彼の人の下

 悩んでいたばかりで、実際に自分が何かをしたと言う覚えがワイルドにはなかった。魔術師たちの疲労ぶりに申し訳なくなってくるのはそのせいだろう。それでも。
「……終わったな」
 様々なことが終わった、そんな気がした。騎士叙任以後ずっと側近く仕えてくれた優しい男を失った。友であり、兄のようであり、懐刀でもあったマケイン。竜騎士団を離れ、あまつさえ死亡すらも偽り。
「違うぞ、ワイルド。終わったんじゃない、はじまるんだ。すべて、ここから」
 隣のロレンスが真っ直ぐとワイルドを見やった。自分の言い様に照れたのだろう、ちらりと苦笑する。その表情にまた、ワイルドもそっとうなずいていた。
「あぁ、それ。やめた方がいいね」
 不意にフェリクスが言う。それ、と示されたものが二人にはなんのことだかさっぱり見当もつかなかった。肩をすくめたエリナードが名前ですよ、と教えてくれてもまだ意味がわからない。
「あなたがたはこれからいままでとは違う人間として生きることになるからね。ロレンスとワイルドは死んだんだよ? 違う名前の方がいいと思うけど」
 言われてみて、はたと気づく。フェリクスの言うとおりだった。ロレンスは何か思うところがあるのか照れ笑いをしては軽くうつむく。
「まぁね、家名を名乗るのはやめておいた方がいいでしょってだけだし。あなたのほうは名前でいいんじゃない? それほど珍しい名前じゃないしね、アルバートって。それでも目立ちそうだって言うならバートでもアルでも好きにしたらいいと思う」
 いい加減な、呟くエリナードにフェリクスは頓着していなかった。言われたロレンスこそ、どうしたらいいのか戸惑っているというのに。
「あ……いや、その。ロレンス……じゃない、あー」
「嫌ではないからな? それで戸惑っているわけじゃない。――君に名前で呼ばれたことがないな、と思っていただけだ」
「呼べるか、馬鹿!」
「なにがどう愚かなのか、とくと聞かせて――」
「その辺まとめてあとで二人きりでやって。人前で痴話喧嘩はやめてよ、もう」
「――それ、師匠が言います?」
「なんのこと? 可愛いエリィ」
「いーえ。なんでもないですよ」
 にっこりと笑った弟子にフェリクスはにやりと笑う。たぶんきっと、師弟が戯言を抜かしている間に少し落ち着け、と言われていたのだろう。ロレンスは落ち着こうにもどうにもならない。胸が弾んで、どうしたものか。ワイルドも実のところ同様だった。
「うん、あのね。あなたは名前で呼ばれるの、やめておいた方がいいよね」
「師匠、わかりにくい」
「だってこの子の名前、どう考えたって目立ちすぎるでしょ」
 言われてはじめてワイルドがぽかん、とした。意識していなかったわけではない。意識していたからこそ、誰にも呼ばせてこなかった自分の名前だ。生まれを誇示するような、アレクサンダー明賢王の兄王の名。シャルマークの大穴を塞がせたサジアス王その人の名。いま抜け落ちていたのは、やはり浮かれているせいか。小さく苦笑してワイルドはうなずく。
「ですね。悪目立ちにもほどがある」
「なにか自分で名乗りたい名前とかって、ある? ないんだったら、僕が名前つけてもいいかな?」
 ためらいがちなフェリクスにエリナードが意外そうな顔をした。それにワイルドは快くうなずく。慌ててロレンスを窺い、同意を求めた。
「私はよいと思うよ。なにしろ我々の新しい人生を作ってくれたお方だ。名付け親になっていただくのもいいだろうと思う」
 くすりと笑いロレンスはフェリクスに頭を下げていた。どれほどしても足らない感謝。フェリクスは軽く肩をすくめただけで笑いもしない。そんな師の姿にエリナードが片目をつぶった。
「――プレイズ、はどうかな?」
 まるでずいぶん前から決めていたかのようだった。迷いのないフェリクスに皆が驚く。はじめにうなずいたのはサジアス・ワイルド改めプレイズとなった男だった。
「よい響きだな、私も好きだ。――いや、響きがだぞ!?」
「ほう? 響きだけ?」
「だから!」
 ぱん、とフェリクスが両手を打ち鳴らす。慌てて二人が姿勢を正すのがエリナードにはおかしくてならなかったらしい。こらえきれない彼が腹を折って笑っていた。
「まだ用事はあるんだからね、二人とも。特に、アルバート、今度はあなたのほうだね」
 二度と家名は呼ばない、そんな証のようフェリクスはさらりと彼を名で呼んだ。ちくりとプレイズとなった男が胸の奥に痛みを覚える。はじめに呼びたかったな、と。そんな馬鹿気た思いを振り切って、彼もまたフェリクスに視線を戻す。
「私になにか?」
「はっきり言ってその目。金髪に紫の目って目立ちすぎでしょ」
「……それであの方にどれほど嫌がらせをされたことか。色味など好きで選んで生まれてきたわけでもないのだが」
「色味ってね。猫の仔じゃあるまいし」
 エリナードが笑ってくれた。ただそれだけのことで災難でしたね、と言うように。本当にそんな気がしてきて、アルバートは目を瞬く。年齢にすれば大差はない。けれど深みが違うと感じるのは彼が魔術師だからだろうか。
「特にこだわりがないんだったら、二人とも目の色を変えた方がいいと思うんだけど。どうかな?」
「変えられる……ものなのですか。目の色など」
「ほらね? 公爵家の息子のあなたですら、知らなかったような魔法の一面でしょ? だったら普通は気がつかない。髪は染められても目は変えられないって、思うじゃない?」
