彼の人の下

 今日は素晴らしい日だ。先ほどまでの不機嫌さも忘れてアーディは歓喜の極みにいた。今日までに二度見かけた、あの金髪の客。それがいまここにいる幸運。
 舞台がはけてからエトレと買い物に来たアーディだった。目当ての銀細工があったのだけれど、珍しくエトレに渋い顔をされてしまった。少し申し訳なさそうな顔ではあったのだけれど、いささか高価すぎる、と拒まれた。それが不快でならなかったアーディだったが、適当なことを言ってエトレを帰した甲斐があるというもの。ここであの金髪に出会えたとは。
「こんな演奏は耳が汚れますよ。ほら、あなたは僕の演奏を聞いてくれたじゃないですか」
 飛び切りの笑顔を作りアーディは言う。これで落ちなかった男女は今のところいなかっただけに苦笑されたのが驚き。
 ――鴨が来たぜ。
 エリナードのほうはただただ苦笑するしかなかったというのに。単に技量が足りていないだけだとばかり思っていたのだが、どうやら慢心していただけらしい。とっくに見抜いていただろうイメルが不愉快なのは当然だとさえ思った。そのイメルに思考を飛ばせばほどなく演奏を終えた彼。
「せっかくだし、僕の歌をお聞きにならない? こんなところじゃなくて、もっと素敵なところで歌ってあげるから」
 さりげない腕が肩を抱こうとした。さすがにぞっとした顔だけは見せないで済んだエリナードだった。が、背筋が寒くてかなわない。
「私の連れに、なにか?」
 そこにイメルが戻る。実のところそれにもぞっとしてしまったエリナードだった。彼がこうやって気取っている場面を見るのはどうにも落ち着かなくて困る。
「はい? 連れって誰のことだよ。僕はこちらの人に用があるんだ。あなたは関係ないだろう」
 傲慢に胸をそらした男にイメルは苦笑する。それが先ほどの金髪の彼とよく似ていてアーディは少し、驚いた。
「エリナード、知り合いか?」
 とぼけて問うイメルにエリナードは小さく笑う。内心では名を呼ぶな、と思いつつ。気づいたイメルが申し訳なさそうに眉を下げた。
「いいや、初対面だよ」
 首を振るエリナードに男は感激の眼差し。天を仰ぎたいエリナードと気づいたイメルが再びすまなそうな顔をした。
「なんて素敵な名前なんだろう。エリナード……。綺麗な響きだね」
 先ほど拒まれたのなど忘れた顔をして男はまたもエリナードの肩を抱こうとする。すげなく体を開いてよけるエリナードに男は目を瞬く。
「なにか、ご機嫌斜めなのかな? あぁ、僕はアーディ。知っているだろう? トリフィックトフィーの吟遊詩人さ!」
 偉そうに言うアーディにエリナードとイメル、顔を見合わせてしまう。これはどう反応するべきなのだろうかと。
「よかったら――」
 何もよくはなかったけれど、何か申し出があるのならば乗るか。イメルが気にかかっている何かの手掛かりになるかもしれない、二人が思ったところだった。
「え……アーディ。誰、その人」
 つぶらな目をした可愛らしい青年だった。潤んだ目を見開いてアーディを見つめている。裏切られた、顔に書くよりはっきりと語っていた。
「エトレ。なんでここに? って、ロアンかよ。なんでこんなところにエトレを連れてくるんだ、あなたは。危ないじゃないか。そう言う意味だからね、エトレ」
 後半は言い訳だろう。多少は慌てているらしい。二人の魔術師はそんな彼らを見やって内心でうなずき合っている。
「アーディさん。そちらは?」
 イメルの示唆に嫌々従ってエリナードは笑顔で紹介を求める。エトレと呼ばれた青年と、その一歩後ろに下がってこちらを睨んでいる男。意に介しもせずエリナードは微笑みを浮かべていた。
「あぁ、エトレはうちの曲馬団の大事なお客様なんだ。そっちの男はどうでもいいじゃないか」
「聞きたいな?」
「うーん、あなたが気にするようなものじゃないんだけど。曲馬団にはやっぱり裏方ってものが必要だから、仕方なくいるんだよ、こういうのも。舞台装置なんかを手掛けている男でね」
 大事な客、と言ったときのエトレの表情。エリナードは見逃さなかった。ここまで傷ついた顔をさせておいてアーディはまったく気にしていなかった。垂れてきた自慢の銀髪を見せつけるよう背にさばく。染めていると気づいていたエリナードは馬鹿馬鹿しいより腹立たしい。
「――ロアンと言う。あんたがたは」
「待てよロアン、失礼なやつだな。僕が知り合ったんだぞ。あなたが口を出す――」
「アーディ、僕に帰れって言ったのは、どうして」
 ぽつりと零されたエトレの言葉。これにはばつが悪くなったかアーディが咳払いをした。足を踏みかえる様は困惑しているかのよう。
 ――違うね、苛々してる。感情の制御が物凄く苦手みたいだ。
 イメルに伝えられ、エリナードは心の中でうなずき返す。ロアンの表情が徐々に険しくなってきていた。ここは介入するに限る。正直言って他人の色恋沙汰に興味はない。が、イメルが気になっている何かの調査が滞るのは避けたい。
「せっかくだ、どこかに入ろうか。そちらの人たちもご一緒に、いかがです?」
 こんなところで痴話喧嘩をやらかすつもりか、と言う意味は特には持たせなかったつもりだった。が、エリナードの言葉はそう解釈されても致し方ない。
