彼の人の下

 森番役の小屋の中は質素なものだった。それでもどことなく端正な雰囲気があるのは二人のせいだろう。イメルは小屋の中を見回しつつ小さく微笑む。
「なんだよ?」
 気を張っているのだろうエリナードだった。本当に自分は知るべきではないことを知りかねない位置にいまいる。それをイメルが実感したのがこの瞬間。大丈夫だ、と微笑んで見せてもエリナードは肩をすくめるばかり。
「ちょっとさ、懐かしいなって」
「ほう、イメル……さんは、このような場所を懐かしいと?」
「イメルでいいですイメルで!」
「だが……」
 言いつつバートがちらりとエリナードを見やる。なんのことだろうと思えばプレイズが笑った。エリナードまで一緒になって笑うものだから、メリリまでもつられている。
「バートさんもプレイズさんも俺のが年上だって知ってるさ。お前もなんだろうけどどうしようって気にしてんだろ」
「あー、気にしないでください。どう考えても俺、まだ子供なんで」
「だよなぁ、お前。ほんっとガキだもんな」
「お前に言われたくない!」
 胸を張るのはイメルのほうが年上だから。そんなことで張り合うイメルが面白かったのだろう、バートが目に涙まで浮かべて笑っていた。つい、とメリリがそこに進み出る。懸命に手を伸ばし、バートの目許に指を添えていた。
「ちょっと聞いてもいいですか? いや、他愛ないことなんですが。――もしかして、最近神殿に行くようになったとか、あります?」
「あぁ、チェリットの村にはエイシャ神殿があるだろう? お館様に連れられて行ったのが最初なんだが……バートが気に入ってな。俺も一緒に行ってるよ」
「なるほどね。いや、なんでもないです。なんとなく聞いてみようかと思っただけで」
 魔術師のなんとなくは恐ろしい、プレイズが笑う。そこに悪意も嫌悪もなくて、イメルはそれが嬉しかった。なにやらややこしい事情を抱えている人たちだというのはわかっているが、それでもエリナードに友人がいる。
「イメル、お前に見つめられても全然嬉しくないからな」
「そうじゃないだろ!? 俺はお前にもちゃんと友達がいるんだなって、すっごく安心してたんだからな!」
「いないとなんで思うんだかな。それと! タイラント師の真似はやめろ。全然似てないから!」
 鼻で笑うエリナードはそれなのに楽しそうだった。森番役たちは子供じみた彼の様子が珍しくて、つい笑みをこぼす。気づけばメリリがバートの膝に乗っていた。
「おや。本当に可愛らしい子だな」
 思わず撫でてしまっていた、と言わんばかりのバートの不思議そうな声。プレイズはおずおずと、それでもメリリの髪を撫でている。
「リオン師にはお目にかかったことが……ないんだが、こんな可愛らしい子が親類にいると言うのは、ずいぶんと日々が楽しいものだろう」
 あるのだろうな、イメルは察する。その上でリオンに会ったことはない、としておかねばならないのだろうと。ちらりとエリナードを見やれば気がつかなかったふりをされた。
「プレイズさん、ちょっといいですか」
「おう、なんだ」
「いや、ちょっと。――イメル、なんか弾いて差し上げろよ。こいつ、吟遊詩人でもあるんですよ」
 バートに言ってエリナードは席を立つ。にっこり笑っているからと言ってエリナードが緊張していないとはイメルは思っていなかった。ここは自分が頑張る場面、とばかりイメルは意気揚々と楽器を取りだした。
「……で。なんだよ?」
 小屋は狭い。台所、と言うようなものはなく、水場が小屋の隅に区切ってあるばかり。それでもせめて、とバートから離れたのは何か言いにくいことがあるからに違いない。プレイズは固い声でエリナードに問うていた。
「これ。師匠からです」
 何気なく辺りを窺い、エリナードは自分の体に隠すようにしてプレイズに瓶を渡した。言うまでもない、気にしたのはバートの目。
「なんだ? 瓶……?」
 遥かに緊迫感ある何かだと思っていたプレイズだった。優雅な瓶を手渡され、一気に気が抜ける。おかげでエリナードがせっかく隠したというのにバートの視線にそれがさらされかねない。慌ててエリナードが体で遮った。
「中身は何か、聞いてもいいのか。それとも、格段にまずい何かか?」
 あるいは自分たちの身に何かが起こりかねない、その暗喩か。鋭いプレイズの緑の目にエリナードは苦笑する。それから軽く爪先立って彼の耳元に囁く。
「……香油です」
「はい?」
「だから、香油。いるでしょ?」
「は……? いったいどういう……いや……」
 緊張するプレイズの口許が引き攣る。そしてエリナードの襟が引かれた。振り返ればにっこり微笑んだバートの青い目。
「お前はプレイズの愛人ではない、と言っていたはずだが。今更彼を口説くのはやめてほしいと思う」
「そんな気はないって言ってるでしょうが!」
「だが、いまのはどういうことなんだ、エリナード?」
 確かにいまのはそう見えても反論しにくいな、とエリナードは溜息をつく。向こうでメリリを側に呼び寄せたイメルがにやにやと笑っていた。
「プレイズさん、はっきり言っていいですか。それとも自力で説明、します?」
