彼の人の下

 エリナードはぐるりと首をまわす。どうにも疲れが取れない。子供たちの遠足を終え、星花宮に戻ったのは数日前。散々遊び倒された大人としては自分にも休暇が欲しいと願うのもやむなし、というところ。
「今日は曲馬団を探しに行こうねー、メリリちゃん!」
 それなのに一緒にいるイメルときたらまだ元気そのものだ。いったいどういう体力をしているのかと思ってしまう。いまは二人、メリリを連れてフェリクスの部屋に向かっているところだった。
 つい先ほどだった。食堂で三人、少し時間外れの朝食を取っていたのは。エリナードはない食欲に鞭を打ってなんとか飲み下す。イメルとメリリはあれこれと楽しそうに選び出す。メリリなど食後にと、あのお気に入りだった銅色の髪の人が持ってきてくれた焼き菓子を実においしそうに食べていた。
 その焼き菓子は料理長の悩みの種だとエリナードは知っている。彼の焼き菓子は本当に美味だ。これでもここは王室の離宮、料理人も一流だ。それなのに、その焼き菓子よりずっとフェリクスの焼き菓子のほうを子供は喜ぶ。焦げた練り粉の塊でしかないというのに。味で言うならば料理長のそれのほうがずっとうまいとエリナードも思っている。それでもやはり、フェリクスの菓子のほうが彼もまた好きだった。
「メリリ」
 ひょい、と部屋にあったフェリクスの菓子を魔法で取り寄せメリリに渡してやる。焦げた物体に目を丸くしたけれど、まるでメリリはそこに込められたフェリクスの思いと、いまのエリナードの思いをも汲み取った、そんな顔をして嬉しそうに食んだ。
 そうして三人、フェリクスの元に向かっている。曲馬団のあとは何をしよう、どこに行って何を食べて。王都には色々楽しいことがたくさんある。騒ぐイメルと微笑ましげに見上げているメリリ。すっかりお気に入りになったあのリボンが腰でひらひら揺れる。エリナードは苦笑しつつ眺めていた。
「師匠、入りますよ」
 なんの用事だろうと思ってはいた。もっとも、おおよそメリリのことだろうとも思っている。何しろフェリクスはメリリを同道するように、と告げてきていたのだから。
 そして部屋に入るなり、メリリがエリナードを見上げた。ふんわりと微笑んで、繋いでいた手を離す。思わずもう一度とってしまいたくなるほど、こちらのほうが切なくなるような笑み。エリナードはぎゅっと手を握り込む。それをフェリクスとタイラント、なにも言わずに見ていた。
「――愛し児よ、いずれに?」
 イメルがぎょっとした。エリナードも実は同感だ。言葉を発したのは、メリリだった。二十日は共にあったと言うのに一度として口をきかなかった彼女が。
「ここにおりますよ、最愛の方」
 振り返れば、笑みを浮かべつつリオンが入ってくるところ。カロルもその後ろに続いている。そしてリオンはそのままメリリの前に膝をつく。少女の身長に合わせたのではなかった。確かに彼は敬意として彼女の前に膝をつく。
「楽しゅう過ごしました」
「それはよかった。中々悪くはないところでしょう? この世界が大好きですよ、私」
 にこにこと笑うリオンにエリナードは内心で小さく溜息をつく。いまならばフェリクスが常々言っているリオンの悪口に全面的に賛同できそうな気すらする。隣でイメルが口を開け閉めしていた。
「もう一人の愛し児はいずこに?」
「御前に、愛すべき方」
「苦労をかけました。おかげで善きものを見ることができました。アルハイドはいまもなお、美しくありましたね」
 苦笑しつつカロルもまた、膝をつく。エリナードとしてはそれに驚く。彼が膝を屈した場面など、見たことがない。いまだ弟子の身で王宮に出仕することがほとんどないせいだからではある。それでもカロルがと思えば驚きは強かった。
「なに、お気になさらず。なにしろ愛すべき方だ。こっちが色々すんのは筋ってもんでしょうよ。だいたい苦労したのはそっちのガキどもだ。俺じゃねェ」
 が、さすがだな、と感心してしまった。この状況にあって常の自分を貫けると言うのは大したものだ。イメルなど真っ青になって震えているというのに。倒れるのではないかと気が気ではなかった。そのイメルにメリリの眼差しが向く。
