「あー、頭痛ぇ」 チエルアット領主館の前、エリナードは顔を顰めている。手を繋いだメリリが小さく笑って見上げてくるけれど、それにもまた顔を顰める。隣でイメルが肩を震わせていた。 少しずつ、少しずつ轟音が近づいてくる。否、轟音と言うには少々甲高い。きん、と耳が痛くなってくるほど。 「来た来た、来たよー!」 イメルが大らかに手を振った。エリナードは今からでも逃げ出したくて仕方ない。チェル村の外れに大規模転移してきた、星花宮の子供たちだった。本人たちは楽しくお喋りをしてはしゃいでいるつもりだろうけれど、大人の耳にはいささか刺激が強すぎる騒音だ。 「お前、よく平気だよな」 「って言ったってさ。俺たちだってあんなもんだっただろ? しょーがない、しょーがない」 「……諦めがつかねぇよ」 長い溜息をメリリが笑う。口許に両手を当てたその姿。子供らしいのに妙に気品があってエリナードは困っている。 そうこうするうちに子供たちが到着しはじめた。まず先頭を走ってくるのは十歳ばかりの子供たち。すでに二度か三度、遠足を経験している子供たちだ。集団の中ほどに小さな子供たちがおずおずと加わり、最後はそろそろ行く末を決めようか、と言う十五歳くらいの少年少女たち。一番後ろでタイラントが手を振っていた。無論、その横にはフェリクスがいる。 「あ、師匠だ」 嬉しそうなイメルの声にエリナードは呆れ顔をするけれど、たぶん考えていることは同じだ。こんな年になってもまだ、師の顔を見ると安心してしまう。 「なんだよ?」 見上げてきたメリリがくすりと笑った気がした。それなのにこんなに柔らかな目で彼女は自分を見上げてくる。落ち着かなくてならない。 「ご苦労様、イメル、エリナード。大変だっただろ?」 タイラントが子供たちに集られながら歩み寄ってきた。フェリクスはちらりと笑い、領主館の中へ。キャラウェイと会談があるのだろう。その前にぽん、とエリナードの肩を叩いて行った。少女と共にある弟子の姿に思うところでもあったのか、いつになく楽しげな師の姿。エリナードまでつい、笑みをこぼす。 「いやまぁ、遠足の先乗りは別に大変でもなんでもなかったんですけどね……」 「あー、わかる。でも、俺も否定はしにくいけど肯定は断じてできないからな? そのあたり、汲んでくれるだろ」 「遺憾ながら、汲めますね」 「さすがエリナード。シェイティの息子はいい子だよなー」 「こんなときだけ褒めてもなんにもでませんから!」 タイラントとエリナードが言葉を交わすのをイメルがにこにこしながら聞いている。少しだけ、兄ぶりたい日なのかもしれない。子供たちを見てふとそんな気分になったのか。そうだとすればくすぐったいものだとエリナードは思う。 「ほらほら、みんな。あんまり騒ぐんじゃないよ! 決めてあったとおりにまず部屋に行って、荷物を置いてくる。それからだったら遊んでいいから!」 大人たちの会話など何するものぞと子供たちの声が大きくなっていた。よくぞ毎年この集団を受け入れてくれているものだとエリナードは今更ながらチェル村の人々に感謝の念が湧きあがる。 「おいでー、行くよー」 「こっちも行くよ。遅れないでね」 「女の子たちは私について来て!」 年嵩の少年少女の声。イメルと顔を見合わせてしまう。あの頃の自分たちはどうだったか、と思えば。 「まぁ、あれくらい年には俺もお前ももう弟子だったけどさ」 「でも、あいつらのほうがしっかりしてるよなぁ。俺、無理だわ」 「お前まだ人見知り直ってないもんな」 「だいたいは平気になった! 昔ほどじゃねぇよ!」 言ってしまってから馬鹿なことを叫んだものだとエリナードは頭を抱える。それをタイラント師弟が笑うのだから始末に負えない。自分の師がいない以上ここは分が悪い、とばかりエリナードは退散しようとする。 「ちょっと待って、エリナード。――メリリ、元気だったかな? 何もなかったなら、いいけれど。二人は優しくしてくれた?」 タイラントが長身を折るようにしてメリリに話しかけている。照れてしまうのか、メリリがもぞもぞと体を動かす様をイメルが目を細めて見ていた。が、エリナードには見えてしまった。タイラントとメリリの眼差しが正反対であったのが。彼の目には確実に尊崇が浮かんでいた、と。何も見なかったことにしてエリナードは目をそらす。内心で溜息だけをついた。 「そうか、よかったよ。この子たちはいい子でしょう? メリリとはちょっと縁が遠いけど、俺とシェイティの自慢の弟子と息子なんだよ」 「……師匠」 「あ、息子なのはエリナードのほうな? だってエリナード、シェイティの息子だし。君は俺に息子って呼ばれたいか?」 「……考えてみたら、ちょっと気持ち悪いです、それ」 「だろ? 俺たちはやっぱり親子って言うより師弟だよな」 「ですね。やっぱりエリナードんとこは変だと思います」 「それ、シェイティの耳に入ったら君、死ぬほどとんでもない目にあわされるからな? ちなみに俺は報告する。黙ってたら俺が殺されるから」 「ちょっと師匠!?」 イメルが悲鳴を上げてメリリが笑う。