「はっきりも自力も何も、お前から渡されたこれをどうしろと」
「……もしかして、本気でわかってなかったり? あー、プレイズさん。香油の使い道って、知ってます?」
 言った途端だった。イメルが沈没したのは。さすがにまずいと思ったのだろう、メリリの耳だけは感心にも塞いでは身を折って笑っているが。
「使い道? そりゃ、手首の内側につけたり……たり……たり……」
 青くなったかと思ったら赤くなった。それも真っ赤になった。別段そんなものを見てもたいして嬉しくないエリナードだ。それよりできればこんなことになるより先に理解していただきたかった。
「で、俺が説明するのは違う気がするんですが」
「やめろ……俺にやらせるな……!」
「実演すりゃいいでしょうに」
 ぼそりと言ったエリナードにイメルがなんということを言うのかと声を荒らげながら笑う。一人不機嫌なのはバートだった。
「わかりましたわかりましたから! なんで俺が説明なんか……もう。要するに、そう言うときに使うもんです! あとは夜にでもベッドの中で使い道を確かめられてください!」
「な……お前……エリナード! 何を……なんと言う……エリナード!」
「非難は俺じゃなくて察しの悪い連れ合いに言ってください」
 二人揃って赤くなっているのだから初々しいにもほどがある。バートの苦労は絶えないだろうと思っていたものだが、これではプレイズも苦労しているだろうと思わなくもない。もっとも二人揃ってやっているのだから苦労も苦労ではないだろうが。
「それにしても、お前からこう言うものを……」
「いや、師匠です」
 言えばバートが絶句する。なにをどうしたものかと声もなく悶絶している美しい人にエリナードは小さく苦笑していた。
「まぁ、あれです。あの人にとっても生活必需品みたいなもんなんで」
「お前は淡々としたものだな」
「そりゃそうですよ。ガキの時から時々師匠がいい匂いさせてたりしてましたからね。はじめて事情を悟ったときのあのなんとも言えない気分、わかるでしょ?」
 にやりとしたエリナードに森番役たちが天を仰ぐ。イメル一人がうんうんとうなずいている。そのあたりが星花宮だとどうやら二人は思っているらしい。否定しにくいのが困ったところだった。
「一応、これが処方らしいです。エイシャ神殿に持って行けば同じ匂いで作ってもらえますよ。あそこは香油も手掛けてますからね」
「そう、なのか?」
「えぇ。ちなみに師匠がリオン師に頼んだって言ってましたよ。お二人に幸あれってあの人、本気で気にしてるんです」
「あー、エリナード。それ、俺、聞かない方がいい話じゃないの?」
 呟いてそっぽを向くイメルにエリナードは柔らかな眼差しを。彼がこちらを向くより先普段の顔に戻していて、そんな自分に師との相似を見てしまってはまた苦笑した。
「別に? この人は師匠の友達の子孫なんだそうだ。だから師匠は気にかけてて職の斡旋までしたってわけだ」
「フェリクス師の友達? ……猫、じゃないよな?」
 言った途端だった、エリナードが笑ったのは。森番役たちはきょとんとしている。当然だ。猫の子孫は通常、人間ではない。突拍子もないことを言ったイメルをメリリまで笑っていた。
「お前な! 師匠にだって友達の一人や二人、いるんだっつーの! ちゃんとした人間で、常人の友達が!」
「え、あ。だよな、そうだよな!」
「それ、師匠に言っとくから。イメルのやつは師匠に友達がいないって言ってましたーって」
「告げ口すんなよ!」
 わいわいと言い合いをはじめてしまった魔術師たちに森番役は意外と優しげな顔をしていた。エリナードの心遣いを感じたせいかもしれない。
「……色々失くしたけど、あんたがいる」
「まだ、友人、いや、友達もいるな。我々には」
「とんでもない保護者もいるしな」
 手にした瓶を振ればとろみのある油の音。ぱっと赤くなるバートの頬にプレイズは目を細める。容赦のないやりようだったけれど、心遣いは嬉しく思う。そのぶん、いままでの自分のやり方では、バートに対してあまりにもがさつだったかと反省するばかり。遊び慣れている自分だからこそ、最愛の人にはどうしていいかわからなくなってしまう、というのも言い訳だろう。
「君は君でいい。それで充分だ。変に気取ってほしくないぞ、私は」
「たまには格好つけた方がいいような気もするんだがな」
「似合わないぞ、プレイズ」
 にやりと笑うバートにプレイズは肩をすくめる。魔術師たちの口喧嘩は激しさを増し、それなのに間に挟まれた小さなメリリは二人をまるで母のような目で見ては微笑んでいる。少し、不思議だった。
「愛らしいが、不思議な子だと思わんか」
「思わないはずがない。なにしろ魔術師の関係者だからな。威厳がある少女と言うのがいてもいいのだろう、きっと」
 それで済ませていいのか、プレイズは迷う。が、エリナードがいるのならばそれで大丈夫だ。思った瞬間、なぜかプレイズは強かに爪先を踏まれていた。




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