「曲馬団とやら、楽しみにしていましたが残念です。そろそろ時間が来たようですから」
 柔らかに微笑む少女にして少女ではないもの。イメルはもうわかっているのだろうか。わかっているから震えているのだろうとは思うが。
「あ……あなたは……」
「おや、イメル。まだわからないんですか? この方は我が最愛の女神、最愛のエイシャですよ。もっとも、そのお力のほんの小さな欠片ですがね」
「リオン師ー!! どうしてそう言うことをさらっと言うんですか!? だって! 親子だって言ってたじゃないですか!?」
「親子ですよ? ただ、こちらが親だとは一言もいってないですけどね、私。それに回りくどく言っても同じじゃないですか」
 リオンの言い分をころころとメリリ、否、エイシャの化身が笑う。少女のような、成熟した女のようなその声。それなのになぜかエリナードは優しかったころの母の笑い声を思い出した。
「この身を楽しませようと尽くしてくれたあなたに、わたくしは何をして差し上げられましょうか」
 確かに女神の化身だな、とエリナードはのんびりと思う。隣のイメルが震えているおかげで冷静だった。エイシャ女神自身は何をしているつもりもないだろう。たぶん、メリリとして存在する以上のことは何もできないのだろう。それでもただここにいるだけで、何かが違う。声まで震えながらイメルがようやく言葉を絞り出していた。
「な、なにも……。ただ、いつか。いつか、もっとずっと、技量と、魂が追いついたいつか。そのときには、あなた様であった少女の歌を作ることをお許し願えれば。それで、充分です」
「なんとささやかな。楽しみにしていましょう」
「あ、ありがとうございます!」
 今度は赤くなった弟子の姿をタイラントが微笑ましげに見ている。どことなく身の置き所がないように見えるのは、タイラント自身はエイシャの信徒ではなく、その侍女神の信徒であるせいかもしれない。
「あなたは。なにかありますか」
「何も。メリリと遊んでる俺を見てた師匠が楽しそうでしたからね。それで充分ですよ」
「まぁ、なんと心優しいお子よ」
 鈴でも鳴らすようなメリリではない少女の笑い声。あのくすくす笑いのほうがずっと好きだったな、思ってエリナードは顔を顰める。その向こう、耐えられなくなったのだろうカロルが腹を折って笑っていた。
「本当にフェリクスにはもったいない弟子ですよねぇ。いい子すぎますよ、あなたは」
「そうですか? ただ師匠が苛々してると俺に実害があるからってだけですが」
「ま、タイラントの次に八つ当たりされるのはあなたでしょうしね」
 そう言うことだと笑うエリナードをフェリクスが顰め面をして見ていた。事実は違うと、その場の誰もがわかっている。フェリクスはエリナードに当たったりしない。たぶん、少女にもわかっているだろう。なにしろ彼女は女神なのだから。
「ご迷惑でしたか、勁き方」
 ちらりと彼女はフェリクスを見やった。その眼差しなのか、それとも違う何かなのか。フェリクスは黙って肩をすくめる。そのまま手を伸ばせば、そればかりは当たり前の少女のよう、彼女は笑って彼の腕の中に飛び込む。
「別に? うちの子は文句を言いながらでも楽しそうだったからね。いつかこの子が弟子を持ったらあんな顔するのかな、とか思いながら眺めてるの、楽しかったよ」
「それはよかった。気にしてはいたのですよ、これでも」
「意外だね。女神様なんだし、好きなようにすればいいじゃない」
「色々あるのですよ、色々と。――世界の歌い手、あなたにも手間を取らせました」
「とんでもない! 俺はただ、見ていただけです」
「見守っていた、の間違いでしょう。あなたの歌の眼差しを、ずっと感じておりましたよ、優しい歌い手」
 ほんのりとしたその眼差しこそ、優しかった。ぱっとタイラントの頬が明るくなる。フェリクスを見やり、その腕の中の少女を見つめ。
「できればあなた様に一度ちゃんと歌を聞いていただきたかったですけどね」
「いいえ、あなたの歌ならばすでに何度も。この身の元に、あなたの歌は届いておりますよ、世界の歌い手」
