どうにもすっきりとしなかった。それも致し方ないか、とエリナードはほろ苦く笑う。狭い寝台から体を起こし、しばしの間ぼんやりとしていた。 春先からの竜騎士団出向に続き、メリリの訪れとエリナードにとってはある意味では災難続き。自分の研究がはかどらなくて苛々とする。おかげで昨日は夜を徹して打ち込んだのだけれど、そんなもので解消するほど生易しいものでもない。 「ま、これからは落ち着くだろうしな。ぼちぼちやるかね」 口にした途端、いやな予感。仮眠から覚めたばかりの霞がかった頭がさっと晴れて行くかのよう。思わず口許を覆う。若干の吐き気と層倍する不安感。 「これは、なんかあるな……」 エリナードは神々の声を聞く神官ではなく一介の魔術師、それも弟子の身に過ぎない。それでも、あるいはだからこそ、なのか常人よりよほど勘が鋭い。そしてメリリの正体を逸早く悟ったよう、異変にも敏感と来ている。もっとも、常に発揮されるものでもなかったのだけれど。 「なんとかなる、なんとかなる」 タイラントの口癖を真似てみては跳ね起きる。もう昼も過ぎているけれど、何か少し食べて、そして研究に戻ろう。 「よ、エリナード! 暇だろ!?」 そう決めたというのに朗らかな突風。勢いよく扉を開けて入って来たのは同室のイメル。一人前の魔導師がいまだこうして友人との同室で過ごしているのはいかがなものか、そう思ってもエリナードは出て行けとは言いにくい。なにしろ自分もまた望んでいる。断じて口にすることはなかったが。 「暇なわけねぇだろうが。どんだけ研究溜まってると思ってやがる」 「でも、今日明日にどうのってわけじゃないだろ? だったら付き合えよー、なー、いいだろー、なぁ」 「あぁ、もう、うっさい! お前の猫なで声なんか気持ち悪いだけだっつーの。……ったく。で、どこに何しに行きゃいいんだよ」 これはもう素直にイメルの言うことを聞いた方が早い。悪気はなくともイメルは我を通すだろうし、特段嫌がっているわけでもない。ならば引いたほうが話が早い。師の下で溺愛されているうちに身についた術だった。 「町はずれにさ、曲馬団が来たんだよ。だからさ、その。見に行かないかなって、さ」 エリナードの溜息を完全に無視してもじもじとするイメルだった。普通ならば目当ての女が――あるいは男が――いるのかと問うところだけれどそこはイメルのこと。そんなはずだけはない。ふと気づいてエリナードの口許が緩む。 「メリリに見せてやりたかった、あの曲馬団かよ?」 言えばぱっと赤くなるイメルだった。メリリが去ったときこそ大慌てだったイメルだけれど、徐々に寂しさが募ってきたらしい。メリリ、メリリと可愛がっていたイメルだった。 「ん、まぁね。きっとさ、どっかからもう見てるのかなって思うけど。でもさ」 エイシャ女神の化身であったメリリ。女神であるのならば何でも自在だろう、この世界を見回すことさえ。それでもイメルはあの小さく愛らしかった「メリリ」を連れて行ってやれなかったことを悔やむ、と言う。 「あいよ、わかった。付き合うぜ」 その心をエリナードは汲んだ。女神ではなく、少女のために悔いるイメルにこそ。ほんのりと笑って立ち上がり、身支度をする。何しろ倒れ込むように仮眠しただけだ。 「なぁ、エリナード。お前だってほんとはメリリちゃん、すっごく可愛かったんだろ。だから俺に付き合ってくれるんだ――って痛いだろ!?」 「痛いはずねぇだろうが。それは痛いじゃなくて冷たい、だ」 「なに言ってんだよ! 冷たいは極まれば痛いだ!」 もっともだ、と魔法でイメルを氷水漬けにしたエリナードはくつくつと笑う。そうするうちにもう身支度は終わりだった。身を飾る趣味などないからあっさりとしたもの。清潔であればよし、とエリナードは思っている。 「ほんとお前、なんにもしてなくってもいい男だよなぁ」 「お前に褒められても全然嬉しくないし」 「褒めて……たかな? ただの感想だと思うけど」 「だよな。俺もそう思ったわ、いま」 他人が聞けばなんと言う自信家、と思うだろうがそれはほとんど兄弟のような二人だ。この程度は日常会話でしかない。 イメルと共にひょいひょいと城壁を越えて行く。正規の場所を通っていてはどれほど時間があっても足らないから、魔術師は平気で跳んでしまう。衛兵もまた見逃している、と言うより気づけない。おかげで城下町につくのも早かった。そこからは路地から路地へと跳ぶ。一度に跳んでもいいのだけれど、万が一の事故を恐れて彼らはそうする。 「それに、便利なものもあるしな」 にやりとイメルが笑った。エリナードもまた悪戯をするよう笑う。もう今となってはずいぶん昔のことだが、エリナードがまだ少年時代のこと。転移魔法に使用する転移点の改良を試みたことがあった。師に与えられた課題は成功を見たものの、それで満足するエリナードでもない。色々と試して、結果。 「ガキのころの玩具だけどな。まぁ、役には立つしな」 実は城下町の至るところにその転移点が設けられていた。元はと言えば後先考えなかったエリナードの実験結果なのだけれど、きちんと機能すれば問題はない。