言う。それに勝ち誇った顔をしたのはアーディ。店の中がざわめく。 それほど知られた曲ではあった。が、聞いた者は多くはない。曖昧に一部だけを弾く者はいても、短い曲だというのに全曲を弾きとおせる弾き手があまりいないせいだ。 一説に、悪魔に魂を売って作られた曲、と言う。それほどの超絶技巧を誇り、かつ技巧だけでは済ませない名曲でもある。イメルが苦笑してリュートを構え直した。 瞬間だった。店の中が水を打ったよう静まり返る。これは本当にリュートの音色だろうか。イメルが一人で弾いているのだろうか。目を疑って何度となく瞬きをする客の数々。エリナードはちらりとアーディを見る。青くなっていた。さすがに「熊蜂の狂騒」を弾くのは容易ではないとはわかっているらしい。 本当に短い曲で、酒が一杯なくなる間もありはしない。誰も飲んでなどいなかったけれど。それほどの短い時間が、それよりなお飛んで行くかのよう。イメルの演奏に客のすべてが聞き惚れた。一人、エリナードだけが曲の終わりに軽い拍手を。 「よしてよ、お前に褒められるとからかわれてる気がするから」 「そうか? 久しぶりに聞いたけど、少しは腕が上がった気がする」 「そうかなぁ……。自分ではそうは思えないよ、まだまだだ」 不満があったのだろう、いまの演奏に。客たちに一礼をして席に戻ってくる。一息入れるつもりらしい。 淡々とした様子の二人だった。それをロアンは見ていた。これが、このイメルと言う吟遊詩人の腕だと、悟る。エトレもまた、唇を噛みながら見ていた。嫌でも、理解してしまう。アーディより上がいるのだと。 「ふん、ここはあなたの馴染みだって言うからな。それだけだろ」 アーディもまた戻ってきていた。あの演奏の後では弾けないだろう、やはり。それでも憎まれ口を叩くところが癇に障る、とエリナードは思う。返答もせずにいれば何気なく隣に座ろうとした。幸いこちらも何気ないイメルが無言で横に座って阻止してくれたが。 「どう言うこと?」 無邪気そうなエリナードの問い。イメルはぞっと背筋に寒気を覚えた。何を企んでいるのやら。この少し年下の友が何をしでかすのか、若干楽しみではある。そう思っておいたほうがずっと精神的健康に有効だとイメルは知っていた。 「だってさ、エリナード? ここはそのイメルさんだったか。その馴染みの店なんだろ。だったら僕よりそちらが持てはやされても仕方ないじゃないか。そういうところに引っ張り込んで勝負を持ちかけるなんて……。卑怯だよ。なぁ?」 エリナードを落とそうと必死のくせに、アーディはエトレの肩を抱いては覗き込むようにして微笑む。ロアンがジョッキを握りしめたのがエリナードの目の端に映った。 ずいぶんな言いようだと思う。だが怒りは感じなかった。馬鹿だなと思うだけのこと。呆れたエリナードと気づいたか、イメルも肩をすくめて酒で唇を湿らせていた。が、怒ったものは他にいた。どん、と音を立てて卓が叩かれる。 「聞き捨てならないね、あんた。どこの誰か知らないが――」 「知らない!? なんてことだ。僕はトリフィックトフィーの座付き吟遊詩人さ!」 「あぁ、あの街の端っこで興行打ってるって言う曲馬団か。その座付き? そんなたいそうなことを言うけどね、あんたの腕は王都じゃ掃いて捨てるほどいるなりそこない程度さ!」 真っ赤になって怒っているのはこの店の女将だった。その見幕と、まるで自分に興味のなさそうな様子にはじめてアーディは気づく。少しばかりおろおろと周囲を見回せば、誰もが自分を見て嘲笑っているかのよう。 ――ちょっと、エリナード。これ、冗談だよな? 馬鹿じゃなかったら、自分が魔法使ってるって、わかってるよな? ――どうやら馬鹿がいるらしいぜ。これ、冗談抜きでまずいぞ。魔力はある。修行っつーか、訓練した形跡はある。それでいて無意識に発動? マジかよ、いつ暴走してもおかしかねぇぞこれ。 ――勘弁してよ。 長い溜息が聞こえた。それなのにイメルは苦笑して女将とアーディのやり取りを眺めているだけ。さすがに吟遊詩人か、と少しばかり見直した。 「うちはね、先々代の親父さんのころから若い吟遊詩人なら誰でも歌ってもらってるのさ。うちのお客さんも耳は肥えてる」 あんたの腕はその程度。再び断言して嘲笑する女将にアーディは言い返さなかった。代わりに青白い顔をして彼女を見ているばかり。怒りに震えるその拳。咄嗟に放ったエリナードの言葉がその場を救った。 |