彼の人の下

 小さな手。ほっそりとした指。実際は成人男性としては小ぶりだ、と言うだけでさほど小さな手ではないとエリナードは思う。それでもそう言いたくなる印象がフェリクスの手にはある。その指が自分の頬に触れている。嘆けばいいのか溜息をつけばいいのか。諦めのいいフェリクスの弟子は肩をすくめてされるままだった。
「ねぇ、エリィ。『元気だった』の?」
 まるでそれは少しの間離れていた師が弟子の安否を気遣うかの。エリナードは苦笑する。少女たちはきゃっきゃと騒いでいたが、彼には師が何を言いたいのかわかっている。
「元気でしたよ、もちろん。普通にしてましたからね」
 自分ではなく、森番たちが。表向き、友人の子孫と言うことになっている――事実でもあるが――森番たち。だからと言って、その程度の淡い繋がりでフェリクスが厚情を向け続けるのはあまりに不自然。
 だからこそ、フェリクスはどれほど心配していても気にかけていても、彼らの元を訪えない。せめて顔を見て安心したいだろうに。
「心配しすぎですよ、師匠」
 だから自分が派遣された、エリナードはそれを知っている。会いに行くことのできないフェリクスの代わりに。
「そう? よかったよ。でも、心配しすぎってこともないじゃない。あなたの心配だったらいつもしてるよ、可愛いエリィ」
 にっこりと膝に収まったまま笑うフェリクス。頬に触れていた手をそのまま首に投げかけてきた。少女たちが息を飲む。笑いでもこらえているに違いない、エリナードは取り合わない。遺憾ながら星花宮ではよくある景色に過ぎないのだから。
「ったく。こういうことはタイラント師にしてくださいって。ほら!」
「ちょっと、エリィ?」
「動くと落としますよ」
 にやりとしたエリナードはできあがった花冠をぽん、とメリリの頭に乗せ、そしてフェリクスを抱いたまま立ち上がる。横抱きに抱え上げれば、ざわざわとした少女たち。
「メリリ、どうする。一緒に来るか?」
 足元の少女に言えば、少しばかり考える風情。ちらりとフェリクスを見やれば楽しげな顔をしていた。困ったものだ、とエリナードは内心で苦情を言う。
「あ、メリリちゃんだったら私たちが見てますから。大丈夫ですから!」
「そうそう、気にしないでフェリクス師とご一緒してください!」
「……なんか、とんでもないこと言ってるって、わかってるんだよな、お前ら?」
「え? 全然?」
 綺麗に揃った少女たちのにやにや笑い。肩をすくめてエリナードは退散する。メリリが小さく手を振って送ってくれた。
「いいんですか、師匠」
「ん、なにが?」
「ろくでもない噂を助長してるだけでしょうが」
 言った途端、抱かれたままのフェリクスが笑い出す。腕の中で暴れるのはやめてほしいと切に願うエリナードだった。
「あなたのほうじゃない、そう言うことしてるの。ほんと、可愛いね、エリィ」
「誰がですか! 最初に師匠がおぶさってきたんでしょ」
「そうだっけ? 別にいいけど」
 よくないのは自分だ、とはエリナードは言わない。言っても無駄だ。少女たちも人の話を聞かないけれど、フェリクスは輪をかけて聞かない。
「どうせ俺で遊んでたんでしょ。別にいいですけどね」
「あなたが可愛いのはほんとだよ。それは忘れてほしくはないけどね。――あの子たちにも楽しいことが必要なんだよ、可愛いエリィ」
「それが俺ってのが腹立ちますが」
「違うよ? 僕とあなたを見てきゃあきゃあ言いたいみたいだよ。よくわからないけどね。なんだか楽しいらしいしね。無害だし、別にいいんじゃないの。そういう年頃なんでしょ」
「……無害、ですか?」
「少なくとも僕はね」
 つまり自分には実害があるのではないだろうか。一瞬悩んだもののエリナードは忘れることに努める。万が一、本当に実害が出た場合、断固とした態度に出るのは自分ではなくフェリクスだとエリナードは知っている。
「それにしても……腹立つなぁ」
 横目でフェリクスを見やる。彼は気づいたのだろう。にんまりと口許だけで笑っていた。抱き上げられている、抱いて歩いている、そんな甘ったるい姿勢なのに師弟の間にあるのはそれとはかけ離れたもの。
「いつかけたんですか」
「ん、なにを?」
「わかってるくせに。重量軽減。いつかけたのか、わからなかったんですよ、ほんと、腹立つ。やっぱ、だから俺はまだ弟子なんだって実感しますよ」
「そんなことないと思うよ。あれだったらたぶん……タイラントは絶対わからないかな。リオンも危ないね。カロルがぎりぎり気がつくかどうか、かな?」
「――そんな高度なことをさらっとやらないでくださいよ、もう!」
「勉強になるでしょ」
「なりますけどね。なんですか、高速詠唱だけじゃないな、それだったら俺でも気づける。……軽減化と、圧縮を別働? んー、手間すぎるか。あぁ、そっか。気がつかなきゃいいんだ。軽減化を圧縮して高速で二重詠唱。――事実上の無詠唱化か!」
「そうそう。わかってるじゃない。さすが僕の息子。出来がいいね」