おかげで星花宮の魔導師に至るまでが便利に使っている始末。 「魔法陣を何かに描くってのをやめてさ、魔法的に描くって考えたお前はやっぱりすごいと思うよ」 「俺じゃなくても誰かが考えつくだろ、たぶん。と言うか、きっと師匠が考えついてた。俺は偶々師匠が忙しかった隙にできただけ」 肩をすくめるエリナードにイメルは笑う。相変わらずの師匠贔屓だと。イメルにだけは言われたくないエリナードだった。 そうこうするうちにトリフィックトフィー曲馬団の大天幕。赤と黄色の派手な縞模様も鮮やかな天幕に次々と人が吸い込まれて行く。 「行こうよ!」 イメルが走り出そうとして、さすがに恥ずかしかったのか多少は歩調を緩める。これではメリリを連れて行きたかったのか自分が見に来たかったのかわかったものではない。笑いつつエリナードも心弾むものを覚えなくはない。天幕から聞こえる華やかな音楽、人々の声。悪くはないなと思う。 「へぇ、けっこうお手軽」 誘ったのは自分だから、とイメルが木戸銭をおごってくれた。子供同士のやり取りのようでそれにも笑い出す。胸を張るイメルだからよけいに笑えて仕方ないエリナードだ。 「ふうん、なんだこれ」 入り口で配られたのは親指の先ほどの包みだった。席についてしげしげと見ればイメルに笑われた。 「なんだ、知らないのか? ここの先代の団長がトフィーって言ったんだってさ。で、自分の名前にちなんでお馴染みさんにってお菓子のトフィーを作って配ったらこれが大当たり。菓子だけでも売ってくれって言われるほどの人気でさ、曲馬を見に来た人にはお試しにってひとつくれるんだって。帰りにお土産でどうですかってところかなー」 からからとイメルが笑うから先代がどうのはきっとたぶん作り話なのだろう。曲馬団の口上を真に受けていては馬鹿を見る。それでも中々うまいやり方だなとは思った。ぽん、と包みをはがして口に放り込む。たっぷりの甘さが蕩けるよう。こりこりとした木の実もいい風味だ。 「うんうん、これは土産になるね。うまいじゃん」 「……な」 「エリナード?」 「師匠の菓子のほうが好きだって言ったの! うっせぇよ、お前!」 まだなにも言っていないイメルの頭を殴れば近くに座っていた客がこらえきれなかったよう吹き出す。どうやら先ほどからやり取りが耳に入っていたらしい。 「すいません、うるさかったですね」 「いえいえ、お気になさらず。若い方のお喋りは耳に心地よい」 初老の男性だった。ゆったりとした佇まいが、人間とはこう年を重ねたいと思わせるかのよう。イメルも同じことを思ったのだろう、顔を見合わせてほろりと笑う。二人は魔術師だった。 「……まぁ、土産には買っていってやるかな。あの人、忙しくしてるから」 ぼそりと言えばイメルが笑う。近くの客も事情はわからないなりに楽しそうに笑っていた。そうしているうちに一度明かりが落ち、再び明るくなる。はじまった口上の大袈裟さにエリナードは唖然とした。 「……あれ、マジ?」 イメルに身を寄せて囁けば冗談だろうと肩をすくめられた。エリナードともあろうものがあんな戯言を信じるのかと。 「まさかとは思うけどよ。でも、外にいないとも限らないからな」 ここにタイラントの弟子を名乗る吟遊詩人がいると述べた口上。エリナードの言ももっともだった。いまでこそ魔術師であるタイラントだけれど、彼は吟遊詩人でもある。その歌の技だけを継いだ弟子がいてもおかしくはない。 「いたら俺が知ってるよ?」 イメルに言われてほっとしたエリナードだった。あからさまなまでに息をついている少し年下の友を見つめるイメルの眼差しは優しい。 ――フェリクス師が浮気されたみたいに感じてるのかな、エリナードって。可愛いじゃん。 考えた途端に心に衝撃。思い切り小突かれてイメルは慌てる。どうやらエリナードが傍らにいるせいでくつろぎ過ぎたらしい。伝えるつもりのないことが伝わってしまって苦笑した。 ――それでも一人前の魔導師様ですかね、イメル・アイフェイオン師。弟子に感じ取られてるようじゃまだまだですな。 にやりとしたエリナードの心の声。イメルは言いたいことはいくらでもあった。自分より才能にあふれているこの友がいまだ弟子の身であるのがまず信じられないからはじまって、最近の悩みごとに至るまで色々と。だがぐっとこらえる。それをまたエリナードが面白そうな顔をして見ていた。 はじまった曲馬は心躍るものだった。特に軽業が素晴らしい、チェル村でディルが言っていたとおりの技を彼らは披露する。 「エリナード、眠い?」 が、さすがに睡眠の足りていない身だった。タイラントの弟子を名乗る吟遊詩人の登場に一気に眠気が襲ってきた。 「まぁな。あれだし」 イメルの苦笑する気配。タイラントの弟子はおろか、吟遊詩人としてもまともな訓練を積んでいないのは明らか。しかも少々魔法の才があるのか自力で演出を加えているのがまたあざとい。 軽く頬杖をつきながら、エリナードは眠気に耐えていた。せっかくイメルが誘ってくれた見物だ。と言ってもイメル自身、この詩人の歌にはつまらなそうにしていたのだけれど。 |