なにも聞こえないはずだった。それなのに、体は。何が起きたのか、自分でもワイルドにはわからない。ただ激しい熱だけを感じた。頭の中が真っ赤になり、火を抱いているかのよう。 「まぁ、なんていうこと。寝台はそのように使うものではなくてよ」 涼しげで、それでいて妖艶な声。女の声だと言うことだけはかろうじてワイルドにはわかった。瞬間、すっと頭の中が冷えて行く。 「助かりました、イザベラ様」 長い溜息をつき、苦笑しつつエリナードが寝台から体を起こす。掴みかかっていたワイルドを押しやって髪をかき上げるその姿。ワイルドは別の金髪を思う。 「いま、何を……」 寝台の側、女が立っていた。円熟の極みにあるその姿。年齢そのものは初老だろう。それでもなお美しい色香というものがあるのだとワイルドは思い、だが感銘は受けない。心が凍った気分だった。 「あぁ、会ったことなかったですね、そう言えば。ご紹介しましょうか。こちらはイザベラ様。愛と欲望の双子神の神官で、この神殿の神官長ですよ」 乱れた衣服を直しながらエリナードが言う。ロレンス死去の報に激高した自分だとワイルドは意識してもいないらしい。危ないな、と思ってもいまはどうにもならない。 「この神殿? ここは、娼館だと言っていたはずだ」 「そうですよ。娼館で、神殿。それが青薔薇楼ですからね」 それだけのことだと言うエリナードにワイルドはぼんやりとしていた。それをさすがに訝しく思う。じろりとエリナードを見やれば薄っぺらい笑い声。 「だから、言ってるでしょ。神官ですから、この方は。隊長が――って言うのも変ですけどね、もうあなたは死んだことになってる人だし。でも他にどう呼んでも変だし――あぁ、いや。別にどうでもいいか。いや、ですからね、隊長が頭に血をのぼらせて俺を襲ったりするから、イザベラ様が助けてくださったわけで」 神聖魔法ですよ、エリナードはなんでもないことのよう言う。ラクルーサの騎士として、それほど魔法に馴染みがないわけでは断じてないはずだ。それでもこれほど易々と頻繁に魔法が登場するとワイルドでも混乱はする。黙って頭を振っていた。 「とりあえず、自力で冷静になってください。イザベラ様が魔法を解いた瞬間に襲われたんじゃ話にならない」 「なれるか! お前は……お前は……自分が何を言ったのか……」 「わかってますよ。修道士アルバート死去。そう言ったでしょうが」 挑発しているとしか思えないエリナードの言葉。にやりと笑った唇が何かを示唆してはいる。ワイルドに汲む気がないだけだった。それを見とったのだろうエリナードが小さく溜息をつく。そして再びにんまりと笑う。 「イザベラ様。ちょっと俺は出かけてきます。この人を頼んでいいですか」 「もちろんですよ。フェリクス師からも充分もてなして差し上げるよう頼まれていますもの」 「まぁ……もてなしのほうは危険なんで、遠慮してください」 苦笑してエリナードが呟く。さすがにこちらはワイルドにもわかった。「娼館」としてのもてなしは全力で拒む。無言で眼差しに語らせるワイルドを彼らは気にもしていなかった。 「じゃあ、夕方までには戻りますから。それまでに身づくろいはしといてくださいよ、隊長」 「どう言う意味だ。なんの意味がある。俺は――」 「あとでわかります、あとで。何はともあれ、風呂入ってひげくらい剃っとく! 俺はどうでもいいですが、見られたもんじゃないですよ?」 「そんな意味が――」 「あー、もう。めんどくせぇなぁ。イザベラ様、頼んでいいですか? 一応は怪我人なんで、そのあたりは汲んで磨いといてください。ちょっと急ぎます」 「いいですよ、行ってらっしゃい。エリナード」 ふわりと笑うのに柔らかな温かさの欠片もない笑み。母の年齢であるはずの人に女を見るのは居心地が悪い、そう思うのはワイルドにも不思議だった。第一、そんなことを考えられる状態ではないはず。それなのにどこか澄んだ場所がある。 「それが神聖魔法というものですよ。お出でなさいな」 イザベラに見送られたエリナードはすでに転移していた。ロレンスが死んだ。それだけが脳裏に漂い続けているワイルドだ。身づくろいなどする気にもなれないというのに。 「それとも、強引なのがお好みかしら? ここにはそのような役目の者もおりますけれど。いかがですか」 にっこり笑われてそれを言われたら立つしかない。断じてごめんだった。こんな身の上になってもまだ騎士の誇りがあったのかと思えば苦笑する。苦笑して、けれど握った掌が痛い。 「あぁ……。そうですね、これをお使いなさいませな」 何かを悟ったよう、イザベラは自らの首から一筋、鎖を外す。繊細な、飾りのついていない鎖だったけれど、それ自体が優雅な首飾りだった。イザベラは黙ってワイルドが握っていた印章指輪を鎖に通し、彼の首にかけてやる。 「これで入浴中に失くすことはありませんでしょう? さ、お出でなさいな」 女に手を引かれ、どこかへと。このまま消えてしまいたい。不健全なことを考えていた。そう思った途端、イザベラが振り返っては微笑む。