 何より優秀な変装になる。フェリクスは笑った。そのとおりだと二人はうなずきあう。プレイズとしては少し残念ではあった。長年、夢に思い描き続けてきた彼の姿。とはいえ、変化をしても彼は彼だ。プレイズは笑みを浮かべてアルバートを見つめる。
 見つめられたアルバートにしても少し残念なのは同じだった。氷色の彼の目が、笑うとほんの少し柔らかになる。それを見るのが好きだった従騎士時代。
「子供時代が遠くなる、というものかな? それはそれで先が楽しみだ」
「いいこと言うね。そう考える方が後ろ向きよりよっぽど僕は幸せになれると思うよ」
「ありがとう」
 励ましてくれたフェリクスに微笑めば、またもどこかを向いたままの魔術師。意外な人だな、とアルバートは思う。もっと早くに知り合いたかったなとも。そうすればこんなにプレイズとの間がこじれることはなかったのではないか。そんな夢想をしてみる。
「じゃあ、希望があったら言って。さぁ何色がいい?」
 子供のよう笑ってフェリクスは言った。好きなものを好きと言え、そんな風に言われた気がして二人は顔を見合わせる。何か思い出しでもしたのだろうエリナードがまた笑いをこらえていた。
「私は、赤味を消していただければいいと思う。碧眼であれば、珍しくもない」
「印象もそれほど変わらないままだろうしね」
「いいんですか、師匠。変装なんでしょ?」
「紫の目なんて言う珍しいものじゃなくなればいいよ。アルバート・ロレンスを特定する有力な手掛かりが紫の目だからね。金髪碧眼の美人だったらここにもいるじゃない」
 ひょい、とフェリクスが伸ばした手はエリナードの髪に。冗談のよう梳くのを弟子は嫌がるでもなく苦笑していた。
「はいはい、じゃあそっちはどうします?」
「俺? 俺は……」
「私が決めてもいいか? なら、少し緑がかった目に。かなり印象が違うと思う」
「好きなように。ちなみに選んだ理由は?」
「……別に、似合うかな、と。それだけだ」
 ぷい、とそっぽを向いたアルバートにエリナードがにんまりとした。その眼差しを浴びてプレイズはいたたまれない。身をよじるさまを魔術師二人がまた笑った。
「ならその線で行こうか。エリィ、水母作って」
「ブツだけでいいんですか?」
「いいよ、中の魔法はこっちでやる」
 肩をすくめたフェリクスにエリナードはうなずく。それから失礼、と断ってアルバートの目尻に触れる。
「へぇ、そんなこと考えたんだ。意味は?」
「そりゃ体に入れるもんですし。自分の涙で作ったほうが抵抗も拒否反応も少ないかと」
「ほんと、あなたは不思議な子だよね。こんな性格なのにこういうところは細やかなんだから」
「師匠にだけは言われたくないですよ」
 文句を垂れながらエリナードは魔法を紡ぐ。掌の上、フェリクスが水母と称した何物かが二つで一組なのだろう、出来上がる。
「失礼しますよって逃げないでください! 別に妙な気起こしてるわけじゃないんですから」
「いや、すまん。咄嗟に体が動いただけだ」
「逃げられるとね、疑われるのは俺ですから。ね、疑ってましたもんね、俺は愛人なのかって」
 ぱちりと片目をつぶってアルバートの疑念を暴露するエリナードにプレイズが唖然とした。そしてまじまじとアルバートの顔を見る。赤くなったと思ったら、うつむいてしまった彼だった。
 その間に、と言うわけでもないのだろうが静かになった環境を幸いと魔術師たちはせっせと仕事をする。二対の水母はフェリクスの手に。それは薄い水滴のようだった。
 エリナードはフェリクスが行使する魔法を食い入るように見ていた。師の魔法はいまでも彼の憧れで目標だ。弟子のそんな眼差しに気づかないはずはないフェリクスだったが何食わぬ顔で魔法をかけた。内心でだけ、くすぐったい思いをしながら。
「はい、できたよ。二人とも」
 一対ずつ手渡して行く。二人にはこれが何か見当もつかないのだろう。首をかしげて恐る恐る掌を見ていた。魔法が怖いのでなく、壊しそうでそれが怖いらしい。
「目に入れて。すぐに違和感はなくなると思う」
「入れて、そのままで?」
「うん。一か月くらいで消えてなくなるから」
 二人にはよけいな魔法の気配をさせてほしくない、フェリクスは言う。だからこそ、目そのものの色を変えると。魔法でそのように見せるのではなく。だからこそ、一月と言う時間がかかるとも彼は言う。
「いますぐやれって言われればできるけどね、ちょっと負担がかかるから」
 肩をすくめた魔術師に二人は顔を見合わせ、自然と下げた頭が揃う。それをまた二人が照れくさそうに笑った。
「二人とも、しばらくここで暮らして。目の変化が終わるまでここでこれからの生活をどうするか考えるといいと思う。あてがなかったら僕が面倒見るよ」
「考えてはみたいが、俺も彼も、なにぶん身分のない暮らしと言うのがわからない。お願いすることになると思う」
「だろうね、了解した。考えとくよ」
 そしてフェリクスはすらりと立ち上がる。いつの間にか立ち上がっていたエリナードが師の傍らにいた。忙しいのだろう、二人は瞬く間に消えてしまった。二人は顔を見合わせ、ついで吹き出す。ひどく幸福だった。




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