彼の人の下

 目の変化は、フェリクスが言う通りおよそ一か月の時間がかかった。アルバートはその変化を毎日のよう観察しては楽しむ。
「もう、ずいぶん緑になってきたな」
 軽く目許に触れ、彼は微笑む。さほど背丈は変わらないというのに、こんなときアルバートはいつも眩しそうに見上げてくる。そう思うとプレイズとしてはくすぐったくてたまらない。あるいは怖いのかもしれない。この冗談のような幸福が。
「プレイズ?」
 自分の名となったものを呼ばれても当然に馴染んだとは言えない。それでもなぜか妙にしっくりとしてはいる。それが不思議でもあった。
「いや、なんでもない。じっと見られると照れるな、と」
「そんなことは――!」
「してただろうが」
 からりと笑えばほんのりと頬を染めるアルバート。一月もの時間は彼にもまた変化を与えた、とプレイズは思う。
 いままで公爵家の子息として、それも爵位を継ぐ嫡子としてあった彼だった。いままでその後ろ盾となっていたすべてを失い、アルバートはまるで生まれ直したかのよう。
 青薔薇楼と言う娼館であり神殿である館で保護されているうちに彼は真っ直ぐと己の内側を見つめ直したらしい。
「違う。はじめて見つけたんだ」
 アルバートはけれどそう言う。いままで見なかったふりをしていたのではない、あるとすら知りもしなかったものでもない。
「ないことになっていたもの、だったからな。私自身の意志と言うのは」
 次代の公爵として正しい姿であれるように。そうして進んでいたアルバート・ロレンス卿。いま一己のアルバートとなり彼は変わった。
「なにしろ保護しているのが我々双子神の神官ですからね」
 館の主イザベラは笑った。愛と欲望を司る双子神の元にいるのだから、そちらに素直になるのは当然だと。どう受け取っていいものやら、プレイズとしては戸惑うばかり。そのせいだったのだろう、きっと。
「――少し、話があるんだが。いいか?」
 なにも日がな一日、一月にわたって部屋にこもっていたのでは気が滅入って仕方ない。アルバートもプレイズもそれぞれが青薔薇楼の仕事を手伝ってみたりしている。アルバートはこんな些事などしたことがなくて、それはそれで楽しいらしい。ちょうどそうしてプレイズがイザベラの部屋で彼女の手伝いをしていたところに現れたのはおずおずとしたアルバートだった。
「ご機嫌よう、アルバート。ようこそ」
 館の主らしい言いぶりに彼が小さく笑う。彼女の冗談だ、とわかってはいるらしい。それでもまだ緊張の隠せない彼だった。
「どうした」
 立ち上がろうとすればそのままで、と手で制される。無言で隣にかけた彼がプレイズを覗き込む。じっと見つめてくるアルバートの目はもう紫めいてはいない。澄んだ青をしていた。
「我が儘を、言ってもいいだろうか」
「なにを唐突に。別にかまわないが。と言うか……我が儘?」
 育ちのせいか性格か、アルバートはよく言えば率直、悪く言えば我が儘だ。プレイズはそれを苦に思ったことが一度としてない。いまもただ笑っているだけ。イザベラが苦笑しては肩をすくめた気がした。
「……その……誓約、を。して、もらえないだろうか」
 きょとんとしてプレイズはアルバートを見つめる。何かを誓えと言われたのは、理解した。何を誓えと言うのかが、わからない。誓約とは何を、と尋ねようとしたところで気づく。危ないところだった。知らず息を飲む。
「その、だめか?」
 プレイズの硬直した表情にアルバートはうつむいていた。唐突だと言うのは言われなくともわかってはいた。ただ、不安だった。愛されてはいる。それを確認する日々でもあった、この館での暮らしは。
 それでも、不意に兆すものがないわけではない。竜騎士団でもそうだった。この館でもそうだ。
「――我が儘だと言うのは、もう言ったとは思う。いまだけ、率直に言ってよければ。――君は、とても魅力的だから、周囲に人が寄ってくる。それが私は、とても怖いんだ」
 ぽつりぽつりと言葉を紡いだアルバートは、きっとそれだけ切迫していたのだろう。イザベラの前だと言うことも忘れている。常の彼ならば、せめて二人の部屋に戻って話そうとは言ったはず。プレイズは黙ってその手を取っていた。
