立ち寄りたいところがあるから先に戻っていて。朗らかなアーディの言葉とともにエトレは一足先に帰ろうとする。はじめての王都アントラルだけにさすがに何度となく道に迷ったのだけれど幸い危険な目に合うこともなく天幕までたどり着いた。 「ただいま!」 エトレの声に団員たちが大らかに迎えの声を上げてくれる。この雰囲気がたまらなく好きだった。生家にはない雰囲気だ、とエトレは思う。 彼はミルテシアの王都生まれだった。それも名を上げればおそらくは知らない人がいないだろう豪商の次男だ。上には兄が一人と三人の姉がいる。遅くに生まれた末の子を父親はたいそうに可愛がって人の噂話ではエトレの言いなりだ、とのこと。 事実だったのかもしれない。トリフィックトフィーをエトレが知ったのは去年の秋口。もう一年近く前になる。ちょうど母の実家がある地方に遊びに出かけていた先で曲馬団に出会った。以来、曲馬団に同行している。無論、何ができるわけではなかったし、芸人になりたいなど微塵も思っていない。ただ、楽しかった。そんな末息子を案じて父はせっせと使いを寄越しては金を渡してくれる。 「エトレさん、おかえりなさい。どこに行ってたの」 綱渡りの少女がエトレに話しかける。年が似通っているせいだろう、こうして話しかけられることがエトレは嫌いではない。 「銀細工を見に行ってきたよ。素敵なのがあったんだ。やっぱりラクルーサの王都だね。話題になってるものがちゃんとある」 道々話に聞いていた銀細工師の作品だった。今はある貴族の家宰に納まっているだとかであまり流通しないとのこと。取引がある細工師の工房が見つけられたのはよいことだった、とエトレは思う。 「アーディに似合いの綺麗な細工だったよ。あの銀髪に本当によく似合ってて」 うっとりと呟くエトレの背後からだった、その声が上がったのは。まず綱渡りの少女が緊張する。そしてそろりそろりと引き下がり、エトレが振り返るころには姿を消していた。 「また無駄金を使ったのか、エトレさん」 武骨な声はロアンのもの。振り返り、確かめてみても消えはせず、エトレは腹が立って仕方ない。こんな裏方にどうこう言われる筋合いではないと思う。 「君には関係ないだろ、僕のお金なんだから」 「あんたのじゃないだろう? あんたの父さんが息子が不自由しないようにって送ってくれてる金だろうが」 「だったら僕の金も一緒じゃないか。父が僕のためにってくれたものを僕がどうしようとそれこそ君に何を言われる筋合いでもないね」 ふん、と鼻を鳴らしてどこかに行こうと思う。確かこの時間は軽業の少年が稽古をしていたはず。あれを見に行くのも面白いだろう。そのエトレの前、ロアンはまわり込む。 「なぁ、エトレさん。そりゃ確かに俺がどうこう言う筋合いじゃない。確かにそのとおりだ」 「だったらどいてよ、邪魔だよ!」 「だけど少しだけ、言わせてもらいたい。あんた、なんで一人で戻った?」 「そんなこともわからないの? アーディは忙しいんだよ? 彼の邪魔になるようなことは僕はしたくはないね」 誇らしげに言うエトレにロアンは小さく溜息をついた。こらえたかのようなそれがエトレの癇に障る。かっとして頬でも張ってやろうとしたその手を掴まれた。 「ここは、王都だ」 「知ってるよ。僕だってミルテシアの――」 王都の生まれだ、王都というものがどんな場所か知らないはずはない。言い返そうとしたエトレは息を飲む。黒々としたロアンの目に飲まれていた。 「それもだ。あんたは軽々しくミルテシアの生まれと口にする。それがどんなに危ないことなのか、あんたはわかってない、アーディは教えるつもりもない。一人で戻したのだってそうだ。はじめての土地で、はじめての興行だ。こっちもなにがあるかまだ全然わかってない。あんた一人でふらふらさせて平気な土地なのかどうかもまだわかってない」 「それは君がわかってないだけだろ! アーディは」 「アーディだってはじめてだって言ってただろうが。ちょっと歩いてみて大丈夫だと思った? あいつはそこまで曲馬団の暮らしが身についてるわけじゃないぜ」 世の中を渡り歩く曲馬団の暮らしだ。慣れてくれば確かにそのような勘働きは鋭くもなる。酒を飲んでも平気な店か、食事もそこそこに立ち去った方がいい土地か。ロアンは自信がある。父も母も曲馬団の裏方を務めていた。先代団長の元、二人が楽しくあれこれ発案していたのを思い出す。だから、ロアンは生まれてからずっと曲馬団暮らしだ。 けれどアーディは違う。エトレはどう思っているのか知らないが、エトレとアーディ、ほとんど同時に加わったようなもの。団長がどこからともなく連れてきたのがアーディと言う吟遊詩人だった。 「まだなんにもわからない土地だぜ。俺だったら、あんたを一人で帰したりしない」 ぐっと肩を掴まれて、エトレは吹き出した。懸念の表情が少し過ぎていて面白かったのもあるし、何より口説かれているような妙な気がしたせい。 「なに? もしかして僕は口説かれているのかな、君に?」 それこそミルテシア人らしく洒脱に言えば落胆、否、軽蔑したようなロアンの表情。掴まれていた手はエトレが払い落とすより先に外され、ロアンは背を返す。 「アーディは、あんたが思ってるような男じゃないと俺は思う。