「わかるとできるは違うんですよ、師匠」
「わかればいずれできるよ」
 そんなはずはないだろう。エリナードは言わなかった。フェリクスの言葉どおり、いずれそこまで到達して見せる。そしてその先に行ってみせる。言う必要などどこにもない。そして向こうで悲鳴が上がった。
「ほら。面倒くさい」
 それをあなたが言うのか。エリナードの内心の叫びが聞こえたかのようフェリクスが笑う。少年たちと一緒になって遊んでいたタイラントの悲鳴だった。その場にはちょうどイメルまでいる。
「はい、タイラント師。お届け物ですよ。ちゃんと綱つけといてくださいよ」
「あぁ、悪かったな……ってそうじゃないだろ!? なんで君がシェイティといちゃいちゃしてるんだよ!」
「語義の訂正を求めます! 俺はいちゃついてたんじゃないです、絡まれてたんです!」
 ようやくあげられた叫び声。すっきりとしたかと言えばそんなことはない。イメルがその場で腹を折って笑い転げていては台無しだった。
「まぁシェイティは君と遊びたかったんだろうけどさー。それにしたって」
 文句を言うタイラントにエリナードはフェリクスを抱かせる。そうすれば黙るだろう、間違いなく。案の定、静かになったタイラントの顔はとても弟子の前とは思えないものだった。
「こういうことは俺じゃなくてタイラント師にすりゃいいんです」
「だよな、エリナード! 君もそう思うよな、いいこと言うよ」
「ちょっとタイラント、やめてよ。離して!」
「師匠ー。そりゃないでしょうが」
 涙目になっているタイラントの腕からフェリクスは飛び降りる。実に軽々としているところを見ればタイラント自身が上手に合わせて離したとしか思えない。
「あなたはいいんだよ、ちょっとした冗談で済む。タイラントは生々しいじゃない」
「なるほど……確かに生々しい。えぇ、そりゃ生々しいでしょうよ。生々しい、ね」
「エリィ!」
 フェリクスの声にエリナードは莞爾とする。少しばかり赤くなった師の姿。久しぶりに勝った気がした。
「そう言うことしてるからお前はフェリクス師の浮気相手だとか言われんだぞー?」
「この人が浮気できる男かどうか、俺はタイラント師の次によく知ってるよ」
「だよな! そうなんだよ、シェイティ――」
 何を言おうとしたのであってもいまのフェリクスを相手にするのは分が悪い。フェリクスはむやみに弟子に手を上げる男ではない。結果として、八つ当たりの対象になるのはただ一人。
 面白いものだとエリナードは周りを眺めていた。師たちの痴話喧嘩を見ていても仕方ない。少女たちは何があっても動じないと言うのか、たとえこんな場面に出くわしてもなんとなくこの場にいる。少年たちはあっという間に逃げて行った。
「男には居心地が悪いもんかな」
「あー、男の子たちは逃げるよな。俺たち、どうだったっけ」
「逃げさせてもらえなかった」
 言えばイメルがどよりと沈む。当時のことを思い出したのだろう。イメルにとってはどうか知らないが、エリナードにとってはよい思い出だというのに。
「おや、賑やかだ」
 救い主が現れた、とイメルは喜んだ。次第に激しくなっていくフェリクスとタイラントの言い争い。間違いなく痴話喧嘩で、エリナードは放っておけばそのうち収まるはずと思っているのだが、周囲のほうが気を使う。そこに現れたキャラウェイとディル。微笑む双子にイメルが息をついていた。途端にぴたりと言い争いが終わるのだから面白いものだった。
「ほらな? やっぱり遊んでるだけじゃねぇか。師匠たちだって遠足ではしゃいでるんだよ。それだけでしょ、師匠?」
 そのとおり、と苦笑まじりのフェリクスの眼差し。色々と苦労も多い四魔導師だ。息抜きくらいならばいくらでも付き合う、エリナードはそう思う。イメルも同感だったらしい。
「それで、どうしたの。キャラウェイ卿」
「いや、賑やかなので思い出した。少し前に曲馬団が通って行ったのですよ。北から興行してきて、秋は王都に行くと」
 曲芸を売りにする旅芸人の一座で、中々面白い芸をした、とキャラウェイは言った。双子で見物に行ったのだろう。つくづく風変わりな領主だ。
「王都でもし見つけられたら、メリリが喜ぶのではないかと。ふと思い出して伝えてみようと思ったんですよ、フェリクス師」
「トリフィックトフィー曲馬団って名乗ってましたよ。軽業が上手で、とても楽しかったんです。小さな女の子が見ても安心だと思いますし」
「……楽しそうだな。メリリも喜びそうだし」
 双子が代わる代わる勧めるのについエリナードが言ってしまった瞬間だった。イメルが思い切りよく吹き出したのは。
「笑うんじゃねぇよ!」
「笑わずにいられないよ!」
 そろそろ居心地の悪い喧嘩も終わっただろうか。覗きに来た少年たちはまた泡を食って逃げて行く。今度はイメルとエリナードの言い合いを目撃する羽目になったとあっては致し方ないのかもしれなかった。




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