心の内を読まれた気がした。 「あなたは、どうやら考えすぎのようですね」 「さあ。どうでしょう」 「ほら、ごらんなさい。今のあなたは他人に丁寧に接しなければならない、なんて心遣いを働かせる余裕はないはずですのに」 エリナードには掴みかかっていたではないか、イザベラは笑う。そうは言っても初対面の女性に当たり散らせるほど堕ちてはいない、ワイルドは小さく呟く。 「我慢のし過ぎは体にも心にも、そうですね、魂にもよろしくないでしょう。我々は生きている、生身ですもの。愛しい人がいれば触れたいと思うのはごく自然なことだと我々双子神の神官は考えますよ」 「なぜ、急に、そんな話に――」 「そのような悩みがあるのでしょう? 違ったかしら」 少女のようにくすくすと笑うイザベラにワイルドは毒気を抜かれた。どうにでもなれ、と自棄になっているだけかもしれない。エリナードとイザベラと。あるいはフェリクスまで噛んで何をしようとしているのか。まるでわからない。 「ロレンス……」 呟いてしまった名にはっとしてイザベラを見る。彼女は何も聞こえていない顔をしていた。そんなはずはないというのに。 ロレンスが、いない。死んでしまいたいとはこのことかと思う。自らの死を偽って、名前も身分も捨てて悔いはなかった。ロレンスを巻き込まずに済む。父公爵に彼は守られる。それだけが救いだった。それ、なのに。 「神々ならぬ人の身とあっては、言葉というのはとても大切なものですよ。そのように黙り込んで自分の中にだけ抱え込むのは、ただの泥沼というものでしょう。ご自身で解決のつくことですか、それは」 「いえ……。あ」 「見ているだけでわかるようなことですよ。そんな不思議な顔をなさらなくてもよろしいでしょう。そこまで大変なことならば、言葉にすることです。誰かがあなたの助けになり得ますからね。それに……あなたは最愛の方に何もお告げになっていないとか」 「そんなものはおりません!」 「好きなだけおっしゃい。我々を欺けるほどあなたは長く生きてはいないでしょう。エリナードにもわかったことが我々双子神の神官にわからないとでも?」 片眉を上げるイザベラにワイルドは口をつぐむ。何を言っても勝てそうにない。それに、口論などしたくない。いまはただ、ロレンスがいない、その事実にただぼんやりとしていたいものを。まだまだ認めたくなどないものを。 「本当に……強情な方」 ひょい、と伸びてきた手がワイルドの頬をなぞる。はっとして身を引くワイルドにイザベラは笑う。正気に戻れと言われている気がした。 「正気になど……戻りたくない。ロレンスが――」 「エリナードが戻るまでお待ちなさい。正気であれば、エリナードが何を示唆したのか、わかるはずですよ」 「わかりたく、ないのでしょうね」 皮肉に言うのは面倒になったせい。わかれと言うのならば、わかるようにしていただきたい。魔術師も神官ももうどうにでもなれと言う気分だった。 「エリナードはあれであなたを大変に気に入っているのでしょうね。少し、好みが変わったかしら?」 何を言っているのかこの女は。そんな目で見てしまってから慌てて神官長と紹介されたことをワイルドは思い出す。それに気づきもしないでイザベラは首をかしげていた。 「そうでもないかしら。磨いてみればわかることでしょうね。――あぁ、ちょうどいいところにいました。ロイ、手伝ってください」 そこにいた青年の一人をイザベラは呼び留める。ワイルドがいままで関係してきた男女に勝るとも劣らない美貌の青年だった。背中で一つに結った黒髪が一礼するとともにさらりと零れた。 「この方の入浴を手伝って差し上げてください」 「待ってください、私は――」 「先ほど彼も言っていましたが、少々男臭すぎますよ。最愛の方の前に出ても恥ずかしくないくらいの身づくろいはしておくべきでしょう」 それとも自分に入浴の手伝いをしてほしいのか、笑ってイザベラは言う。冗談ではなかった。それくらいならば自力で入る。 「ロイ。こちらはエリナードのお客様ですよ。ちょうどいいでしょう。ロイはエリナードの敵娼ですよ、共通の話題がありましたね」 にこりと笑ったロイが怪我人、と聞いてワイルドの手を取る。振りほどこうとしたけれど、意外と力が強い。自分が弱っているだけかもしれないとワイルドは溜息をつく。 「お手伝いしますよ。ご心配なく、望まぬ奉仕は双子神の忌むべきところ。あなたがお望みでないのならば何もしませんから」 微笑むロイを以前ならば魅力的と見ただろうとワイルドは思う。いまはただ、何を感じることもできない。青年に肩を借り、ワイルドは抵抗すら放棄するばかり。 「エリナードは相変わらず子供のような無茶をしますね。あなたも犠牲者ですか」 娼館だけはある、艶めかしい風呂でする会話ではなかった。ロイはからからと笑っていたし、怪我人の手伝い以上のことは決してしない。 「犠牲者、だな……」 なんの犠牲だろう。自分が払ったのはなんだろう。すべてを失くすつもりで、一番大事なものを失った。両手を見つめてワイルドは小さく彼の名を呟いていた。 |