「違うんだ、エリナード。そんなんじゃないんだよ、わかってくれるよね」
「さぁ? 初対面のあなたのなにをどうわかれと言うのか、私には理解できませんよ」
「そんな、酷いよ」
 向こうでエトレが唇を噛んでいた。ロアンがいまにもこちらに殴りかかってきそうで気が気ではない。
 が、アーディも苛立っていた。こんなところをエトレに見られるとは思ってもみなかった。わざわざ連れてきたのだとロアンを恨む。今にも泣きそうなエトレを守るよう立っているロアンにアーディは侮蔑の眼差し。それでもここは多少の言い訳は重ねておくべきか、とも思った。
「あなたのことは大好きだよ、エトレ。それはわかってくれてると思ってたんだけど。こんなことで焼きもちなんて、あなたらしくもないじゃないか、ね?」
 どうとでも解釈できる言葉だった。エトレはいままではこれで誤魔化されてきたのだろう。けれどいまははっきりと唇を噛んでアーディを見ている。
「ま、ここは私の馴染みの店にでも行きましょうか」
 正にそよ風のようなイメルの言葉。さすが風系、エリナードは内心で小さく笑う。そのエリナードの心にイメルの苦笑。
 ――お前、魔法抵抗強すぎ。そのせいで気づいてないだろ。アーディって男、意識してるんだと思うけど、魅了の魔法使ってるよ。
 ――はい? あ、マジだ。あんまりにも稚拙で気づかなかったわ。
 ――師匠が誰だったのか、知りたいな。これ、放置してちゃまずい類の使い手だよ。
 もしも弟子が倫理観に欠けると判断したのならばその魔力を摘むのもまた師の役目。それをせず放置したのならば責任を問われるのは師のほうだ。イメルの言葉にエリナードも心の中では厳しい顔。表面上の笑みは崩さないままに。
「あぁ、そうだな。少し喉が渇いたよ」
 にこりとイメルに向かってエリナードは微笑みかける。ほんの一瞬で済む精神の接触は呼吸の合間にすらなっていなかった。
「その男の馴染み? どんなところなのか……あなたに相応しくない店なんじゃないのかな、それは。ほら、僕のところにおいでよ。曲馬団に僕専用の箱馬車があるんだ」
「まぁ、どんなに豪勢な馬車だろうと馬車よりくつろげることは確か、かな」
「だいたい、あなたは何者なんだ。エリナードと親しそうなふりはやめた方がいい。無様だよ」
 どうせ甘い汁を吸えると首を突っ込んできた吟遊詩人に過ぎないだろう、アーディの仄めかしにロアンの顔つきが変わる。さすがに無礼が過ぎると思ったらしい。それにエリナードはほんのりと微笑んで見せた、気にしていないと。
「どんな関係と言われても……。そうだなぁ。寝室を共にしている仲、かな?」
 ここはロアンのほうを懐柔したほうが話が早そうだ、思って笑みを浮かべていたエリナードは危ういところで絶句するのをこらえる。確かに、嘘ではない。嘘ではないが真実では断じてない。
 ――吟遊詩人らしい騙りをするようになったもんだぜ。
 心の内側の苦情にイメルは答えず、照れたような笑みを浮かべてエリナードを見つめるばかり。それにエリナードは諦めて肩をすくめた。
「そんな……。あなたに相応しくないじゃないか。こんな地味な男は」
 絶句したのはアーディのほう。エリナードとしてはなんとも微妙な顔をせざるを得なかった。が、エトレがあからさまにほっとした顔をしている。こんな男でもエトレには大事な恋人らしい。
「イメル、喉乾いた」
「はいはい、じゃあそちらのお二人も。夕食はまだでしょう? ぜひ一緒に。私の知っている店だから、大丈夫。ちゃんと吟遊詩人が稼げる店ですよ」
 言いつつイメルがエリナードに寄り添った。眉を顰めさせるほどあからさまなやりようではなかったけれど、それでも二人は恋人同士と誰にもわかるその距離感。ぞくぞくとするエリナードだった。
「稼げるってどう言うことだよ?」
 まだ不満そうにイメルに突っかかるアーディに、彼は吟遊詩人がその技で稼ぐのは王都では当然のことだ、と王都を強調して語っている。その隙に、とエリナードはエトレとロアンを待っていた。
「彼はあなたの恋人?」
 微笑んで尋ねれば可愛い巻き毛が弾むほどエトレが勢いよくうなずいては拳を握る。渡さない、子供じみて愛らしい姿にエリナードはつい微笑んでしまった。
「僕は君ほど綺麗じゃないけど、でも」
「大丈夫、さっき声をかけられただけだから。――ロアンさんって言いましたね。私は手仕事の類が好きで。職人技は尊敬に値します」
「――職人技? そんな御大層なものじゃない」
「どこがですか。公演を拝見したけれど、素晴らしかった、特に大道具がよかった。あれがどれだけ芸人の技を支えているのか、技術の素晴らしさが見てとれましたよ」
「……見られているようじゃ、まだまだだ」
 言いながらもロアンは少し緊張を緩めたようだった。そんなロアンとエリナードにエトレが瞬きをする。舞台道具を褒める人がいるなど思ったこともなかったと。
「あんたは、不思議な人だな」
 エトレから一歩下がって彼を守っていたのだろうロアンだった。それがエトレの隣に並び直す。エリナードには敵意を解いた、そんな姿に見えた。




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