それで普段の空気になった。エリナードは慌てて首を振る。普段ではない、慣れてしまっただけだ。ただそれだけで、決して通常の生活ではない、これは。それこそ慣れればいいのにとでも言うような目でメリリは彼を見上げた。 「あぁ、ほら。追いつかれちまった。逃げようと思ってたのに」 子供たちが領主館から駆け出してくる。すっかり逃げ時を失ったイメルとエリナードだった。イメルは元々子供たちと遊んでやるつもりだったらしいが、エリナードは心底逃げたかったものを。 「そんなこと言わないでたまにはお兄さんしてやれよ」 「……俺が?」 「うん、お前が。――いや、俺が言ったんだけどさ。似合わないよな、お前」 当たり前だ。言い返すより先にイメルが少年たちに捕まってしまった。ものすごい勢いで攫われて行く親友をエリナードは小さく笑う。 「あいつ、吟遊詩人でもあるからあんまり星花宮にはいないんだけどな。どういうわけか男どもには人気がある」 不思議そうに見やっていたメリリに言えばまだその場にいたタイラントににんまりされる。どうやら板についている、と言いたそうだった。ここは逃げるに限る。幸いイメルが攫われて行ったことで子供の波は一段落だ。 「ちょっと散歩でもするか?」 メリリを連れていれば、なにもしていないとフェリクスにからかわれることもないだろう、というのは打算にすぎるか。逃げ出す口実だとわかっているはずの少女はそれでも楽しそうにうなずいてエリナードを引っ張った。 珍しいな、とエリナードは思う。たかが数日の付き合いではある。それでもメリリがこうしてどこに行きたい、なにを見たいと意志を見せたことはなかったように思う。 言われたままにメリリと歩いた。去りがてにタイラントに手を振れば眩しそうな眼差し。エリナードではなくメリリを見ていた。 「ん、森か? チェリットのほうが深いけどな。こっちはせいぜい林程度か。でも、綺麗だよな」 メリリの行く先は領主館からも見える木立だった。チェリットの森で見た妖精の輪が楽しかったのだろうか。エリナードは内心で首をかしげている。 まだほんのりと夏の気配を含んだ風が吹いてくる。それでももうそれは秋風。メリリの小麦の髪がなびいた。はっとするほど美しくて、エリナードは驚く。無論、感じたのは性的な美しさではなかった。エリナード自身、同性愛者で女性には心が動かない。まして相手はまだ小さな少女だ。 「タイラント師の、歌だ……」 世界の歌い手がその喉で奏でる歌。エリナードも聞いたことが一度ならずあった。本当はこんなものではないよ、とフェリクスは言う。最高の歌はフェリクスのためだけのものだとタイラントも言う。それでもなお。 いま、メリリの姿にエリナードは彼の歌を感じた。あるいはそれは、世界の美というものを感じたのかもしれない。 「メリリ」 振り返った少女の眼差し。ふわりとほころんで、腕の中に飛び込んできた。腰に結んだエリナードのリボン。風になびいて、そして当たり前の音が戻る。梢を渡る風の響き。小鳥の歌。そして聞こえる、子供たちのはしゃぐ声。 「うわ、最悪だ」 エリナードは天を仰ぐ。一瞬の崇高な美が瞬きより短い間に現実にとってかわられる。それもまたこの世界か、そんなことを思ってはタイラントのようだとふと笑う。 「エリナードさんだ!」 彼が最も苦手にしている子供たち。すなわち、年嵩の少女たちだった。五人ほどの彼女たちもまた、木立でお喋りか、花摘みでもして楽しもうとしたか。 「……おう」 片手を上げて挨拶だけは、した。そしてできれば通り過ぎてくれますように、と祈る。根本的に信仰のないエリナードの祈りだ、誰に届くこともなかった。つまり少女たちに取り囲まれた。 「可愛い! この子、エリナードさんの?」 「娘がいるような年か! いや、年だけどよ。違うだろうが」 「えー、だって可愛いし」 それとこれとなんの関係があるのだろう。たぶん、考えても無駄だ。エリナードの諦めが通じたか、メリリが小さく笑った。 「うわ、笑うとほんとに可愛い。ね、お姉ちゃんたちと一緒に遊ぼう? もちろんエリナードさんも一緒だからね、大丈夫だよ」 大丈夫じゃないのは俺のほうだ。エリナードは言わなかった。経験的に言っても無駄だと知っている。フェリクスに次いで、星花宮の少女たちは人の話を聞かない。フェリクスで慣れているエリナードは早々に諦めると言うことを知っていた。 「ね、お名前はなんて呼んだらいいのかな?」 「メリリって呼んでやってくれ。――だから、俺の子じゃねぇっての。リオン師の親戚の子だとよ」 「へぇ、そうなんだ! 道理で可愛いわけだね。大きくなったらきっとすっごい美人さんになるよ、メリリちゃんはー」 頭を撫でられてくすぐったそうに笑うメリリに少女たちが騒ぐ。可愛い可愛いと大騒ぎだ。自分などいなくともかまわないだろうに、思ったけれどメリリがしっかりと手を握っているのだから逃げられようもない。自棄になってメリリを抱き上げれば少女たちがきゃっきゃと喜んだ。意味がわからずまたエリナードは天を仰ぐ。 |