彼の人の下

 ぬくもりが、ゆっくりと離れて行く。それが不満でワイルドを見上げれば彼は笑っていた。ロレンスは目を見開く。ついで浮かんだ笑みはワイルドを驚かせるに充分なもの。
「その顔が、見たかったんだ」
 頬に添えられた手の温かさに、ワイルドはいまもまだ戸惑ってはいる。ただ、それは不思議ではあっても逃げ出したくなるようなものではもうない。
「ロレンス?」
 表情なのか、語調なのか。ロレンスがまたも微笑む。苦笑してしまえば、それにも彼は笑う。よく笑う男だな、不意に思っては懐かしくなる。
「昔、従騎士時代に見せていた顔だ。君は、そんな顔でよく笑っていた。――単に大人になったからなのかもしれない。でも、竜騎士団での君は、そんな顔をしなかったから」
 何か物足りなく思っていた。呟くよう言うロレンスにワイルドは小さく笑う。見られていたのだといまにして知った。昔もいまも。ロレンスにずっと。
「あの顔が見たかった。もう一度会いたかった君は、この君だ。ずっと、そっけなかったからな、君は」
「それは、まぁ……」
「避けられていた私がどんな気分だったと思っている」
「それはもう弁解しただろうが!」
「まだ聞いていないぞ。赴任時のことだけじゃないからな、ワイルド。昔のようにいられないと言うのは頭ではわかっていたつもりだった。それで納得していたつもりでもあった。でも、違ったわけだろう?」
 ワイルドには別の理由があってそうしていたのだから。問い詰めながらもロレンスは笑っている。弁解など必要ではないとすでに言っている。ワイルドはついに笑いだす。本当に、懐かしい気分だった。
「私は、ずっと君を追いかけていたつもりだった」
「まぁ、友人として?」
「と、私自身思っていたんだが。どうにも自分で自分が信用できない気がしてきたよ」
 肩をすくめてロレンスはワイルドの肩先に頭を預ける。なぜか、かすかに震えていた。どうしたらいいのかわからず、ワイルドは黙ってその肩を抱く。
「友人なんかじゃない。はじめから、君だけを見ていたのかもしれない。そんな風に思う」
「それは――」
「私の思い込みでも過去の捏造でも好きに言え。私はそう思う。それだけのことだ」
 くぐもって聞こえる声にワイルドは腕に力を入れた。ぎゅっと抱き締めればロレンスが息をつく。それがこんなにもありがたくて、どうしようもないほど。
「――無茶を、するよな。あんたは」
「なにを唐突に。あぁ、死んだことにした話か?」
「それも含めて、全部」
 この自分のために、何もかもを擲ってくれたロレンスの思いに応える方法がいまはまだわからないワイルドだった。その思いに応えられる自信がない。誰より彼が大切だと言い切れるのに、それでもなお。
「なぁ、ワイルド。考えてもみろ。私があのまま騎士団に所属を続けていたとしてもな、いずれ宮廷に戻ることになる」
「当然だろうが」
「そのときに私は誰とどう付き合うことになるんだ? 君を謀殺した輩と、何食わぬ顔をして平然と付き合っていかなくちゃならないんだぞ。――なんの拷問だ、それは」
「それでも、そうすべきだった。違うのか」
「べき、ではあるよ。私はそう生きるべき人間として生まれ、育てられてきたんだからな。ただ、君を知り、君への想いを知り、私はそんな生き方のどこがどう楽しいのかわからなくなった。そう言うことだ」
「楽しいってなぁ、あんた。そういうもんか?」
 呆れたワイルドの声にロレンスは顔を上げる。本心から呆れられていたらどうしよう。そんな不安がなかったとは言わない。見上げたワイルドはただ笑っていた。
「本来ならば楽しい楽しくないですべきことではないだろう。でも、私は違う生き方があると教えてもらったからな、エリナードに」
 近衛との演習の際、エリナードの知己だと言う騎士に出会った。彼は一門から見捨てられても、ただ伴侶だけを守り暮らす道を選んだ。家格が違うと言ってしまえばそれだけのことではある。
「私は、彼の生き方を見て、知って。違う方法がある、と言うことに気づかされたんだ」
「――意外とお節介をしていたわけだな、エリナードは」
「ワイルド?」
「いや。俺も似たようなことをやられたなぁと」
 ワイルドは話を聞いただけではある。傭兵隊に所属している貴族の子弟。身分を離れ、今では一介の傭兵として生きていると。
「別の生き方を選べる。そんな道もある。そう言うことを二人して教えられていたわけか……」
「感謝しているよ、私は」
「どうにも素直に礼を言う気分じゃないんだよな、あいつには」
 不満があるとありありと語るワイルドの眼差し。ロレンスはくすくすと笑いながらそれを見つめていた。
「なんだよ?」
「別に。君が好きだなと思って眺めていた。――君が、欲しいなと」
 かちん、と音がしたのではないだろうか。ワイルドだけではない、言ったロレンス本人まで。二人して身を寄せあったまま凍りつく。先にほどけたのはロレンスだった。
「ち、違う! そう言う意味ではない、馬鹿者! そう言うことは怪我が治ってか、か、か――」