「よかったじゃない? でもね、愛すべき方。そう言うこと言ってこれを泣かすのはやめてね。それをしていいのは僕だけだから」
 涙に潤んだタイラントの代わり、フェリクスが少女をからかっては笑う。豪胆だな、とエリナードは言葉もない。仮にも女神相手にどうしてあんな態度でいられるのか。さっぱりわからなかった。
「そろそろ戻ります――」
「今度はもっとちゃんと遊びにおいでよ。僕らも忙しくって時間なかったし。ほんとはリオンと一緒に遊びたかったでしょ、あなた?」
「えぇ、今度はそういたしましょうね。――愛し児たちよ、いずれまた会いましょう。待っておりますよ」
 フェリクスの腕の中から抜け出して、彼女は膝をついたままのリオンとカロルの額に触れる。紛れもない祝福だった。神官ではないその場の魔術師たち全員が感知できるほど強烈な。知らず膝をついたエリナードとイメルの下にも彼女はやってくる。そして笑いながらその頬に軽いくちづけが。羽根でも触れたようだった。
「どうぞわたくしを忘れないでくださいませね」
 忘れるなどできるはずはない。イメルが真っ赤になって何度もそう言っていた。エリナードは苦笑して手を伸ばす。一度だけぎゅっと抱き締めた。
「忘れないよ」
 ふわりと笑ったメリリであった少女の顔。忘れられないだろうとエリナードも思う。
「お二方とも、どうぞ幾久しく健やかに。いずれまたお目にかかりましょう」
 振り返った彼女がフェリクスとタイラントにそう言った。そしてまるで幻のよう、霞が立つ。柔らかな東雲色の雲が湧きあがり、目を瞬いたとき、彼女はもうどこにもいなかった。お気に入りのリボンが別れの挨拶のようたなびいた、そんな気がした。
「……いやはや。まさか女神の顕現を見ることになるたァな。思ったこともなかったぜ」
「あなたがそれを言うわけ? 僕なんか頭抱えたくなってたんだけど!」
「そのわりには冷静でしたけどねぇ。タイラントは卒倒しそうになってましたけど」
「……普通、なると思います」
 タイラントに全面的にうなずきたいエリナードだった。が、うなずいてもタイラント師弟に反論される気がしないでもない。
「ちょっと待って、エリナード。おい、あの……。え? ほんと?」
「なにがだよ?」
「だから、いまの、メリリちゃん……じゃなくって……その!」
「お前、遅ぇよ!」
「だって! なんでお前、そんなに冷静なんだよ!?」
「エリナード。最初から気がついてたよな。さすがと言うか、シェイティの弟子だよなぁ」
 タイラントが言うに至ってイメルは失神しそうになっていた。くらくらとした眩暈を感じているらしい。
「別にそれがいい悪いじゃねェんだぞ、そこのガキ」
「そうそう。エリナードは魔力に対する感応力が敏感なだけですね」
「不愉快だけどリオンに同意、かな。サガの時もそうだったじゃない。エリィは感度が高いだけだよ」
「だからどうってわけでもねェやな。なんかいるなって気がつくだけだろ?」
「はい、カロル師。単純に気がつく、それだけですから」
「……もしかして、師匠がたもお前も。俺を慰めてくれてる?」
「全然。あとで落ち込まれるとめんどくさいから今から布石を打ってるだけ」
 ばっさりと切り捨てたエリナードにイメルの恨めしそうな顔。まるでメリリだったころの彼女のよう、フェリクスがくすくすと笑った。その声にだろうか、はたとイメルが正気づく。
「ちょっと待て、エリナード! お前、最初からわかってたんだったらなんで教えてくれなかったんだよ!?」
「お前がおろおろすると俺の正気まで怪しくなりそうだったから。それだけ」
「自分のためかよ! なんてやつだ!」
 喚くイメルを四魔導師が笑う。エリナードも笑う。イメル自身、喚いて多少はすっきりするだろう。そしてそのあときっと彼はいなくなってしまった少女を思い出しては哀しくなる。そんな友がエリナードは好きだった。照れくさくなってイメルの背中を強く叩く。ひときわ彼の声が高くなる。遠いどこでもないどこかから、少女の笑い声が聞こえた、そんな気がした。




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