よく見た方がいい」 一度立ち止まり、振り返ってはそれだけを言ってロアンは立ち去った。掴まれていた肩には鉋屑。仕事をしていたのだろう。 「……なにがしたいのか、わからないよ」 仕事の途中で手を休めてまでわざわざ言いに来るようなことだろうか。それも人を不快にするだけして。 「つまんない仕事、してるしさ」 曲馬団は何より華やかな芸が売り。エトレはそれだけを思っていた。彼には溺愛だけをする父がいる。だからこそかもしれない、わからないのは。陰で支える人間の偉大さというものがエトレにはわからない。 「大道具なんかなくったってアーディの歌は素敵なのにさ。そうだよ、他の人たちだってさ、あんな舞台装置なんかなくったってかっこいいのに」 ぷりぷりと言いながら歩いて行く。天幕の中は幾つかに区切られ、舞台の背後に当たる場所は芸人たちの練習の場だ。そこを通るエトレの小声に団員たちは揃って目をそらして行く。 「そうだよね? あんなさ、ごてごてとしたものなんか、要らないと思うよね」 捕まってしまったのは綱渡りの少女。側にいたものが肩をすくめて気の毒そうにしているのもエトレには映らない。 「ん、エトレさんが何を言いたいのか、あたし馬鹿だからよくわかんないんだけど。でもあたしの芸はほら、綱渡りじゃない? だから大道具がないと、仕事にならないからね」 それはそうだった。舞台の端と端に備え付けられた櫓に張り渡された綱。それだけではあまりにも寒々しい。だからこそ櫓には飾り付けが必要だし、何より少女に危険がないよう櫓の強度は重要なもの。綱だとてあだやおろそかにはできない。 「あぁ、そうだったね。君はそう言う仕掛けが必要な芸だものな。これは僕が聞く相手を間違えたよ」 小さく笑ってエトレは片手を上げる。それで気が済んだのだろう。それ以上団員を捉まえて言い立てるようなことを彼はしない。 「さすが大店の坊ちゃまだよねぇ」 昼間の公演には出ない、柔軟技を売りにする妖艶な女の呟く声。呆れてはいるものの、そのからりとしたところがエトレは団員たちに好まれてもいた。 「エトレさん、不思議な人だよね。表だけを見てたい人なのに、裏方に入り込んで、それでも楽しそうにしてるんだもん。あたしなんていまだに名前も覚えてもらえない」 「おいそこの綱渡り!」 誰かがエトレの真似をして、練習中の芸人たちが揃って笑う。少し性格に難があるかもしれないけれど、エトレは団員たちにとっては大事な人だった。何より、金がある。団が潤うのは団長でなくともありがたいこと。自分の財布に直結しているとなればなおのこと。 仕事に戻ったロアンは芸人たちの上げる笑い声を天幕の外で聞いていた。大道具を作るのに中ではできない。大工道具を動かしながらロアンは苦々しい。 「所詮は金づる、か……」 団員たちの考えを一概に否定はしにくいロアンではある。曲馬団暮らしが長いと言うことは困窮もまた知っていると言うこと。エトレが来て、それはなくなった。 団員はアーディのおかげ、と彼がいる場所では言う。団長も言う。けれど実体は違う、とロアンは気づいている。 エトレだった。彼がアーディに贈る装飾品の数々、好きなものを食べてほしいから、と買い与えている食材。いずれも一度は天幕に運び入れられ、そして闇から闇に換金されている。エトレは気づかない。彼はアーディや団長とだけ食卓を囲んでいる。その場には団員とは違う料理が乗るのだから。 「あの野郎」 何よりロアンが苦々しいと思うのはアーディだった。エトレは贈り物を金に換えられているなど夢にも知らない。アーディは「大事にしまってあるんだ、あなたからもらったものだからね」など甘いことを言う。それを疑いもしないのはどうかと思うが、貴族より裕福な暮らしをしていたエトレのこと、そんなものかとも思わなくもない。それをよいことにさっさと売り飛ばしているアーディを思う。 「あれだって」 今買ってやったばかりの細工だとて、いったい何日アーディの手にあることか。売り飛ばされる細工も憐れなら、エトレも哀れだ。団長と二人、アーディはそれで酒でも飲むのか。 ロアンは舌打ちをする。雨でも来るのか、少し湿気が強いらしい。木材が思うようにならなくなってきた。 「ほんと、腹立つわ」 木材か、アーディか。それともエトレか。アーディが換金したものがすべて団に入っていると思うほどロアンは善人ではない。たぶん、団のためと言う体裁を付けるためにほんの少し、入れているだけだ。 「それも……」 変だな、と今更思った。団の潤い方とエトレの懐具合、釣り合わない気がする。いくらなんでも潤い過ぎだった。 そもそもアーディがロアンは好きではない。あのちゃらちゃらとした態度が気に食わない。団長はいたく買っているふりをしているし、団員は金のなる木と思っている節がないでもないせいでアーディの歌を褒める。けれど断じて良い歌ではないとロアンは思う。それなのに、アーディが入ってきて以来、客入りは常にいい。そのせいか。 「反省、すべきは俺。かな?」 ほろ苦く笑い天を見上げればやはり雨が来るのだろう。どんよりとした雲がみるみるうちに厚く黒くなる。黙って空を見上げるロアンの頬を雨粒が濡らしたのはそれから間もなくのことだった。 |