「イザベラ様。誓約式の司祭にお心当たりは――って、そうか。あなたも神官でした。お頼みできますか。いや、信徒でもないのにまずいか」
 今度硬直したのは言いだしたアルバートのほう。プレイズにとられた手が冷たくなるほど緊張していた。おずおずと顔を上げ、聞きたい言葉を聞いているのではないと確かめるよう。そして花開くよう彼は笑う。
「なにかご信仰は? 特にないのでしたら、頼まれてもよろしいですよ。あなたがたの仮の宿の主でもありますからね」
 片目をつぶって見せた茶目ぶりにプレイズは笑う。アルバートがやっと呼吸を思い出したか深く息をする。こつりとプレイズの肩先に額を当てた。
「我が儘を言って――」
「いや。――夢、みたいだな。怖かったのは、俺も同じだ。夢が覚めそうで、いまでもやっぱり怖い」
「馬鹿か、君は」
「たぶん、馬鹿だ。それでも?」
「君がいいと何度言わせるつもりだ」
 ふっとほころんだアルバートの目。プレイズはこの眼差しを生涯忘れないだろうと思う。同時にアルバートもまた。
「本当なら、指輪の一つも贈りたいところなんだが……」
 無念そうなプレイズにアルバートは笑う。形など必要はない、そう言いかけて、誓約と言う形を求めたのは自分だと気づいては赤くなる。
「いや、その。そうだ。私の指輪があるだろう? あれを処分して、新しいのを二人分、作ってもらったらどうだろう」
 オフィキナリス子爵としての印章指輪だった。いずれ処分せねばならないと考えていたのはアルバート。考えもしなかったのがプレイズ。いまもまだ胸元にかかっているそれを服の上からぎゅっと握る。
「――それはいい考えだね、持ってると危ないし」
 突然の声にぎょっとした。見ればフェリクスが出現している。背後には詫びるような眼差しのエリナードまで。
「ちょこっと話は聞こえたけど。イザベラ?」
 内密に転移してきたせいだろう、二人は過日のような盛装ではなく、平服姿だ。それにほっとするプレイズと、少しばかり残念そうなアルバート。互いに顔を見合わせては苦笑する。その間に誓約式をしたいと言う希望をイザベラが伝えていた。
「なるほどね。プレイズ、あなたはその指輪を処分したくないんでしょ。でもアルバートは持ってると危ないってわかってる。だったら僕に考えがあるけど、聞く?」
「是非」
 言ったのはアルバート。渋々とプレイズが同意する。それにエリナードが片目をつぶった。任せてくださいとでも言うよう。苦笑しつつもうなずけば、アルバートに睨まれた。
「いま持ってる指輪そのものを二つに分けてあなたがたの誓約の指輪にしたらどう? 形は変わるけど、処分したわけではないからプレイズの意にも適うだろうし、形は変わるから危険でもない。どう?」
 答えなど聞くまでもなかった。二人して目を輝かせる。見ているエリナードとしてはくすぐったくてたまらない。ここまで率直に甘い雰囲気は見た覚えがない。
「エリィ、造形やって」
「って俺ですか! 師匠がやりゃいいでしょうに」
 文句を言いながらプレイズが差し出した指輪を彼は受け取る。その手の上、大振りな金の指輪が形を失くす。そして目を瞬いたときには、ほっそりとした二つの指輪が。
「回帰円環って言いますけどね、この形。ほら、裏も表もないでしょ。ずっと繋がってる。お二人には、似合うかな、と」
 エリナードが示した指輪に二人は言葉を失う。何度も瞬きをしたのはプレイズだった。気づかなかったふりをしてさりげなく手を握ってくれるアルバートによけい泣きそうになる。
「未来への祝福? あなたも恥ずかしいことするよね、エリィ。だったら僕はもっと恥ずかしいことをしようか」
 まだ弟子の手の中にある指輪にフェリクスが触れた。たったそれだけ。だがエリナードが天を仰いだことで何かが起こったのだと二人は知る。
「はい、あげる。青金石、嵌めておいたよ。内側だから目立たないと思う」
「魔除けの護符とも言いますわね、青金石。フェリクス師のお優しいこと」
