煌びやかでこそなかったけれど、丹念な手仕事が窺われる胴着。髪は丁寧に梳られ、無精ひげもさっぱりとあたってもらった。 「どうです?」 ロイが掲げる鏡の中の自分は知らない他人のよう。下級貴族の騎士とあってはこんな格好などしたことはない。普段ならば、笑って喜ぶだろうとワイルドは思う。上等な遊びだと。 「……こんな格好をさせて、なにがしたい」 ロレンスが死んだ。そればかりを思っている。ロイが肩をすくめ。覗きに来たイザベラは満足そうに出来栄えを見やってはまた去って行った。 「色々と、エリナードも考えているんだと思いますよ。ただ、やっぱり魔術師ですから。常人とは感覚が違いますし」 「違うな、確かに」 「それでもあまり苛立たないでやっていただけると嬉しく思います」 匿われているのか監禁されているのか、今となっては微妙な続き部屋に戻り、ロイは薬草茶を淹れてくれた。神官だと言うから、こう言うものはお手のものだろう。 「彼はフェリクス師にこの上なく愛されていますから。だからきっと、自分も誰かをかまいたいんだと思いますよ」 「はっきり言って、やり口が気に入らない」 「その気持ちはよくわかります」 ロイが笑う。向かい合って座って茶など飲んでいる気分ではない。それでも少し、気持ちが楽になる。そのぶん楽になどなりたくないと誰かが言う。 「腹は立っても、エリナードが誰かを陥れたなんて話は聞いたことも見たこともありません。それだけは信じてやってください」 にこりと笑う青年に、それを信じられたらとワイルドは思う。こうやって自分を助けてくれたのは事実だ。エリナードが、と言うべきか星花宮が、と言うべきかは迷うけれど、実際に動いてくれたのは彼だ。それは事実として感謝している。 けれどロレンスが。ロレンスのことは星花宮が頼まれたわけでもなんでもないのだろう。それでもなぜ彼を見殺しにしたのかとワイルドは思う。 公爵家を出て、修道院に入ったロレンス。その身の上の保護のすべてを失った彼が暗殺の危機にさらされるのは火を見るより明らかだったはずだ。ワイルドにわかることを星花宮が理解できなかったなど何の冗談だとすら彼は思う。 「エリナードは――」 不意にロイが言葉を切る。そして何かを待ったと思った途端、現れる魔術師の姿。ワイルドは絶句する。無論、エリナードにではなく。 「……ロレンス」 呟く声に彼がふらりとしつつワイルドを見やった。転移の衝撃というものらしい。その紫めいた目。見間違うはずもない。 「二人して俺の悪口でも言ってたか?」 にやりと笑ったエリナードが何気ない手でロレンスを導き、ワイルドにと預ける。彼の手を呆然と受け、隣に座らせ、それでもまだワイルドは呆然としていた。 「――彼は?」 当のロレンスは多少の吐き気に悩まされながらもロイを見ていた。ワイルドと共にいた美貌の青年を。それに気づいたエリナードが意味ありげに笑う。 「双子神の神官ですよ。ここは娼館で神殿ですから」 それだけでロレンスには納得ができたのだろう。疲れたようこくりとうなずく。さすがにロレンスは宮廷の中央にも位置する家の子息だった。双子神のことも知っていた。だからなのか、小さく笑った。 「はじめてお目にかかる、神官殿。卒爾ながら私はこの男と少々込み入った話がある。エリナードをもてなしてもらえるかな? 花代は私が持とう」 ぎょっとしたよう腰を浮かすエリナードをがっちりと掴んだのはロイだった。笑顔でそれをしたのだからワイルドもさすがに正気づく。 「ご懸念は無用に。エリナード、行こう。たっぷりともてなしてあげよう。花代は要らないよ」 「ちょっと待て、ロイ! だからお前とは別れただろうが!? 別れた男になに言ってやがんだてめぇは!」 「聖娼と客の間柄でそういう野暮を言うもんじゃないよ。別れた男だから花代は僕が持つと言ってるんじゃないか。おいで、エリナード」 腕を掴んだままロイは立ち上がり、にこにことしたまま、喚き散らすエリナードを引きずって行く。ロレンスがくすりと笑い、黙って頭を下げていた。 「……ロレンス」 二人きりになって静かな居間。ワイルドはただロレンスを見ていた。信じられなくて、信じたくて。なにをどう考えていいのか、わからない。 ロレンスもまた、ワイルドを見ていた。憔悴しきった眼差し。窶れた頬。それでも真摯に見つめてくる氷色の目。なにをどう言えばいいのかわからなくてただ首を振る。はっとワイルドが緊張した気がして、ロレンスは慌てた。 「いや……。なんで、死んだと、エリナードが……どうして……」 「君は何が聞きたい。私が死んだ原因か?」 「生きて、いるんだろう?」 「触ってみたらどうだ? 私は生身だと思うが」 悪戯っぽく笑うのはまるで従騎士時代のような彼。ワイルドは手を伸ばし、けれど触れられない。思うところがあり過ぎた。 「……まず、詫びたい」 「なにを?」 「見舞いと言うか、なんと言うか。ここに、来てくれたよな?」 言ってワイルドは軽く胸を押さえ、観念したよう首にかけていたものを外す。