「治ってから?」
「ワイルド!」
 声を荒らげたロレンスがこれ以上ないほど赤くなっていた。耳まで真っ赤で、従騎士時代の少年の風貌が戻ってきていた。懐かしいと言うより、嬉しい。もう一度、はじめられる。その思いに。
「いいのか、ロレンス?」
「だから! そう言うことはだな、怪我が!」
「そっちじゃない。俺なんかのために、あんたは全部なくした。本当にいいのか。いまだったらまだ――」
「君なんかのために? なにを馬鹿なことを言っている。君のためだから、私は何も失くしていないんだ。君がいる。それでいい。それ以上は、なにもいらない」
 真っ赤になっていたロレンスなのに、貫くような真摯な眼差し。口舌などでは断じてない、ロレンスの本音。ワイルドはそっと彼を抱きしめる。壊してしまいそうで怖いなどと言ったら彼は笑うだろうか。
「なにがおかしい?」
「なんでもない。笑われそうだなと思っただけだ」
「笑わせてくれてもいいが?」
 くすりとすでに笑っているロレンスにワイルドは息をつく。まだまだ戸惑い続けることはわかっている。いまは何もいらないと言ってくれるロレンスでも、時間を置けば苦労ばかりと知るだろう。そのとき、後悔だけはさせたくない。
「何度でも言うぞ。君がいてくれるだけで、私は充分幸せだ。それ以上を望むなど、とんでもないことだと思う」
「ちなみにそれ以上ってのは、なんだ?」
「さぁ? 自分で言っていてなんだろうと思っていた」
 言い分にワイルドは笑う。笑った彼にロレンスが視線を合わせる。どちらからともなく、唇を求め、竦んで離れたのはワイルドのほう。
「……ワイルド」
「いや、悪い」
「誤解しているようだがな、ワイルド。嫌がって怒っているのではないぞ。――どうしてそこで驚くんだ、君は! 言いたくはないが、私はそこまで純粋無垢ではないぞ」
 なにも知らないわけはないだろうと胸を張るロレンスにワイルドはぽかんとする。そのとおりだと思ってしまったせい。
「どうも、離れていた時間が長いせいか……。あんたをガキ扱いしそうだな、当分は」
「君は私がいない間に遊び歩いていたわけだしな」
「……それを言うな」
「失礼」
 いかにも公爵の子息らしい傲慢な言いぶりにワイルドは大きく笑う。それをまたロレンスが笑う。ただそれだけでいい気分だった。
「もう、夜も遅い。少し眠った方がいいぞ。まだ怪我人なんだからな、君は」
 続き部屋の寝室に視線を向けて、ロレンスは少しばかり落ち着かなげ。ワイルドは何気なく立ち上がり、ロレンスの手を取る。「怪我が治ったら」の約束は守られたのかどうか。
 翌朝も遅くなってからしどけなく目覚めたのも二人だった。怠惰な朝寝に苦笑しては顔を見合わせる。ほんのりと射し込む陽射しが目にまぶしいほど。
「……腹が減ったな」
 ぼそりと言ったワイルドにロレンスがそっぽを向く。見やった彼の耳の先が赤くなっていた。
 さすがに青薔薇楼、名うての娼館だった。続き部屋の居間のほうに戻れば、二人に気づかせないままに朝食の用意が調っている。甘い果物に蕩ける卵。薫り高いチーズに焼き立てのパン。ただそれだけの、どこにでもある朝食だ。それなのに。
「なんか妙に艶めかしいのは俺の気のせいかな」
「違うと思う」
 言いながらロレンスが飾り切りの施された果物を手に取る。ひょい、と動いた手がワイルドの唇に果物を運んだ。驚く間もなくつい、食べてしまった。
「……もうちょっと、堪能したかったな」
「堪能されると恥ずかしいだろうが」
「確かに」
 にやりと笑ったワイルドが今度はロレンスの口許へと果物を。ためらった末、唇を開く彼の目許は果物並みに染まっていた。
 不思議と誰も現れなかった。イザベラがそうしてくれているのか、それともエリナードもロイに捕まったまま朝寝をしているのか。優雅な長椅子に二人、体を寄せあって思い出話をしたり、少しばかり黙ってみたり。
「何を、どう言ったらいいものか、少し迷うのだけれど」
 ゆっくりとロレンスはワイルドの片腕を抱え込んで言う。それをワイルドは拒み、改めてロレンスの肩を抱く。それに柔らかな笑みが返ってきた。
「ようやく生きている。そんな気がするんだ、私は」
 胸の奥でわだかまっていた何かが、ロレンスの言葉で明確になる。ワイルドが感じていたものも、それだった。たぶんきっと、とてもよく似たものだ。
「これから先も君と共に生きていたい。いいだろうか?」
「なにを、今更」
「まだ返答をもらっていなかった気がした」
「……言ってなかった気もする」
「だろうが。さて、返答はいかに?」
「それは言わなきゃならないもんなのか? ――わかったから! そんな目で見るな、俺の失言だ!」
 身をかがめ、ロレンスの耳元でワイルドは何かを言った。ぱっとロレンスの頬が染まり、なんとも言い難いその表情。幸福そのものに染まっていた。




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