「イザベラ、いいから式次第でも考えて」
 ぷい、とそっぽを向く彼にイザベラがころころと笑った。そして二人に向かって簡略でよければこの場でしてもかまわない、と言う。いずれ盛大にするわけにもいかない誓約式だった。同時に彼らがうなずくに至ってイザベラは微笑む。
「あなたがたを思う人々は幸いここにおりますものね」
 フェリクスにエリナード、そして自分もだと。感謝の言葉すら出てこない二人にイザベラは笑みを向ける。慈母のようだった。聖娼でもある彼女だというのに。
 そしてイザベラ司式の下、彼らは誓約を交わす。生まれ直した場所から、新しい人生を、二人で共に歩いて行く。重ねられた手には、揃いの指輪があった。
「お祝いを申し上げますよ、やっとたどり着いたんだから。ほんっとに、二人とも手間がかかりましたからね!」
 エリナードに笑われて二人は顔を赤らめる。自覚はなかったが、手間をかけたのだろうとは思わなくもない。そんな自分に照れたのだろう、こほりとアルバートが咳払いをした。
「ところでフェリクス師。尋ねたいと思っていたんですが。――プレイズと言うのはどこから?」
 名づけのとき、あまりにもためらいがなかった。あのときには他に気にかかることが多すぎてそのままになってしまっていたけれど、アルバートには引っかかりがある。フェリクスがにやりと笑った。
「猫の名前だよ。友達が飼ってたんだ。野良の子猫を拾ってきてね、可愛がってたんだ。それが印象に残ってて」
「猫かよ! いや、別にいいですがね」
 文句を言うプレイズに、けれどアルバートは納得していた。彼は気づかなかったのだろう。「サジアス」と言う名の語源をたどり、現代風に気取って言えば「プレイズ」となる。そして「友達」の正体も。その友達がどんなつもりで「野良の子猫」を可愛がっていたのかは想像するしかない。だが間違ってはいないとアルバートは思う。そのとおりだよ、とでも言うようふっとフェリクスが微笑んだ。
「アルバート?」
 不思議そうに見つめてくるいまは緑となったプレイズの目。見つめ返すアルバートの目も、もう紫ではない。二人の騎士は消え去り、ここから別の人生がはじまる。
「君が好きだなと思って見ていた」
 ぱっと顔を赤らめるプレイズに肩をすくめるフェリクス師弟。しばらく二人きりにしてやろうと言うのか、イザベラが彼らを誘って部屋を出て行く。他愛ないことを話していた、気づきもせずに。これからのことを話していた。たくさんのことを。
「ただ、君が好きだと言っているだけのような気がしてきた」
 そのとおりだったのかもしれない。笑いあうプレイズとアルバートと。
「なにしろ生まれ直したからな。話すことも話したいことも、聞きたいことも。たくさんある。全部、はじめから」
 言いぶりに照れたプレイズの指、誓約の指輪がちらりと光る。その手に重なったアルバートの手。未来は拓けていると指輪は輝く。



 その秋。チェリット村の森で迷子が出た。まだ六つの幼い女の子が迷子になって両親は半狂乱。連れ戻してくれたのは、狩人だった。男の腕に抱かれて彼女は言う。
「とっても綺麗な妖精さんが助けてくれたのよ。森の精霊さまと、妖精の騎士さま! とっても素敵だったんだから!」
 狩人の腕から我が子を受け取った母はほっと息をつく。大笑いをしたのは父。
「そりゃ、ご領主様の新しい森番さんさ。妖精さんでもなんでもないぞ?」
 違うもの、言い募る娘に両親も狩人も笑う。安堵が呼ぶ笑いだった。
「明日にでも礼に伺わんとなぁ」
 言う父は、娘の言葉も間違ってはいない気がした。新しい森番役は確かに森の精霊とそれを守る妖精の騎士のようだと。そんな夢想を覚ますよう、妻が夕ご飯にしましょう、と声をかけた。親子三人は狩人を招いて夕食へ。
「精霊さま、騎士さま。ありがとう!」
 家の戸口で娘が振り返る。大きく振る手は誰にも見えない。夕闇が訪れ、家に灯る明かり。森番役たちも夕餉を囲むだろう、チェリットの森の中で。




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