鎖の先に下がっていた自分の印章指輪にロレンスは唇をほころばせた。 「持っていてくれたんだな」 呟けば、ワイルドの不思議そうな顔。何を言っているのだとばかりに。その意味がロレンスにはわからなくて、戸惑う。 「あの日、俺は正直に言ってなにを言ったか覚えていない。ただ、言うべきでないことを言った覚えは、ある」 「ワイルド、君は何を言っているんだ」 「頼む。同期の誼と思って忘れてくれ。俺は何も言っていない、あんたは何も聞いていない。そういうことにしてくれ」 外した印章指輪をロレンスに返しもせずワイルドは握りしめていた。尖ったところのない指輪でも、そんなに握れば痛いだろうに。ロレンスは顔を顰めてワイルドの拳の上に手を置いた。 「忘れられると思うのか、君は」 「……だよな」 「なにを誤解している? なぁ、ワイルド。私がなぜ死んだと思っているんだ、君は。いい加減に正気に戻れ、面倒くさいぞ君は!」 「待て、ロレンス。何を言って――」 「あの日、私が言ったことを覚えていないのか君は。なんて逆方向に都合のいい耳をしてるんだ。私は言ったんだ、君が好きだから共に行くと言ったんだ。ちゃんと覚えておけ、それくらいは!」 「……は?」 「その反応はいくらなんでも失礼だぞ」 片目をつぶって顔を顰めるロレンスに、ワイルドはなにをどう言えばいいのかまるでわからない。ただぼんやりとロレンスを見ていた。 「だから、エリナードに頼んで死んだんだ」 どうあっても生きたまま宮廷から離れられるわけもない身分だった。ならば死ねばいい。あっさりと言ったロレンスにエリナードは笑って協力してくれた。 「君が使った手段だぞ。エリナードは私を迎えに来たと言うより、死体の入れ替えに来たんだ」 本物の死体としか思えなかったワイルドの亡骸。あれを用意したのは星花宮だとロレンスは聞かされた。ならば自分もそうしてほしいと。 「サール神の神殿に入ったのは、まず身分を離れる必要があったからだ。修道士は俗世から切り離されるからな。それだけでも、私は家から解き放たれはするが、要は一時、父を騙して修道院入りしただけだからな。いずれ連れ戻される。それだと君と共には行かれない」 だから死んだ。ロレンスは何度も言う。何度も何かを言っているけれど、ワイルドはそのたびに怪訝な顔をし続けている。困ったものだとロレンスが溜息をつくのにも気づかない様子だった。 「修道院長はリオン師の友人だそうだ。裏から手をまわしてくれたらしい。星花宮には本当に足を向けて寝られないよ」 まず修道院に避難をさせて、その上で死亡を偽る。露見すれば星花宮はただでは済まない。それでも笑って協力してくれた。 「なぜだと思う」 「……フェリクス師は、言っていたな。あんたは、親友の孫だと。だから守りたいと」 「ワイルド」 「なんだ」 「誰がその話をしている。私が、どうして、そこまでしたのか、君に、わかるか、と聞いているんだ」 「……すまん、わからん」 眼差しを下げれば削げた頬。ロレンスはそっと頬に触れる。それだけで雷に打たれでもしたかのようワイルドが跳び退りかけた。 「君は私に触られるのが嫌か」 「……嫌な、はずは」 「ならばなぜ逃げる。何度でも言うぞ。私は、君が、好きだ。聞いているか、ワイルド」 「聞いている、と……思う」 「ちなみに、友人として好きだと言っているのではないことは、理解しているか」 言った途端、ワイルドの目が丸くなり、ついで泳ぐ。長々と溜息をつくロレンスは、けれどしかし笑っていた。 「本当に、困った男だな。君は。私は、君が私を想ってくれるよう、君が好きだ。だから、君と共に行く。――だめか?」 最後だけは不安そうだった。卑怯だ、とワイルドは思う。そんなことをされて拒めるはずはないというのに。無言で差し出した手を微笑んで握ってくれたロレンスに、今度こそ言葉がない。言いたいことが多すぎて。 「――君が死んだと聞かされて、やっと私は。だから、二度と失いたくない」 友人としてあり続けるのはもう無理だと知ってしまった。ロレンスは笑う。少しずつ、霧が晴れて行く気分だった。夢から無理矢理覚まされている気分でもあった。それでも、現実は夢より甘いかもしれない、いまはもう。ワイルドの口許がようやくほころぶ。 「エリナードは、君には私が死んだとだけ告げてあると、言っていた」 「恨んだ」 「だろうな。だが、エリナードの気持ちが私にはわかるぞ。君は、目の前で現実を見てもこの有様だ。話だけ聞かせて信じられたか? 違うだろう」 ならば現物を見せた方が早い。エリナードは転移の前にロレンスにそう言った。どれほどワイルドが惑乱しているかとロレンスも正直に言ってエリナードを恨んだ。けれどそんな気もなくなった。 「魔術師特製の、少々過激なびっくり箱だったと思うが。――でも、私はここに生きている」 ワイルドの頬を両手で挟み、ロレンスは真っ直ぐと彼を見つめた。氷色の目が、翳り、揺れ。諦めたのか覚悟を決めたのか。きつく抱きしめられたロレンスにはどちらでも構わなかった。 |